南部麒次郎と十四年式拳銃(帝国陸軍が軍用自動拳銃を採用するまで)
先ず、定説に苦言を、巷間南部十四年式拳銃とも言われる陸軍十四年式拳銃の最終設計と試作提出者は南部麒次郎ではない。
こう言われても銃に詳しいと任じている人ほど信じない人が多いと思うが、十四年式拳銃の審査が進んでいた頃、南部麒次郎が軍のどのような地位で何処にいたか、何をする部署で働いていたか、そして十四年式拳銃は何処の部署が試作したかを調べていくと十四年式拳銃に関しては南部が直接最終の設計者あるいは開発推進主体ではない事が見て取れるのである。
最も十四年式拳銃を米国でNANBUと呼ぶのは当たらずしも遠からずで、周知のように十四年式拳銃の下敷きとなったのは南部麒次郎が設計した南部式自動拳銃であるし、後述するが南部自身この十四年式拳銃が試作され始めた時東京で現役ではいたから、何かのアドバイスや示唆を与えた可能性は否定できないが・・・・・
では、十四年式拳銃の審査の過程と当時の南部麒次郎の足跡を突合せてみよう。
帝国陸軍の自動拳銃採用までの経緯はかなり複雑である。
明治四十年代と大正十年頃の二回審査試験を行いながらこの二回の試作採用審査は結局採用見送りで終始している。
そして、十四年式拳銃となる銃の採用審査試作の発令は大正11年の12月であり、試作審査の主体は大正八年四月に設置されている陸軍技術本部である。
この陸軍技術本部は従来の陸軍技術審査部を改変したものであるが、このような改革は第一次大戦での参戦列強各国の戦備の急速な発展と第一次大戦後の国際的軍縮基調を受けて、山梨軍縮、宇垣軍縮により実施部隊を削減した経費で軍制改革を行い陸軍の近代化を図る意図で実施されたもので、その後は兵器行政の主体がこの技術本部に移行していくのである。
この大正11年12月の試作は12年3月に陸軍歩兵学校で初期審査に入り審査中に関東大震災で試作銃と資料が焼失した為、改めて大正13年3月再度試作をやり直して審査が再開された、この技術本部主体の試作審査は、技術本部が設計を担当し東京工廠が試作、当該陸軍実施学校で審査試験が行われたものであった、審査の意見としては野戦砲兵学校から、寸度大にして重量過大との意見が出たとある。
この試作銃が前回写真で紹介した試製甲号自動拳銃である。
ところが、この審査が何故か中断している間に、大正13年11月砲兵工廠小銃製造所から対案となる試製乙号自動拳銃が提案される、12月に審査が行われ、ここで審査の実施主体が入れ替わるようで、試験場所は砲兵工廠火工廠十条兵器製造所、ついで小銃製造所に移り多少の改修後大正14年2月中旬まで当該実施学校で実用試験が行われ、修正要求のみで実用可能の判定を受け、改修終了後4月に射撃試験をしたところ装弾不良、閉鎖不良を起こしたため改修し大正14年8月22日仮制式の制定が上申され同11月13日仮制式が制定されて十四年式拳銃となる。
凡そこの試作品は、十四年式拳銃前期型として知られるものと略同様のものである。
ではこの時南部麒次郎は何をしていたか、辞令上は大正7年7月に少将進級と同時に砲兵工廠付と成り翌8年4月砲兵工廠統計課長の職に就いている、これは職位と階級がリンクする軍隊では当然の処置で小銃製造所長は大佐とリンクする職位なのである。
南部が初めて砲兵工廠付を命じられた明治30年当時の小銃製造所長は宮田太郎で階級は少佐である、その後任は南部茂時中佐であるから、事後小銃製造所の規模拡大に伴い大佐までがこの職位の最高と成ったものである、何しろ東京砲兵工廠のトップ、提理の階級が中将であるから将官となった南部は小銃製造所を離れるようになるのが組織の常識なのである。
尚この時の砲兵工廠付の期間は階級相応の臨時処置であると思われる。
中尉で砲兵工廠に配属され少佐から少将進級までを小銃製造所長として勤務し都合27年在職したのであるからあるいは引継ぎ期間であろうか。
尚、陸軍将官事典等では南部のこの時の職を設計課長と記述しているが、砲兵工廠本部には設計課は無く、南部の自伝には明確に統計課長と記されている。
しかしこれは閑職であったのではなかろうか、自伝にもこの当時のことは統計課長としての役務については述べず着任早々に臨時の兵器検閲の統裁者として台湾に出張した事情しか記していない。
そして、あろう事か南部は大正10年10月再び格下の職位である小銃製造所長に復帰するのである。
それは、第一次大戦後、戦時バブルが吹き飛んだあとの不況から来る解雇に対する労働争議沈静のため、小銃製造所のヌシである南部を軍が送りこんだ変則人事であった。
付け加えるなら、第一次大戦中欧米の製銃能力ある国家はことごとく第一次大戦に巻き込まれ軍用小銃供給可能な主要国は日本だけであった。
このため三八式歩兵銃は世界のベストセラーとなり大戦中100挺万以上150万超未満と思われる数量の輸出のため(年産30万挺規模と思われる)小銃製造所は規模が拡大されていた。
この砲兵工廠小銃製造所という所は実は日本の労働争議の発火点にして中心地であったのである。
国内官営工場で精密機械工業の最古最大の工場であったのだからここから日本の労働争議が起こるのは実は当然で、存外軍事史関係者よりも労働運動研究家の方が砲兵工廠の制度や労働体系に対する研究は進んでいる。
翌大正11年8月、10ヶ月の小銃製造所長を終えて、中将進級、はれて東京砲兵工廠提理と成る。
しかし陸軍技術本部の設立と同じ経緯で東京、大阪の砲兵工廠を統合する事になり東京砲兵工廠提理と同格で東京大阪の火薬製造部門を一括して新設された火工廠長に大正12年4月転任となりさらに同8月にはこれまた陸軍火薬学校を改変した陸軍科学研究所所長に転任する。
そして翌大正13年12月には自ら願い出て予備役に編入され、南部の軍歴はおわるのである。
であるとすれば、十四年式拳銃の試作審査が発令された大正11年12月には南部は中将で東京砲兵工廠提理である立場上、管理下の小銃製造所に陸軍技術本部から製作依頼された技術本部設計の試製甲型自動拳銃の存在は知っていただろう、しかし試作品が出来て試験が始まった翌月には火工廠長に転任、火薬や弾薬を扱う部門のトップになるわけで、この立場は銃器の製造開発とはかなり遠いセクションである。
ついで、同年8月これも火薬や化学兵器の化学的、物理的研究を行う陸軍科学研究所へ転任しているから、これまた銃器の設計開発とは無縁の部署である。
さらには大正13年の12月に南部は陸軍を退役しているのだから、十四年式拳銃の制式制定時には陸軍にさえ居ないのである。
少なくとも、南部が十四年式拳銃の設計図を引いたとは考えられない、本来銃器の設計開発は小銃製造所でも中堅所員の仕事である、特に部品数少なく軍内での兵器重要度も低い拳銃ならなおさらである。
それが職制上全く別部署のトップで陸軍中将と言う階級の人物が昔とった杵柄とばかりに他部署の設計に参加するなどと言う事が無い事はサラリーマン経験があれば誰でもわかることである。
南部の自伝では、そのP216からP242までに主な発明考案と言う章があるが独立して十四年式拳銃は取り上げられていない。
あまり知られていない連発空気銃や試作自動小銃は出てくるし南部式、九四式では項目を割いているのにである。
この章の南部式自動拳銃の項目分1ページ半の記述の中にたった二行『その後、大形を基礎に製造を簡単にする目的で多少修正した。大正十四年には十四年式として陸軍制式に採用となった。』と記述されているのみである、主語の私はなどの文字は記されていない。
実にそっけない表現である。
実際生産された南部にかかわる拳銃では十四年式が最も生産量が多いのに。
何らかの関与はあったと言う事であろうか?
ここで技術本部案試製甲型の審査がなぜ中断し小銃製造所案試製乙型の提案が受け入れられたのかと言う疑問が出てくるように思われる。
試製甲型は又別途その機構や用兵思想について書いてみたいが、かなり大形で装弾数が多く生産は煩雑になると思われるのは確かで、高額にもなったであろう。
が何よりも南部はじめ小銃製造所側は基礎とした南部式自動拳銃よりもなお古い騎兵の攻撃型拳銃であるモーゼルC96方向への先祖がえりを懸念したのではないだろうか?
以下は私の推論であるが、ここで南部は、従来の南部式の簡易生産版とも言える試製乙型の概念を説明し、おそらく小銃製造所の吉田智隼大尉(後少将、小倉工廠長)に設計と提案を指示し、一方で技術本部との審査の主導権について政治工作を行ったのではないかと考えられるのである。
であるから自伝での何とでも取れる書き方になると考えられる。
吉田大尉の設計説は十四年式拳銃の最終審査に陪観者として砲兵工廠長、小銃製造所長、小銃製造所所員吉田智隼の3名の名が見えるからで、陪観とは当日審査を受ける試製乙型の製造サイドの出席者である。
立場上の出席と思える長と名のつく人以外で陪観者1名と言うのはとりもなおさず設計者であると推測するからである。





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