
通訳のお仕事をしていると、どうも「情報保障」とか「コミュニケーション」に興味が行ってしまうものです。

何か、問題でも?

うん。手話通訳や要約筆記をつけるだけで、はたして「合理的」と言えるのだろうか、と疑問がわくんです。

それは疑問だわね。

はっ! うもうもが気づいていないことに、ぴよちゃんが気づいている風な物言い!

どうしたのー? 楽しい話?

美味しい話よ。

うーん、ぶたは、退散したほうがいい系?

その方が、合理的よ。
)))

ぶ〜!

普段、学校で授業をしていると、課題と感じることが山積しています。たとえば、社会科の人口問題について生徒に話し合いをさせるとき、基本的な情報を伝えるときにも、知っているだろうと思った言葉を知らなかったり、意味を取り違えていたりします。それに加えて、話し合いのきっかけづくりや進め方も支援していかなければなりません。

それって、聞こえる子どもたちでも、どんな子どもたちでも同じことよね。

そう。ただそこに、ろう学校に必要な配慮が隠れていて、教師が気づこうとしなければ気づかないこともあると思うんです。

気づく教師は気づいているし、気づかない教師はそのままスルーって感じ?

かもしれない。わからないけど。聴力や聴覚活用の状況にもよるけど、たとえば・・・

聞こえない、ということは「聞きなれる」という学習が制限されてしまうこと。うもうもの勝手な意見だけど、
「イチゴ」という言葉でも
「恩着せがましい」という言葉でも、イメージというものが個人個人で違うと思うんです。
かなり前に、「とまと」のお話でも同じことを書きましたが、
「イチゴ」に関して「入手するのに苦労した」とか、「食べ過ぎておなかを壊したことがある」とか、「仕事でいつも食べている」とか、いろいろな経験があり、それらの経験を総合したものが、その個人の「イチゴ」のイメージなのではないでしょうか。
その経験によって「イチゴって、かわいいなあ」とか「もう見飽きた」とか「酸っぱいんじゃないか」とか、いうなれば尾ひれも背びれもついてくる。
「恩着せがましい」という言葉についても、「私に手話を教わったのよね!」とか「本当は都合が悪いんだけど、君の頼みだから、先約をキャンセルして飲み会に行くことに決めたよ」とか、そういう経験をしていると、言葉を使うたびに具体的場面を想起するかもしれません。
また、他者がそれらの言葉を使っている場面に出くわすことで、
「なるほど、そういう時にもこの言葉を使うんだ」と、見識が広がっていくと思うのです。

でね、「聞くことができない」ということは、その「経験」を制限されてしまうことじゃないですか。ゼロになるわけではないけれど。
だから、そこに配慮して、教員は子供が
「日本語についての経験を補完していかなければならない」という視点を持つ必要があると思います。
また、たくさんの言葉に触れる「機会」を増やし、語彙だけでなく、一つ一つの言葉を深めていくということも、実は聴覚障碍児教育の「合理的配慮」であると思うのです。決して、「言葉を伝える」だけではないというポイントが、あると思うのです。
多分、これは、深く手話通訳という仕事や聴覚障害者の生活に関わっていると、実感していることだと思うのです。ただ、通訳者としてのみ聴覚障害者と関わっていると「関われる時間」がだいぶ制限されているので、どうにかしたくてもできない、というジレンマを抱えることになってしまいませんか。
だから、うもうもは教育という現場に身を置こうと思ったのです。

まな板の上の鯉にはならないように。

はーい。鯉ではなく、故意をもって教育にあたります。
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