はじめに
2007年1月8日。5年ぶりに帰国した私は新宿の映画館でスクリーンを観ながら涙をとめることができませんでした。私の敬愛する山田洋次監督の最新作「武士の一分(いちぶん)」を観られたのは、私にとっては奇跡のようなひと時でございました。それは長く豪州で暮らしていても、心の中には山田監督と共通するものがまだ自分の心に流れていたことを発見することができた喜びであったのかもしれません。
武士の一分
日本にいた時分は、毎年正月になると同じく山田洋次監督の「男はつらいよ」を観にいったものでございます。毎回ほれた女性にふられて旅に出る車寅次郎氏の姿を見て、いつか私も旅に出たいなあと思っていたものですが、今は豪州の旅の空でございます。
時は幕末、殿様の毒見の役職についていたある貧しい若い侍が物語の主人公でございました。ある日、口にした食べ物に毒が含まれており、それが原因で失明してしまった若い侍は窮地に追い込まれます。働けなくなった彼は土地や屋敷も没収されるのではないかと不安な日々を送っていたさなか、位の高い侍が殿様に口添えしてくれるようなことをいって、その若い侍の美しい配偶者(なぜ「奥さん」と書かないかおわかりだと思います)に近寄ってくるのです。そして、ただでは助けることができないといって、その配偶者の身体をも求めてくることになるのです。配偶者はその若侍のために、やむを得ず何度か身体を許してしまいます。結果的に失明の若侍の身分も家も保障されたわけでございますが、いかなる理由であっても配偶者のしたことが許せず、その若侍は離縁を決意したのでございます。若侍は弱みに付け込んで配偶者をもてあそんだ位の高い侍に決闘をもうしこみます。「武士の一分」として、その侍を許すことができなかったのです。しかし、その侍は藩内でも一、二を争うほどの剣の達人。盲目の人間がとても太刀打ちできる存在ではございません。それでも、闘いを挑むその侍の姿に胸を打たれてしまったのでございます。
主人公のその侍は闘いの前に道場で特訓を受けます。そこで、主人公は多くを語りませんが、そのひたむきな姿を観ているうちに、私の両方の眼からとめどもない涙がぽろぽろぽろぽろこぼれてきたのでございます。当初私はなぜ自分が泣いているのかわかりませんでした。しかし、いろいろ考えているうちに、思い当たったのでございます。そのシーンは単に一人の侍が感情的になって訓練に励んでいるシーンではありませんでした。その侍の姿はまさしく愛でございました。
愛とは動詞である
なにをいっているかわからない読者が大半でございますので、ちょっと、ここでお時間をいただいて愛についてセンエツながら説明させていただきます。その本質はズバリ「個我の超出」でございます。ひらたくいえば、愛というのは限界のある自分個人を乗り越え、さらなる自由を獲得する営みでございます。人を本気で好きになりますと、それまでの自分からは想像もつかないことができたりするもんでございます。寅さんが映画の中で「その人が『寅ちゃんあたしのために死んでくれる?』っていったら、『ありがとう』っていって喜んで死ねる、それが愛ってもんじゃないのかい?」といっていたのを思い出します。まあ、そこまでの境地にはなかなかいたれるもんじゃございませんが、自分の愛する人のためにはもうなんだってしたくなるもんでございます。たとえば、私の場合は、愛するヌビアと娘の花のためには何だってしたいと思っています。たとえば、もし娘が誘拐されて、私の命と引き換えにできるんだったら、私は喜んでかわりに人質になります。愛とは名詞ではなく動詞なのでございます。
話をもとにもどしますと、「武士の一分」の中の若侍にとっては、失明というとてつもない大きな身体的障壁も関係なくなるほどの強い愛があったからこそ、自分を乗り越えて、負けて当然の闘いに挑んでいけたのだと思います。彼にとっては、死ぬこと自体は、自分の愛を貫くことに比べたら、それほど大きなことではなかったのでございましょう。現代の考え方では、なんと野蛮な方法なのか、と思われるかもしれないところですが、山田監督は時代劇という媒体を使って、見事に「個我の超出」としての愛の本質を描いたのでございます。
日本文化における非言語的コミュニケーション
ところで、もう一つ、私がここで興味深く思いましたのは、映画の中での主人公たちの愛情表現のあり方でございました。お互いにアイラブユーにあたる直接的な愛情表現はせずに、言葉以外の方法で愛情を表現しているのがとても印象的だったのでございます。
たとえば、決闘のとき、配偶者が使っていた「たすき」を鉢巻にしていた若侍の姿は、間接的ではありますが、強烈に配偶者への愛情を表現しておりました。また、若侍の好きな料理を密かにつくる配偶者とその味で別れたはずの配偶者が帰ってきたことを悟る若侍の姿は、言葉をこえたところでお互いが通じ合っている様子を実に鮮明に描いておりました。
ところで、最近日本でよく読まれている本に『人は見た目が9割』(竹内一郎)があります。この題名は、「人間が伝達する情報の中で話す言葉の内容そのものが占める比率は、七パーセントにすぎない」というある心理学の調査結果から名づけられたようでございます(竹内一郎『人は見た目が9割』新潮社、10ページ)。この本によりますと、洋の東西を問わず、コミュニケーションにおきましては、言葉以外の部分は大切でございますが、日本はこの言語以外の非言語的要素に含まれる情報量が特に多いそうでございます。竹内氏は、「『相手に、わからせ、自分を通す』のが、ヨーロッパ流。『お互いに、語らずに、察する』のが日本流」(同上書、93ページ)として、日本文化の一面を「語らぬ」文化として紹介しています。つまり、お互いに直接的に愛情を言葉で「語らぬ」この映画の中での夫婦は、典型的な日本型のコミュニケーションをしているといっていいでしょう。
おわりに
今回は、「個我の超出」としての愛の本質に迫りました。考えてみれば、今ある自分を乗り越える過程では、実に多くの人々の支えや愛情が必要なんだなあと痛感しました。家族、友人、先生方、その他大勢の方々の存在なしには、そのときそのときの自分を乗り越えられなかっただろうなあとしみじみ思います。
私も相手の「個我の超出」に貢献できるような人間になりたいなあと思いました。その際には、アイラブユーという言葉だけに頼らずに多様な愛情表現を使ってみたいなあと思いました。
それでは、また。
遠く真夏のオーストラリアの空より
モナカ寅次郎

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