『私がこれだけ尽くしているのだから、あなたも応えて』
拒絶反応を起こす言葉であります。
それと同等の行為を、私は彼女に振舞ってやいないだろうか。
見返りを求めないものこそ、本当の愛とは言いますが。
美輪明宏の本に、「恋と愛の違い」について書かれている。
誰でも一度くらいは考えた事がおありでしょう。
私の浅薄な持論と致しましては、
恋は一人称、愛は二人称であると考えます。
二人で生活しているのだから当然と言えば当然ではありますが
お互い思いやりの気持ちを欠いては、同棲生活など成り立ちやしません。
私は常に新の事を考えて生活しているつもりですが、
結果的には自分を満たす為に彼女を大切にしているのではないかと
思ってしまう事もあります。
大切に出来ているかどうかは別として。
「相手の立場になって」という言葉がありますが
どうにも理解出来ません。
一般論的に推測する事は可能ですが、人と自分は違います。
「相手」の立場で考えようとしても「私」が考えているのだから
結局は「私の立場」になるのではないか。
要するに、相手にされて嫌な事はしない、されて嬉しい事をする、
そういう事でしょう。
そこから生まれる思いやりの心。
しかし私は、とんでもない勘違いをしていた。
私が良かれと思って起こす彼女への行動は
時に彼女を憤慨させます。
新「勝手に私のオムライスにマヨネーズをかけないで!」
頼「あわわ・・・要らなかった?」
結果的に相手に不愉快な思いをさせてしまった場合、
私は好意を押し付けたにしかありません。
極論ではありますが、次の言葉が愛なのではないでしょうか。
「いいよ、頼は知らなかったんだから・・・」
では次はどうか。
「最低!こんなの食べられないよ、どうしてくれるの!」
相手の失敗を攻め立て不機嫌に陥る行為、そこに愛はない。
「そんなに怒ることないやんか!」
「余計な事したのはそっちやろ!」
最悪の場合、喧嘩に発展してしまいます。
もちろん新の対応としては前者です。
いつも私が先に歯磨きをするので
ついでに新の歯ブラシにも歯磨き粉をつけておきました。
「私、もう歯磨きしたよ」
またしても、好意が裏目に出てしまう。
それでも新は、もう一度歯磨きをしてくれた。
私の観察力の無さについては、何も触れないで下さい。
恋とは自分本位なものであり、愛とは相手本位なものである。
美輪明宏さんはそう綴っている。
例えば、食事の仕方が気に入らないとか約束に遅刻したとか
相手と意見が食い違ったとかいう理由で腹を立てる。
要するに自分の欲望を満足させるために相手が必要なだけである。
自分の事をかまって欲しい、心配して欲しい、気を使って欲しい、
これは恋であり、愛と勘違いしやすい。
愛とは相手が遅刻をすれば心配し、病を患おうが靴下が臭かろうが、
全てを許し受け入れるものであると。
愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気が付けばそこに在るものだとか
有名な何とかチルドレンも歌っていましたしね。
その通りだ。
私は自分が恥ずかしい。
たかがセックスを拒否されたくらいで、
激しい怒りと悲しみに駆られてしまった。
相手が自分の思い通りにならない事に腹を立てたのだ。
私は新を愛していないことになるのだろうか。
自己啓発に捕らわれすぎるのも良くないが、
時には冷静に自分を分析する事は必要だ。
人の言葉を参考にする事も大切である。
「新もこんな本読むんだね」
「美輪明宏は私の師匠だよ」
「私も弟子になろうかな。笑」
「頼は無理だと思うよ」
・・・な、何で?
気にしてはいない。
セックスを拒否されたことなんか、全く気にしてはいない。
「新は疲れているんだね、明日2回すればいいや」
これこそが愛。
気になんか・・・していない。
今はまだ恋でもいい、本物でなくていい。
いつか愛に変わるまで。

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