2009/5/3
忌野清志郎の魂 THE DAY OF REBEL
★忌野清志郎が、がん性リンパ管症のため死去した。58歳。
06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。
自らの病を「ブルース」と称し、戦い続けてた清志郎、去年の復帰武道館公演での見事な復活劇は不死身のロックンローラーとして我々に感動を与えてくれたのだが、今回も絶対、現役に復帰すると思ってただけにショックだった。
今から28年前、僕は彼を初めてライブハウスで観た。ドアが閉まらないぐらいの大盛況で、僕はその一番後ろで、観てた。清志郎がジャンプしたときにしか、僕の視界には彼は入らなかったけど、RCサクセションの一番、凄い勢いづいていた時期のライブを体験できたのだった。その年の暮れには武道館公演も行っていたぐらいだから。

その後、大学の文化祭、京都会館と、合計3回、RCサクセションを観た。
やはり言葉が理解できるロックの熱狂は欧米のそれとは比べ物にならないぐらい、気持ちを駆り立ててくれる。「ボス、しけてるぜ」が勤労成年の労働意欲を削ぐという理由で銀座方面で放送禁止になってえらい怒ってた清志郎。反原発ソングのリリースを中止にしたレコード会社に見切りをつけ、移籍した清志郎。夜ヒットの生放送でガムを噛みながら唄い、大ひんしゅくをかった清志郎。ソロ以降は「パパのうた」とか、ちょっと大人しくなったけど、僕にとってそれはPUNKでもあり、ROCKでもあった。そしてロックを一般民衆レベルにまで広めた功績は後からの世代にはっきりとした道を築き上げたのだった。
今夜はやはり「ラプソディー」あたりを聴いて彼の思い出に浸りたい。
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06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。
自らの病を「ブルース」と称し、戦い続けてた清志郎、去年の復帰武道館公演での見事な復活劇は不死身のロックンローラーとして我々に感動を与えてくれたのだが、今回も絶対、現役に復帰すると思ってただけにショックだった。
今から28年前、僕は彼を初めてライブハウスで観た。ドアが閉まらないぐらいの大盛況で、僕はその一番後ろで、観てた。清志郎がジャンプしたときにしか、僕の視界には彼は入らなかったけど、RCサクセションの一番、凄い勢いづいていた時期のライブを体験できたのだった。その年の暮れには武道館公演も行っていたぐらいだから。

その後、大学の文化祭、京都会館と、合計3回、RCサクセションを観た。
やはり言葉が理解できるロックの熱狂は欧米のそれとは比べ物にならないぐらい、気持ちを駆り立ててくれる。「ボス、しけてるぜ」が勤労成年の労働意欲を削ぐという理由で銀座方面で放送禁止になってえらい怒ってた清志郎。反原発ソングのリリースを中止にしたレコード会社に見切りをつけ、移籍した清志郎。夜ヒットの生放送でガムを噛みながら唄い、大ひんしゅくをかった清志郎。ソロ以降は「パパのうた」とか、ちょっと大人しくなったけど、僕にとってそれはPUNKでもあり、ROCKでもあった。そしてロックを一般民衆レベルにまで広めた功績は後からの世代にはっきりとした道を築き上げたのだった。
今夜はやはり「ラプソディー」あたりを聴いて彼の思い出に浸りたい。

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2009/6/8 10:43
投稿者:maruhiro
2009/6/6 11:52
投稿者:ばーじるひるつ
随分と時が経ちましたが、まだどこにも清志郎のことは書いてなかったので少しだけ。
清志郎は自分にとっても、もちろん「恩人」です。
少なくとも、自分と自分の同級生たちにとって、その高校生活を素晴らしく楽しくしてくれた人です。「ラプソディ」で目覚め、RC(とPANTA&HAL)のコピーバンドをやり、キャンプファイヤーや学祭といったイベントではRCの歌を皆で歌って盛り上がる。「トランジスタ・ラジオ」のごとく授業をサボる(笑)・・・高2から卒業までの生活においては間違いなく大きな存在でした。
僕はRCは一回だけしか見られなかったですが、1980年12月8日、愛知県勤労会館でのコンサートでした^^。
この時は同級生10人ほどでチケットをまとめて買って見に行きました。
自分は比較的ロック慣れしていた方でしたが、そんな自分も面喰らいましたね^^;
今思い出してみて、僕が見てきたライブでは一番危険で、一番客がメチャメチャやってたライブでした。
ホールだけどライブと同時に前列へ突進、全員が椅子の上に乗っかって、指定席も何もなし。
中断は三回以上だったかな。
清志郎の「おまえら、小屋が壊れるじゃねえか」の声に促されて一旦は降りるけど、演奏が再開されると元通り。あんなひどい客になること、もう二度と体験できないでしょうね^^;
自分は暴れながらも、どこか冷静に回りを見ていましたね。同級生の中には「この子がこんなになるなんて・・・」ってのが数人。
僕も含めて皆がいろんなことに目覚めた季節でしたが、たとえば僕らの学祭やいろんなイベントにおいて、自己表現が、自己解放の方法が、明らかに変化があったんじゃないかと思います。そのきっかけはやはりRCであり、清志郎だったと思います。
ホントに偶然なんですが、この5月1日から高校時代のコピーバンドで清志郎役だった友人と僕@チャボ役は(笑)、あるプロジェクトをはじめることになりました。大げさにいえば人生を大きく変える出来事になるかもです。
その同じ時期に清志郎がこの世を去ったのも、何か不思議な縁を感じましたね。
画像のチケットぼ「嵯峨美」なつかしい^^。
友人の彼女が嵯峨美の子で、一年の時に嵯峨美の学祭に行ったんですが、「J-WALK」見ました。いいバンドを呼んでるんですね^^。
清志郎は自分にとっても、もちろん「恩人」です。
少なくとも、自分と自分の同級生たちにとって、その高校生活を素晴らしく楽しくしてくれた人です。「ラプソディ」で目覚め、RC(とPANTA&HAL)のコピーバンドをやり、キャンプファイヤーや学祭といったイベントではRCの歌を皆で歌って盛り上がる。「トランジスタ・ラジオ」のごとく授業をサボる(笑)・・・高2から卒業までの生活においては間違いなく大きな存在でした。
僕はRCは一回だけしか見られなかったですが、1980年12月8日、愛知県勤労会館でのコンサートでした^^。
この時は同級生10人ほどでチケットをまとめて買って見に行きました。
自分は比較的ロック慣れしていた方でしたが、そんな自分も面喰らいましたね^^;
今思い出してみて、僕が見てきたライブでは一番危険で、一番客がメチャメチャやってたライブでした。
ホールだけどライブと同時に前列へ突進、全員が椅子の上に乗っかって、指定席も何もなし。
中断は三回以上だったかな。
清志郎の「おまえら、小屋が壊れるじゃねえか」の声に促されて一旦は降りるけど、演奏が再開されると元通り。あんなひどい客になること、もう二度と体験できないでしょうね^^;
自分は暴れながらも、どこか冷静に回りを見ていましたね。同級生の中には「この子がこんなになるなんて・・・」ってのが数人。
僕も含めて皆がいろんなことに目覚めた季節でしたが、たとえば僕らの学祭やいろんなイベントにおいて、自己表現が、自己解放の方法が、明らかに変化があったんじゃないかと思います。そのきっかけはやはりRCであり、清志郎だったと思います。
ホントに偶然なんですが、この5月1日から高校時代のコピーバンドで清志郎役だった友人と僕@チャボ役は(笑)、あるプロジェクトをはじめることになりました。大げさにいえば人生を大きく変える出来事になるかもです。
その同じ時期に清志郎がこの世を去ったのも、何か不思議な縁を感じましたね。
画像のチケットぼ「嵯峨美」なつかしい^^。
友人の彼女が嵯峨美の子で、一年の時に嵯峨美の学祭に行ったんですが、「J-WALK」見ました。いいバンドを呼んでるんですね^^。

「ROCKはもう卒業だとアイツは髪を切るのさ
お似合いだぜ、いいアタマだな 生意気な奴だったのに妙に素直になったなぁ、レス・ポールが重すぎたんだろう」・・・・Baby 逃げるんだ
この唄のこの歌詞、ああ、清志郎は俺と同じこと考えてるんだと確信したものでした。彼の詩には嘘がない。そしてそのとおり生きていっても大丈夫なんだと思わせる力がある。授業をサボってタバコふかしてROCK聴いててもいいんだよと、そのほうが人生がどんなに素晴らしいかを教えてくれた人でした。