3.幸せになることは可能なのか
では、痛みを乗り越えて幸せを目指すとして、幸せになることはいったい可能なのだろうか、という問題にぶち当たります。娘の幸せを真剣に考えた場合、いろいろ疑問がわいてくるのです。自分自身が幸せと感じればそれは幸せなのか、それとも人間にとって幸せには客観的な基準があり、それを満たさなければ幸せではないのか。もし個人がその人間としての幸福の基準を満たした場合、他に幸福の基準に達していない人がいた場合、それは本当の幸福といえるのか、などなど。
さきほど登場したアンソニーロビンス氏と映画監督・俳優ウディアレン氏は、幸福感に関して対照的だなあと最近気がつきました。幸せについて考える場合に参考になると思うので、ここで紹介しておきます。ロビンス氏は幸福をいい気分になること(feeling good)と定義し「全く理由などなく、今すぐいい気分になることは可能だ」と断言します(Robbins, 2001, p.372)。氏は、行動主義心理学に強い影響を受けているようで、「心の動きは体の動きから」(Emotion comes from motion)という視点から、その著書や講演の中で、実際に行動を起こすことで心にプラスの条件付け(conditioning)をしようとしています。さらには、氏は行動なしでも心にプラスの条件付けをしようとも試みてます。氏によれば、われわれ現代人は幸福感を感じるための心の中のルールを複雑にしすぎているが、もっとシンプルなルールをもつことで幸福感を感じることができる、と主張します。たとえば、朝起きて自分の身体がまだ地球上にあると気がつくだけでも幸せと感じてもいいじゃないかとするのです。
一方、ウッディアレン氏は自ら監督・主演した映画「アニー・ホール」の中で自らの幸福論を展開します。太陽の光がさんさんとふりそそぐカリフォルニアのカフェテリアで元恋人アニーとよりをもどそうとするウッディは、アニーに「あなたは幸せになることができない人よ」といわれ、「世界で飢えている人がいたり、他に不幸な人がいる限り、幸せを感じられない」と述べます。この点、「世界人類の幸福がないかぎり、私の幸福はありえない」といった日本の宮澤賢治と共通していて面白いなあと思いました。
このように幸せを自分の心の中からやってくるととらえるのか、外からやってくるのかと定義するかで両者は対照的な関係にあるといえます(注)。みんながいっしょに笑い、みんながいっしょに悲しまないといけないというような風潮を産みやすい日本社会ではウッディアレン氏の考え方の方が受け入れやすいかもしれませんが、私はここでどちらが正しいとか、間違っているとかを二者択一的に議論するのは避けたいと思います。また、この対照的な幸福観の違いは単なる人権意識の深さの違いだと簡単に片付けるつもりもありません。わたしがいいたいのは、どちらの立場をとるにしても、幸福を何か固定した絶対的なものとして遠くにとらえるのではなく、もっとダイナミックなもの、つねに自分とのつながりで目の前で一進一退を繰り返しつつも発展していくものとして近くにとらえるべきではないかということです。つまり、幸福を追求しているその行動のプロセス事態がすでに幸せ(あるいは幸せの一部)であるというような認識も必要なのではないかと思うのです。現実問題、私たちが生きている間に世界から紛争や戦争や貧富の格差や疫病や差別がすべてきれいになくなると考えることは本当に難しいと思います。だからといって、わたしたちがみんな現実の問題を見ないようにして幸せのふりをしていればいいというわけでもないでしょうし、だからといって、私たちはみんな不幸で、落ち込まなければいけないというわけでもないでしょう。大切なのは、実際に行動を起こして幸福を追求していくことではないか、その中に喜びを見出すことではないか。水前寺清子の歌ではありませんが、「幸せは歩いてこない」ことは事実で自分から行動を起こすことなしに近づいていくことはできないのではないかと思うのです。根源的には行動(コミュニケーションを含む)にこそ人間らしさの所以があると思います。いいかえれば、「動く」ことが人間の証であり、人間が動かなくなった究極の状態は「死」であることを認識すれば、行動を抜きにした人間の幸福はありえないと考えるのです。
生後二ヶ月の娘、花はよく動きます。花を見ていると、人間にとって動くことが幸福なのだなという原点を明確に意識することができます。泣くときはとくに、顔の80以上ある筋肉や手や足を使って全身で自分にとっての幸せを求めようとします。娘にとっての幸せとはよく眠ることであり、心地よく横になることであり、落ち着いて母乳を飲むことであるし、気持ちよく排便することであり、私やヌビアに抱かれることであるし、暖かいお風呂に入ってリラックスすることであり、おもちゃであそぶことであり、私やヌビアと何気ないコミュニケーション(言語・非言語を含む)をすることなど、まだわかりやすいものです。スティーブン・コビーは、「愛は動詞である」といっています。今の私にできるのは、おむつをとりかえたり、おむつを車で買いにいったり、おふろにいれてやったり、泣いたらだっこして子守唄を歌うことぐらいですが(男はつらいよ、も子守歌のひとつになっている)、娘に対する愛情を動詞として一生示していこうと思っています。それが私にとってのひとつの幸せのあり方だと信じています。
4.希望の光
しかし、行動すると一口にいっても、ただ行動すればそれで全てよし、というわけにもならないでしょう。さらには、幸福目指して行動するといっても、様々な国や地域の人々がいってみれば自分たちが幸せになるために、様々な行動を起こした結果、今世界では紛争や戦争が起きているわけで、やはり、さきほどから私が逃げてきた問題、「人それぞれが幸せと思っていればそれが幸せなのか」「全ての人類が共通の幸福を共有することは可能だろうか」、ひいては「幸せとは何か」という問題はもっと掘り下げて議論していくべきなのでしょう。
最近イラクで起きた日本人人質事件のニュースは、幸せについて、深く考えさせられる一つのきっかけを提供したように思います。まだ事件は解決していませんが(豪時間、4月13日午後10時16分時点)、私はこの事件の過程の中に、文化や宗教を超えて幸せを共有する可能性の光を見たような気がしました。まず第一に、真に自分たちを助けてくれている人間を傷つけてはいけない、第二に、親の子の命を真剣に思う気持ちはどの民族も尊重すべきであるということ、第三に、他国を侵略することは許されないということ、第四に、約束は守るべきであるということ、第五に、他国の文化を尊重することが大切であるということが示されていましたように思います。私はこの五つは文化や宗教を超えて共有できる幸福の重要な要素になるのではないかと強く感じました。この五つすべてが同時に完全に実現するには時間がかかるかもしれませんが、さきほど幸福を「ダイナミックなもの、つねに自分とのつながりで目の前で一進一退を繰り返しつつも発展していくもの」「幸福を追求しているその行動のプロセス事態がすでに幸せ(あるいは幸せの一部)である」として考えたように、この4つに向かって世界の人々が協力しあい、その過程に人間的な喜びや幸せを感じることは可能なのではないかと思います。心が痛む事件ではありますが、その痛みを乗り越えて日本だけでなく世界に広がる人質解放の運動の広がりがこれを証明しているように思うのですが、みなさんは、どう考えますか。犯人グループがこうした五つの要素を共有し、人質全員を無事に解放するという行動を示すことを願ってやみません。
5.おわりに
我が子の命が危険にさらされたら、自分に何ができるだろうか、どんな行動をとるだろうか。これはイラク日本人人質事件が発生してから常に考えてきた問いかけです。私が人質になることによって娘の命が助かるなら、私は喜んで人質になろうと思います。
それでは、また
遠くオーストラリアの空より
モナカ寅次郎

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