●はじめに
当サイトは一定レベル以上の鉄道知識を有する方を対象に、内容・文言を選定している。
従って、説明解説の類は、電子回路など、非常に専門的なものに軽く添えるか、入門者・お子様・そのお子様の親御さんを対象とした、平易なものを付加するにとどめている。
しかし、今回紹介するこの列車は外国型であり、社長である私自身も含めて、日本型ほど多くの情報を有している方は少ないと思われる。そこで、実車及び模型について、若干長いが解説を試みる。なお、文体がエラそうであるが、これは、模型とはいえこの列車の「格」を考えると、軽薄な内容ではそぐわないと判断したためである。読者諸兄に置かれては、文中の誤記誤謬ご指摘頂けると幸いである。
本稿を開闢する。
●実車について
「オリエント急行」
世界で最も名前を知られているであろうこの列車が登場したのは、1883年10月である。「汽笛一声新橋を」が1872年であるから、ほぼ日本の鉄道そのものと同等の歴史を有していることになる。
従って、この列車について語ろうとするならば、それは恐らくそれだけで1冊の本が書けるほどの情報量になろう事は容易に想像が付く。そこでここでは、運転の歴史的経緯、車輛について、概略を記す。なお以下、列車名をOEと略記する事がある。
1.運転の歴史

(「オリエント急行」教育社・1985)
首記したようにオリエント急行の運転開始は1883年。パリよりミュンヘン−ウィーン−ブカレストなどを経由し、欧亜境界であるトルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)までを結んだ。当初ドナウ川、及び最終区間であるブルガリアのヴァルナ−コンスタンティノープル間は渡船連絡であったが、1889年には全区間列車運転となり、当初計画通りの運行となった。運転本数は週1便、所要67時間半であった。週単位のダイヤは、毎日運転が当然の日本の列車に慣れていると違和感を覚えるが、現在も国際便の航路・航空路は「週○便」という運行形態が多々あり、それと同様である。なお、「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」の運行が、こうしたオリエント急行のスタイルを意識していることは言うまでもあるまい。
その後OEは順調に利用客を増加させ、1次大戦後の1919年には、瑞伊国境を結ぶ長大トンネル、シンプロントンネルを経由し、イタリアからユーゴスラビア(当時)を経由する「シンプロン・オリエント急行」が登場する。地図を引き比べていただければ判るが、このルートは大幅なショートカットとなり所要時間も56時間と半日短縮、一躍メインルートに躍り出た。集まる人気に続々と姉妹・派生列車も登場、「…オリエント急行」を名乗る列車は計4系統となった。そして1930年代、この東方行き国際列車はその最盛を迎える。この頃の運転本数は、例えば、オリジナル「オリエント急行」が週3便、「シンプロン・オリエント急行」は毎日運転であった。更には線路を飛び出し、クリスティ作品「オリエント急行殺人事件」に登場するのもこの時代である(007/ジェームズ・ボンドは1956年)。しかしほどなく第2次大戦が勃発、オリエント急行群の運転は休止された。終戦後復活したが、冷戦構造や航空機の発達で斜陽化、座席車が連結され学生も乗るようになるなど、かつての栄光は失われた。そして1977年、シンプロン・オリエント急行の命脈を辛くも保っていた「ダイレクト・オリエント急行」の廃止により、定期列車としての歴史に幕を下ろす。
そんな栄光の「オリエント急行」復活は、豪華客船と同じコンセプトの「観光列車」としてであった。廃止後売りに出された客車を企業や富豪が買い取り、旅を楽しむ列車として、往時のスタイルに近づけて運行を再開したのである。これが「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」(NIOE)や「ヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」(VSOE)であり、追ってフランス国内の保存車による「プルマン・オリエント・エクスプレス」(POE)も登場、世紀を越えて現在も営業運転を行っている。そして1988年、このうちNIOE編成がユーラシア大陸を走破、香港より海路日本に上陸、日本中を走り回ったのはあまりにも有名である。なおこの走行のため、NIOE編成はJRに在籍させる必要があり、ここに短期間ではあったが、正規ワゴン・リ客車がJR東日本の所属車として記録された(表記東シナ)。

なお、後にこの写真のプルマン車4158が、箱根のラリック美術館に買い取られ、作品の一つとして展示され、余生を過ごしている。また、これらと別に琵琶湖畔の遊園地「紅葉パラダイス」に買い取られた車輛もあったが、残念なことに同園の閉鎖と共に失われた。
(
【2号車】へ続く)
(2008/01/27訂補)

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