徳永真一郎氏著
「家康・十六武将」を読みました。
徳川家康を書いた本は数多くありますが、配下の武将を書いたものは意外と少ないものです。
個々の武将について、名前だけは知っていても今まで知らなかった一面を知って、興味深く読みました。
何となく抱いていたイメージと違っていたりして、とても参考になりました。
「井伊直政」 <徳川創業の元勲>
今川氏の家臣だった井伊直政が徳川家康に仕え、譜代の家臣を差し置いて18万石(後に庶子の直孝の代に35万石)に取り立てられたのは何故か。明快な答えは本書でも示されていないが、本多忠勝や榊原康政などは、不満だったようだ。
家康が井伊直政を頼もしく思い、可愛がっていたのは間違いない。
「本多忠勝」 <花も実もある勇士>
井伊直政が全身傷だらけだったのに比べて、本多平八郎忠勝は50年間に57回の合戦に出て、かすり傷一つうけなかったという。蜻蛉切(とんぼきり)という名槍をふるって戦った。忠勝への世間の評価は高かったが、関ヶ原戦後、世情が落ち着いてくると、忠勝の出番は無くなってきた。
「酒井忠次」 <お前も子は可愛いのか>
酒井家は徳川家(松平宗家)にとって重代の家老職の家柄だった。創業期の徳川家康の謀将として活躍した。
家康の正妻・築山殿と嫡子・信康が武田方に内通の疑いを持たれた時、織田信長の面前で酒井忠次は釈明できなかった(“敢えてしなかった”という説もある)。後年、隠居した忠次が嗣子家次に3万石しか与えられなかったのに不満を持ち、家康に不平をもらしたところ、「おまえも子は可愛いのか」と皮肉られたという。家康もなかなか執念深い。
「榊原康政」 <徳川三傑の一人>
榊原康政は天文17年(1548年)生まれ。本多忠勝と同年輩、家康より6歳若く、井伊直政より12歳年長。
戦国の猛将だが、本多忠勝と同様に、家康の不公平な扱いに不満を持っていた。直腸ガンで死ぬ直前、家康の上使が見舞いにきたが、布団の上に寝たままで追い返した。秀忠の上使がきたときは、布団の上からすべりおり、礼服を羽織って迎えたという。
子孫の8代目政岑のとき、不行跡が将軍吉宗の怒りに触れ、切腹か遠島のところ遠祖康政の功に免じて隠居、後を継いだ7歳の政永は越後高田へ転封となった。
「本多正信・正純」 <家康の謀臣>
家康より4歳年長。本多忠勝と祖先を同じくし、忠勝は八代前の助政の長男定通以来、代々平八郎を名乗り、次男定正系は弥八郎を名乗った。正信は弥八郎系。
永禄六年(1563)の三河の一向一揆のときには、妻子を捨てて一揆に加わり、参謀格として家康に反抗した。一揆が降伏すると、加賀・越後などを流浪した。大久保忠世がその間、正信の妻子を世話した。7年後、正信32歳のとき、忠世が家康と正信の間をとりもって、帰参させた。その大恩ある大久保一族を、正信・正純親子が陥れるのだから、その後の正純の没落は同情できない。
「大久保忠世」 <三河武士の真骨頂>
大久保忠世は武辺一途の譜代の三河武士。清廉潔白な忠勤振りに豊臣秀吉も感服したという。また、永年にわたり本多正信を世話した。
忠世の死後、嫡子の忠隣は本多正信・正純親子のワナで改易された。大久保長安はじめ一族の多くが罰せられ、没落した。大久保彦左衛門が晩年、天下のご意見番と称して、秀忠、家光両将軍に直言したり、その著書「三河物語」に遠慮のない徳川家批判を書いているのは、無実の罪に服して配所の月を眺めている甥の忠隣に対する哀惜の裏返しなのだろうか。
「石川数正」 <秀吉のもとへ走った男>
石川数正も譜代の武将。酒井忠次と並んで創業期の徳川家の双璧だった。今川の人質になっていた家康の嫡男信康を救い出した。
しかし、家康と秀吉の間を使者として往復するうちに、秀吉の誘いに乗り出奔する。家康から竹馬の友よと信頼され、徳川家の柱石とされ、四十八歳にもなり、老臣と呼ばれている身が、主君を捨て城を捨てたのである。家康は数正の出奔により、徳川家の軍法の大変革を余儀なくされた。
その後の数正は、秀吉の下で八万石の松本城主になったが、大きな働きも無く、文禄二年(1593)五十六歳で病没。
遺領を継いだ康長と弟二人とも大久保長安事件に連座して、所領を奪われた。昔の出奔事件の意趣返しか・・。
「平岩親吉」 <二度の大厄>
あまり馴染みの無い人物で、この本を読むまで殆ど知らなかった。家康と同年で、6歳の家康が今川の人質となって送られたときから側近くで仕えている。
家康の嫡男信康の守役となったが、信長の命令で信康は切腹。関ヶ原戦後、家康の九男義直の後見となった。12万3千石犬山城主。実子がなく、家康の第八子仙千代を養子にもらっていたが、6歳で死去したため、家名は絶えた。
「鳥居元忠」 <伏見城で玉砕>
譜代の家臣で、家康より3歳年長。幾度の合戦で活躍したが、鉄砲傷を負って片脚が不自由になった。下総屋矢作荘4万石の領主。
元忠の名を一躍有名にしたのは、関ヶ原合戦の前触れともいうべき伏見籠城戦だ。
上杉討伐に進軍する家康が、伏見城を元忠に任せ、一晩酒を酌み交わしながら昔話をしたという話は、あまりにも有名。家康が居なくなれば、石田三成が兵を挙げることは必定。まず真っ先に伏見城が攻められると予想された。
事実、そうなって、4万の西軍を相手に、1千8百の兵で12日間持ちこたえた後、切腹した。62歳。
戦後、元忠の子忠政は陸奥岩城十万石を領し、累進して22万石を領した。
「渡辺守綱」 <槍の半蔵>
譜代の家臣。“槍の半蔵”の異名をとった勇士だが、関ヶ原合戦の59歳まで、足軽頭にすぎなかった。
一向一揆のときは、一揆側に加わって家康と戦った。帰順後、数々の戦場働きで“槍の半蔵”の名を挙げ、三河・尾張で1万4千石。
大坂冬の陣には義直の先陣をえけたまわり、夏の陣には74歳の守綱は義直の側近にひかえ、息子の重綱が先手をつとめた。
17歳の初陣から57年間“槍の半蔵”の立場で、常に戦場の第一線に立った。それにしては、報われるところは少なかったが、“鬼の半蔵”の服部正成が得意の槍を使えず、忍者の頭のような立場におかれ、それも息子の正就の代で絶えているのとくらべると、幸福な生涯だったかも・・。
家康の死後、79歳で死去。
「蜂屋貞次」 <吉田城攻めに戦死>
家康より3歳年長。22歳で初陣というから、遅いほうだった。三河一向一揆のときは、一揆側に加わった。一揆が平定された後、家康はただちに東三河の制圧を続行し、その吉田城攻めで、貞次は銃弾に眉間を撃たれて死んだ。26歳だった。
貞次の戦死をきいた母は、「討ち死には武士の習いじゃが、最期の有様はどうでありましたか」と問い、壮烈な戦死の様子をきいて、「うれしくも見事な討ち死にじゃ。それでこそ、わたしの子じゃ」といって喜び、涙一滴こぼさなかったという。彼女もまた、三河武士の母であった。
貞次に一人の娘があったので、家康は鳥居源一郎を婿として貞次の名を継がせ、子孫は永くつづいた。
「内藤正成」 <強弓の達人>
正成の父忠郷が、家康の父松平広忠に帰順したのがはじまり。家康より16歳年長。
弓の達人として知られ、槍を振るっても剛勇で聞こえた。常に家康の側近にあって、弓、槍、両全の功名をあげた。
信長も、正成の武勇を記憶していたとみえ、諸国の知名の士の氏名を書き集めさせたとき、武功で知られたものには、その氏名の上にみずから黒点を加えた。正成もその一人で、そのため「点のかかった覚えの人」と称せられた。
長久手の戦いでの進退は見事で、後日、秀吉が「あの長久手の勇士に会いたい」と申し入れてきたが、正成は、「老年でござれば」といって辞退した。このとき64歳。
関東入国ののち、家康から武蔵埼玉郡のうち、所領五千石を賜った。関ヶ原の2年後、76歳で没した。
「板倉勝重」 <名判官・京都所司代>
三河国碧海郡六ッ美村の永安寺の僧侶だった勝重は、父と兄の戦死で急遽還俗して板倉の家督を継いだ。戦働きは無かったが、その清廉で公平な治世力が認められて、初代の京都所司代に任命される。それ以前にも初代江戸町奉行や駿府の町奉行も勤めている。
長男の重宗も35年間、京都所司代を勤めた。槍働きでなく、名判官として名を成した。いくつかのエピソードを交えながら、謹厳実直な中にも、狡猾な対禁裏、対大坂(豊臣)方の裏工作や、根回しにも長けていたとか・・。
「服部半蔵」 <伊賀忍者の頭領>
伊賀忍者の総帥・服部半蔵も、働きの割には禄高8千石と恵まれなかったようだ。
忍者働きが、戦場での槍働きより低く見られていたからだという。
半蔵の死後間もなく、長男、次男とも改易となり、継承者は絶えた。
「藤堂高虎」 <晩年の家康の腹心>
藤堂高虎には、“機を見るに敏”“家康にごますり”“豊臣から徳川に乗り換えた変節漢”というイメージを持っていた。
だが、著者は高虎を“有能な治世家”“築城の名手”“戦上手”先を読む力”“人情の厚い人”“勤皇思想の持ち主”と、かなり暖かい目で描いている。
そうして見ると、高虎は苦労人だけあって、素晴らしい人だったのかなぁと思えてくる。
豊臣に対する思いは、加藤清正や福島正則などの秀吉子飼いの武将とは違って、過度の思い入れは無かったようだ。当時の武将では珍しい合理主義者だと著者は書いている。
NHKの大河ドラマの主人公にしてほしいという要望があるようだが、イメージが良くないので難しいかも・・。