ルールを守れ  様々な話題

熊本市議会に、
緒方夕佳という女性議員が
赤ちゃんを連れて議場の席に着いたことが話題になっている。

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熊本市議会の議会規則には、
赤ちゃんを連れての出席は想定されておらず、
(当たり前だ)
議長らとの協議の結果、
緒方市議は、知人に赤ちゃんを預けて、
1人で席に着いたが、
議会は40分遅れで開会する事態となった。
(熊本市議会の議員数は49人。
40分×48= 1920分で、
合計32時間の時間を
他の議員から奪ったことになる。)

熊本市議会では
「議員以外は傍聴人とみなす」
としており、
加えて、傍聴規則で
「傍聴人はいかなる事由があっても議場に入ることができない」
と定めている。

緒方市議は妊娠発覚直後、
議会事務局に
「市議会に赤ちゃんを連れてくることができないか」
と相談をしていたと説明。
だが、事務局から前向きな返答が得られなかったため、
(当たり前だ)
このような行為に及んだという。

当然、「会社に子連れで来てもいいというのか」という議論になる。
普通、許されることではない。
許されるとしたら、会社がそういう方針を取る場合だ。

最近では、子連れの勤務を認めている会社もあるようだが、
その場合、託児所を併設するなどの措置をしている。

この問題を「子育て問題」に関連付けるむきもあるようだが、
それはそれで議論すればいい問題であって、
問題を解決しないまま、
子連れを強行したこの女性の行為は許されるものではない。
「(子育てが)社会問題になっているのに、
職場では個人的な問題にされてしまう」
と訴えていたそうだが、
だったら、正規の手続きを踏んで提起すればいいことなのだ。

この女性、インタビューを受けて、
涙を拭いていたが、
信念ある行為をしたのなら、涙なぞ見せるな、といいたい。
社会問題だといいながら、
最後は「女の涙」を武器に使うとは、卑怯千万である。

時々、このように、自分の権利ばかり主張して、
周囲に迷惑をかける人物が登場する。
このような人を議会に送り込んだことで、
熊本市民は恥ずかしく思うべきだろう。


続いて横綱日馬富士の暴行問題

真相はこれから解明されるわけだが、
親方の貴乃花の行動がおかしい。

事件後、すぐに警察へ被害届を提出したにもかかわらず、
日本相撲協会に報告していない。
貴乃花は相撲協会の巡業部長なのに。

組織内の出来事が
外部から指摘されるほどみっともないことはない。
事実、事件はマスコミの報道で明るみに出た。

事件の翌日、日馬富士と貴ノ岩が謝罪しあっていた、
という目撃情報もあり、
ならば、被害届けを取り下げればいいのに、取り下げない。

更に、貴ノ岩が初日から休場。
その場合は2日前、
つまり前の週の金曜日までに診断書を出すというのがルールなのに、
診断書が出てきたのは場所2日目。
これもおかしい。

そして、22日、協会執行部から
危機管理委員会が貴ノ岩の聴取を行いたい意向を伝えられた際、
「お断りします」と拒絶。
組織人であるなら、
協会執行部の要請は受けるべきだろう。
執行部の要請が無理無体なわけではない。
真相究明には本人の話を聞く必要があり、
当然の要請をしたまでだ。

このように不可思議な行為を取るから、
「理事長選の思惑だ」
などと痛くもない腹をさぐられることになるのだ。


更に、大相撲九州場所11日目(22日)に、
横綱・白鵬が前代未聞の物言いをつけた。

結びの一番で関脇・嘉風に寄り切られた後、
立ち合いの不成立を主張。
西土俵下で白鵬は右手を上げてアピール。
正面の山科審判副部長(元小結・大錦)を見つめた。
「土俵に上がってください」。
白房下の式秀審判委員(元幕内・北桜)に促されても
「物言いです。待ったです」と連呼。
62秒間、土俵に上がらず勝ち名乗りされる嘉風の邪魔をした。
打ち出しの拍子木が鳴ると今度は土俵に居座り、
最後は礼もしないで引き揚げた。

白鵬が問題視したのは立ち合い。
嘉風に左の張り差しを見舞い、
組んだ後、白鵬は、
「待っただと思った。呼吸が合わなかった」
として、力を抜き、
そのまま嘉風に寄り切られた。

↓のビデオを見て分かるとおり、

https://youtu.be/TxPw1PWu3SU?t=253

土俵に両手をついて待つ嘉風に対して、
白鵬は両手をつき、
立ち上がり、張手を見舞い、
ぶつかり、組んでいる。
どこが「待った」なのか。

しかも、審判規則では
物言いをつけられるのは、
勝負審判(5人)と控えの力士だけの規定がある。
軍配に対しての物言いは
相撲を取った本人にはできないのだ。

なのに、クレームを付け、
土俵下と土俵上に2度も居すわった。
そして、礼をせずに退去だ。
「礼で始まり、正々堂々と勝負が成立して、礼で終わる」
のが相撲道。
それを、手本になるべき横綱が踏みにじったのだ。

かつて、2014年夏場所12日目に、
豪栄道が鶴竜をはたき込み、土俵下に転がした。
軍配は豪栄道だったが、
勝ち残りで控えにいた白鵬は
「(豪栄道の手が)まげに引っかかっているように見えた」と物言いし、
ビデオ確認と協議の結果、
まげつかみで豪栄道の反則負けになったことがある。
白鵬は、その時の記憶で、
物言いが通ると思ったのかもしれないが、
あの時は、控え力士だからできたのだ。

翌23日、審判部の呼び出しを受けた白鵬は、
審判部幹部の伊勢ケ浜部長(元横綱・旭富士)、
藤島副部長(元大関・武双山)、山科副部長(元小結・大錦)ら
3人に謝罪したという。

謝罪を受けた伊勢ケ浜部長代理は
「真摯に受け止めて本人も反省している」と様子を語り、
物言いを付けられるのは、勝負審判と控えの力士だけという審判規則については、
「それも教えました。ルールについてきちんと把握してもらえるようにね」
としたという。
また、「負けても土俵に上がって礼をするルールがある」ともいう。
ルールというより、これは「精神」だろう。

心からの謝罪ならいいが、
モンゴル出身の相撲取りは、
相撲をスポーツと勘違いしているのではないか、
という疑念は残る。


ここで話は飛ぶが、
昨年3月、国連本部で開かれた会議で、
韓国の国連大使らが
「北朝鮮に国連加盟国としての資格があるのか疑問視せざるを得ない」
という発言があったという。

北朝鮮は国連加盟国でありながら、
ミサイル開発に対する再度にわたる国連の勧告を無視し続けている。

組織に入りながら組織の命令を聞かないというのなら、
脱退すればいいのだが、それもしない。
次に考えられるのは「除名」しかない。

国連の前身である国際連盟では、
連盟の約束や義務に違反した国に関して、
理事会の全会一致で追放されることが定められており、
その規定に従って、
1939年にはフィンランドに侵攻したソ連が除名されたことがある。

現在の国連では、
「憲章に掲げる原則に執拗に違反する加盟国は、
安全保障理事会の勧告に基づいて、
総会が除名することができる」
(第6条)と定められている。

では、なぜ除名しないか。
国連から除名された場合、
その国は国際的にもはや「一人前」とはみなされにくくなる。
しかし、問題の国がもともと国際的に孤立していれば、
「除名」の影響は必ずしも大きくない。
更に、国際的な舞台から排除されれば、
行動を一層エスカレートさせたとしても、
それを制止することがさらに難しくなる。
そのため、「除名」がそのまま
問題解決につながるとはいえない、のだという。

すでに国際的に孤立している北朝鮮に、
「除名」だけで行動を改めさせることは、
ほとんど期待できない。
そのため、関係国も
必要以上に北朝鮮を追い詰めて、
さらなる挑発行動をとらせる口実を与えることは避けているというのだ。

現実にはそうかもしれないが、
だとしたら、国連とは何なのか
ミサイルと核開発をする無法国家になすすべがないなら、
国連など必要ないだろう。
ルールはルールとして、
破る国家に対して毅然とした態度を取らずに、
何が国際・連合だ。

最近、国連は慰安婦問題について、
韓国や中国の主張を鵜呑みにした勧告を出したり、
中立性を保てず、政治的に利用されてばかりいる。

ユニセフも記憶遺産で、
中国・勧告に政治的に利用されてばかりだ。

肥大し、官僚主義がはびこり、
費用ばかりかかって
何の役にも立たない国連の存在意義はあるのか。



小説『むーさんの自転車』  書籍関係

[書籍紹介]

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昭和から平成に年号が変わった春、
高円寺商店街の和菓子屋「松野屋」の一人息子の正雄は、
高校には入学したものの学校なじめず鬱々としていた。
入り婿の父は和菓子職人ではなく、
菓子作りは渡り職人のゲンさんに任せて店番をしている。
そんな父親にかわり、
正雄のあこがれは、
松野屋に米を卸してくれる米屋の「むーさん」(武藤)だった。
鉄の塊のような自転車に乗って米を配達する姿がかっこよかった。

婿養子の鬱屈から父が高利貸しから金を借りて興した事業は失敗し、
店はその高利貸しに取られてしまい、
父母は離婚し、
夜逃げ同然に高円寺の町から出た正雄は、
信濃のむーさんの実家に預けられ、
そこで和菓子屋に修業に出る。
いつか高円寺に戻ると、むーさんに約束して。

しかし、そのむーさんに病魔が迫っていた・・・

というわけで、一人の青年の成長物語
祖父からの和菓子屋を父の代で潰され、
遠い長野の地で修業し、
やがて高円寺に戻って、小さな和菓子屋を開くまでを描く。

登場人物がみな善人で、心やさしい人たちだ。
店がつぶれかけても、けなげにおにぎりを作って売る母親。
長野の実家のむーさんの母の和子もいい人だ。
隣のリンゴ園の川上夫妻、
正雄を修業させてくれる矢萩堂の大将、
その息子のバンドに夢中の良介、
むーさんの友人でライブハウスをしている横山、
阿波踊りの一揆連のリーダー斎藤さん。
みんな暖かく正雄を見守ってくれる。

恋愛模様もある。
同級生の中島小百合、
矢萩堂の娘の恵子、
一揆連で知り合って結婚するはるか。
中島小百合はアイドルとしてデビューし、
その姿に刺激を受けて、
正雄は和菓子職人になることを決意する。

こうした魅力的な人物たちの背後に流れるのが
高円寺の阿波踊りのまつり
そして小林一茶の句。
信濃のむーさんの実家は一茶のふるさとだった。

木がらしに しくしく腹の ぐあい哉
手招きは 人の父也 秋の暮
外は雪 内は煤ふる すみかかな
寒き夜や 我身をわれが 不寝番(ねずのばん)
大の字に 寝て涼しさよ 淋しさよ

などの句が正雄の心象を表現する。

取り立てて悪人も出て来ない、
善意に包まれた人々の織りなす
人情あふれる心温まる物語

作者は、直木賞をとった「高円寺純情商店街」のねじめ正一



映画『婚約者の友人』  映画関係

[映画紹介] 

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第一次世界大戦が終わってから1年後のドイツ。
戦争の記憶が失せないまま、
フランスとドイツの憎しみは消えていなかった。

アンナもその悲しみの中にいる一人。
婚約者のフランツを戦争で失い、
フランツの両親と暮らしながら、
墓を訪ねては涙する毎日だった。

そんな中、アンナはフランツの墓に花を手向けて泣いている
フランス人青年アドリアンに会う。

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フランツと戦前のパリで友情を育んだと語るアドリアンに、
フランツの両親は、まるで息子が帰ってきたかのように歓迎する。

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しかし、心の通じたアンナにアドリアンは、
ある秘密を告白するのだった・・・

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というわけで、
戦死した婚約者の友人を名乗る男性と、
残された婚約者や遺族の交流を描く人間ドラマ
監督はフランソワ・オゾン

元々はモーリス・ロスタンによる戯曲で、
既にエルンスト・ルビッチ監督が
「私の殺した男」(1932)という題で映画化している。

ただ、ルビッチ版がアドリアンの視点で描いているのに対して、
オゾン版はアンナの立場から描く。
更に、後半部分が前作と大きく違い、
アンナの出した手紙が受取人不在で戻ってきたことから
アンナはアドリアンに会うためにパリに出かける。
アドリアンは住まいを変えており、
所属する管弦楽団にも姿が見えない。
アドリアンが入院した病院で退院後の住所を探したアンナは、
驚くべき事実を知ることになる・・・

というあたりは、ミステリアスな展開。
あの訪ねてきたアドリアンは、
実は亡霊ではないかと思わせたりする。
真相を探り当てたアンナには、
苦い結末が待っているが・・・

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背後にあるのは、第一次世界大戦の傷跡。
ドイツの町の人々はフランス人の青年に冷たく当たるし、
フランスを訪ねたアンナには、人々の冷たい視線が待っている。
また、窓外を見るアンナの車窓のガラスに、
ドイツ軍の攻撃を受けて瓦礫と化した町が写っている。
パリのレストランでは、
国歌を歌う人々に遭遇する。
その国歌の歌詞は、
敵を憎み、攻撃する内容だ。
「武器を取れ市民らよ
隊列を組め
進もう進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!」

フランツの父親が
反フランスで団結する友人たちに
「我々の息子たちも戦争で死んだが、
フランスの若者たちも死んだ。
それをさせたのは誰か
我々大人たちだ。
責任は我々にある」
と諭すところは感動的だ。

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映画には仕掛けがあり、
現実のシーンはモノクロで描かれ、
回想や想像や願望や高揚の場面になると、
淡く色彩が付けられる。
それが最後のくだりで雄弁に語りかける。

戦争によって奪われた平和な日常への憧憬を描く、
佳作である。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/_daS4k-6IJE

シネスイッチ銀座で12月1日まで。
12月2日からシネマカリテ新宿他で上映。

なお、マネ「自殺」という絵↓が

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重要なモチーフとなっている。
マネにこんな絵があるのは、知らなかった。

また、ショパンノクターン20番が効果的に使われているが、
ヴァイオリンとピアノとの編曲で
こんなに素晴らしいとは思わなかった。

楽譜とピアノ演奏は、↓をクリック。

https://youtu.be/M4I_53FsH14

ヴァイオリンとの演奏は、↓をクリック。

https://youtu.be/srfXtxF298g

タグ: 映画

海岸線緑道  わが町・浦安

浦安市の広報紙に、
↓のようなお知らせが載っていたので、

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緑色の路線、「海岸線緑道」
先日の暖かい日、自転車で出掛けました。

ここが始発点。

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図の左下の「現在地」のところ。

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きれいに整備されています。

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ここは、浦安を縦断する「境川」沿い。
旧江戸川から水門でつながる運河で、
浦安が漁村だった時代、
この川から海に出ました。

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今は高層マンションが立ち並びます。

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川の向こう岸もマンション群。

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カヌーで遊ぶ人もいます。

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ここが河口。

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そこにある展望台。

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こんな景色。

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東京湾沿いの道で、

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幕張新都心が遠望できます。

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左側は公園。

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建設中のホテル。

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浦安のホテルは、東京ディズニーランドの客で好稼働。
まだまだ増えています。
このホテルは夏の花火大会の真ん前ですから、
屋上を泊まり客に開放するのではないでしょうか。

東京湾を右に見ながら走ります。

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この碑は、

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ボランティアによる1万8千本の植樹を記念する碑。

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この近くには、市営の墓地公園があります。

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私の父母も、ここに眠っています。

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角の展望台。

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ここからの景色。

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幕張新都心が近くに見えます。

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90度曲がって、西へ。

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自転車路と歩道が分けられ、

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目安の距離が表示されています。

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このあたりには一戸建てが沢山並んでいます。

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ここは、昔から「三番瀬」と呼ばれている場所です。

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下に入るのは禁止されているはずですが、
いつの間にこんなものが作られ、

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釣り人の姿が。

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よく見ると、水着姿の人も。
泳いだのでしょうか。

水辺の鳥。

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これは京葉線

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水は穏やかです。

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↓の右下の「現在地」で、

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終点です。

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浦安の「海岸線緑道」でした。


ドキュメント『世界を見た幕臣たち』  書籍関係

[書籍紹介]

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近代日本外交の始まりとされる
明治4年(1871)年の岩倉遣欧米使節団以前に
徳川幕府によって7度にわたって使節団が派遣されている。
本書は、その軌跡をたどり、
その後の日本の近代化にどのような影響を与えたかを探る。

序章 世界を見た三人の漂流者―遣外使節団前史

まず使節団派遣に先立ち、
個人的に世界を見た3人の漂流民を上げる。

その1は、大黒屋光太夫
大嵐で漂流し、カムチャッカ列島の小島に到達し、
イルクーツクからペテルブルクへ行き、
女帝エカテリーナ二世と謁見した。

次にジョン万次郎
大嵐に遇って鳥島にいたところをアメリカの捕鯨船に救われて、
ハワイへ。
船長の誘いを受け、アメリカ東海岸のフェアヘブンで教育を受け、
カリフォルニアの金山で働き、
ハワイから琉球、そして鹿児島へ。

3人目は浜田彦蔵
暴風に遇って漂流していたところをアメリカの船に救出され、
サンフランシスコへ。
キリスト教に改宗し、帰化申請してアメリカ人になった。
つまり、帰国した時は、アメリカ人としてやって来た。

この3人を序曲のようにして、
ペリー来航により、鎖国政策を転換した幕府は、
その後、諸外国との交渉において、
7回、欧米諸国に使節団を派遣している。

順に紹介する。
(年号付きの日付は旧暦、西暦付きの日付は新暦)

1章 万延遣米使節団
安政7年1月18日〜万延元年9月28日
(1860年2月9日〜1860年11月10日 約9カ月間)

目的は日米修好通商条約の批准書交換
アメリカ軍艦ポーハタン号と咸臨丸の2隻体制で、
ハワイ→サンフランシスコ→パナマ→ワシントン→
列車でボルチモア→フィラデルフィア→
船でニューヨーク→
船で喜望峰、インド洋、東南アジアを回って帰国。
つまり世界一周。
帰国したら、いない間に桜田門外の変が起こっていた。
使節団は105名の大部隊。
その中に福澤諭吉や勝海舟もいた。

2章 文久遣欧使節団
文久元年12月22日〜文久2年12月9日
(1862年1月21日〜1863年1月28日 約1年間)

目的は江戸・大坂・新潟・兵庫の開市開港延期交渉
イギリス軍艦オーディン号に乗り、
香港→シンガポール→セイロン→アデン→スエズ→                 
蒸気列車でアレキサンドリア→
船でマルタ島→マルセイユ→
列車でパリへ。
その後、ロンドン、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルを回る。
その時、派遣団は、
それまで西洋との唯一の窓口だったオランダが
ヨーロッパの中では小国であったことに気づいてしまったのだ。
使節団は38名。
またも福沢諭吉がメンバーに入っている。
ロンドンでは万博の開催中。
日本館はイギリス公使オールコックの手配によるもので、
幕府は関与していない。

3章 文久遣仏使節団
文久3年12月29日〜元治元年7月18日
(1864年2月6日〜8月19日 約6カ月半)

目的は横浜鎖港交渉
使節団は36名。
全員初海外だった。
柳橋の芸者が1人参加。何のためか。
パリまでのルートは前回と同じ。
結局横浜鎖港の要求はフランスに拒否され、
イギリス他の諸国に行くことを断念して帰国。
なお、旅行の途中、
カイロのギザのピラミットに寄って、
↓の写真を撮ったのは、この時である。

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この時のことは、
11月11日放送の「世界ふしぎ発見!」

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取り上げられていた。

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当時のヨーロッパへのルート

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正使の池田長発(ながおき)28歳。

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パリで欧米諸国の現状を見た長発は急遽帰国し、
攘夷をやめ、欧米諸国と付き合うことを
将軍に進言しようとして、
処罰されている。

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一行の少し上に座っているのが長発。
写真を数えると、24人しかおらず、
3分の1はピラミッド見物には行かなかった。
中には「拙者は物見遊山に来たのではござらぬ」
と行くのを拒絶した人もいたそうだ。

実は写真には写っていない人物がおり、
実際は25人だったという。
その人物は、スフィンクスの右肩のあたりに立っていたが、
写真撮影の時、すべり落ちてしまい、
当時の写真はカメラの蓋を開けてから
1分程度静止状態でおらねばならなかったため、
動いた彼はぼんやりとしか写らなかったのだという。

笑える。

4章 慶応遣露使節団
慶応2年10月13日〜慶応3年5月10日
(1866年11月19日〜1867年6月12日 約7カ月間)

目的は樺太国境画定交渉
使節団は12名。
パリまでのルートは前回と同じで、
そこから陸路でペテルベルクに至る。
国境交渉は成果を上げられなかった。
帰国したら徳川慶喜が将軍になっていた。

5章 慶応遣欧使節団
慶応3年1月11日〜明治元年11月3日
(1867年2月15日〜1868年12月4日 約1年10カ月)

目的はパリ万博への参加
船で上海→香港→
一回り大きな船に乗り換えサイゴン→シンガポール→セイロン→
アデン→スエズ→
列車でアレクサンドリア→
船でマルタ島→マルセイユ→
陸路をパリへ。
使節団は後発も含めて54名。
中に渋沢栄一(後の国立第一銀行頭取)がおり、
柳橋芸者3名が同乗。
特色は将軍慶喜の異母弟明武
正使で将軍の名代としていたことで、
明武はそのまま残って留学した。
パリ万博の日本館は大変評判を呼んだという。
使節団がフランスにいる間に
日本は大きな変化が起こる。
大政奉還で明治政府が始まってしまったのである。

以上の5つの派遣団の他に
慶応元年(1865年)の遣英仏使節団
慶応3年(1867年)の遣米使節団のことや、
4度の上海派遣使節団や幕府派遣の留学生
更に世界を巡った帝国日本芸人一座についても触れる。
一座はサンフランシスコ、ニューヨーク、フィラデルフィア、
ボルチモア、ワシントン、ボストンとアメリカ各地を周のた後、
ヨーロッパに渡り、ロンドン、オランダ、スペインで興行を打ち、
人気を博したという。
軽業、手品、駒まわし、角兵衛獅子など総勢17名。

木と紙の建物と石造りの建物など
カルチャーショックの連続で、
世界に目を開かされた幕臣たちが、
その後の明治政府を作ったと思うと、
大変興味深い。

日本の歴史において、
明治維新敗戦は、
革命的変化のあった時代であったが、
その2つとも、日本は見事に乗り越えた。
その背景にあったものが、
幕府が世界に対して送った使節たちであったことを知ると、
なるほどなあ、と得心する。

また、上海や香港の
欧米列強による植民地支配を目にしたことが、
その後の富国強兵につながり、
アジアでシャム(タイ)と並んで
植民地化されなかった歴史を作った。

そういう意味で、興味深い本であった。

著者の榎本秋(エノモトアキ)氏は、
WEBプランニング、ゲーム企画、書店員を経て、
現在は著述業。
日本史やライトノベルについて造詣が深い。





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