昭和38(1963)年「川柳平安」7月号
掘豊次の創作なし。
この時代の表出法の一例
沈黙の支配の中の黄な蕊 溝口晏子
逡巡する涙の膝の爪やすり
音のせぬ硬貨と抑制をしている 坂根寛哉
めがねふきながら正義が世にとぼし
金ためる策のめばえをわびしとも 北川絢一朗
階段が重い失意の足のうら
「沈黙の支配」と「黄な蕊」、「逡巡」と「爪やすり」、「抑制」と「音のせぬ硬貨」、「正義が」と「めがねふきながら」、「策の」と「わびし」、「失意」と「足のうら」、思い(主に感情や主観)を率直に書いた言葉と、それを修飾する言葉の二つで一句になっている。
「黄な蕊」「爪やすり」「硬貨」「めがね」「金ためる」「足のうら」など日常生活の範疇に、句意の真実性が込められており、川柳に作者の日々の慨嘆が書かれていると読める。心性の表出レベルが三句とも等質なので、表現法と書き方も等質だといえる。モノローグの真実性とも、日常の心性のリアリティーとも言っていいが、当時、これが退屈だとの印象はなかった。読者〈私〉と、作者〈私〉の作品の授受はストレートで、日常的な共感があった。
このような共感性の上に立って、掘豊次に、庶民の文芸である川柳との認識があり、その上昇意欲の土壌を選句欄によって敷衍する「新撰苑」があった。革新志向の強い河野春三、山村祐、松本芳味、宮田あきらに、豊次の活動は一般的な川柳界からやや脱け出る活動と見えていたはずである。一般的な川柳界と革新派の離れているのを繋ぐパイプ役を、豊次が目指していたことは、もう衆知のこととなっていた。結果的に川柳界への刺激的な啓蒙活動の場「新撰苑」であり、川柳界では、革新派の句の並ぶ投句欄との大方の見方であっただろう。こののちも「新撰苑」は昭和53年1月号の「川柳平安」誌終刊まで100数十冊におよぶが、革新派の眼に意識され続けられつつ距離感があり続けた。川柳界と革新系を往き来したのは岩村憲治と石田柊馬だけであり(二人ともこの頃はまだ「新撰苑」に投句していなかった)、のちに短い期間に木村太郎と渡辺和尾が憲治と同じように革新派に認められたが(のちに彼等の「新撰苑」への投句があった時期で触れる)、キャリアも年齢も上の定金冬二、坪井枯川、寺尾俊平、泉本玲子らの「新撰苑」の句は、川柳界ではごく一部だけに認められただけで、革新派からも離れた認められ方に終わった。
一般的に川柳界は、川柳の質についての蒙を開かれるなどを望んでいなかったのであり、それを承知の掘豊次の川柳活動であったのである。
新撰苑上位
猟銃は猟銃にして哀しかり 定金冬二
猟銃のこころ解せず摑まれし
猟銃の自負に醜き掌をきらう
墓地移転の際亡友に会う
ポエジイを貪り髑髏ただ冷静 中村土竜庵
闇を吸う眼窩髑髏の媚態とも
相対す髑髏と髏に風流る
靴底へ貼りつける生きへのトリックを 服部たかほ
嫁にすけだちする長い垣根だ
人生を食べてしまっている女 中西一調
底が抜けた人生に母が座る
安易なリズムにティンパニーは夢を賭ける 山本ひよこ
ものうげにピアノは人生を叩く
渦巻の中に宙釣りの僕を見つけた 桝井碧水
しあわせを押しつける青梅が落ちるのに
昭和38(1963)年「川柳平安」8月号
共有の階段遠き鞭聞こえる 掘 豊次
靴買うて映画は二年ほど見ない
心に棲む異性と遮断機があった
心の中の炎天歩き何を得し
雷はげしわれら含めて人間不信
思想なき軟骨反応釜は透明 山本 礫
(人間回復)を叫び秒速に射ぬかる
怠惰な視野拡がればガスの匂いす
ポストに佇ち他人の征服を許す
表札なきあすを描きたり楽し
洗濯機は洗う炊飯器はたく単純なロボット 所ゆきら
胡瓜とまとなすび南京りんご昆虫食だね
カンヅメを発明した奴はだれだろう食卓
横の長さにすべてぶらさげる物干しばさみ
ちょっと歩けるようになった口数が増える
新撰苑上位
胸壁へ展がるどろんとした夕陽 服部たかほ
ビルの背をよじ登るきょうの亡霊たち
ことばの窮乏を続けながら雑草をむしる
孕めば青き筋の神のむちうつ 中西一調
撃ち抜かれた腕の悲風錆びつく
足うらに失意が渦を巻いている
ヴァイオリンは一挺運河を浮いて流れる 山本ひよこ
拡大された楽想が香りを振りまく
夜の輪を齧ってスフィンクスの出棺 荒木繁夫
風は風をよぎり蛙の骨片を創造する
妥協なきそのセトモノの破片である 定金冬二
麦もサンマも天から降らず人憎む
川柳界で豊次選を望むこころがどの様にあったかは知り難い。個々人の意欲は多様であったはずであり、そこに庶民の川柳の、近代化を享受し戦後の民主主義になじみ、東京オリンピックが翌年にある日本の、経済の急激な上昇の反映があった。京都の川柳界の大同団結を名乗った平安川柳社が、なによりも大切にしていたのは結社の和であった。一党一派に偏しないという具体的な活動が庶民生活の心性の多様さに対応していたのであり、「新撰苑」の投句者数は増えていったのであった。川柳界の一般的な眼から見れば、異端である革新派の川柳が「川柳平安」という川柳界で注目を集める柳誌に載っている。これを認め、これを世の中の流動性として川柳の幅が広がることを、社会の自然と受容するところにまで、川柳は広がっていた。
この頃以後、投句者の数が増すが、スペースを広げなかったことが「新撰苑」のレベルを上げていった。やがて上位入選者の顔ぶれに厚味と移動が見え始めるのである。異端とか革新とかの視線はありつづけたが、川柳という文芸の、レベルについての意識が展開される投句欄、という印象を広げていったのである。