1. はじめに
高速道路を100キロ近いスピードで走っていたときのことです。クルマが上下にガタガタ震動していることに気がつきました。道路はコンクリートで舗装してあるので、そんなに上下に振動するはずがありません。いったい何事が起こったか検討もつきませんでした。時間は朝の7時半。マウントアイザを離れてすでに約19キロのところを走っていました。遠くまで見える高速道路以外は、人工的なものは何一つ見えず、文字通りオーストラリア大陸の大草原が広がります。片道125km、約1時間半の通勤の道のりを、いつもはCDを聴きながら、昔のことを思い出しながら、これからのことを考えながら走るのですが、今回は、車の振動がどんどん大きくなり、それとともにゴオオオという音も聞こえてきて、さらには何か焦げ臭いようなにおいまでしてきて、一気に気持ちが現実に引き戻されました。車に何らかの異変が起きたことは確かです。産まれて初めて車の中で身の危険を感じ、CDの音楽も、昔の思い出も、今日これからの予定もすべてどこかに消えてしまいました。車の中にはってある娘の写真が目に入りました。何とかしなければと思いました。
2.目の前の現実
とにかく何とか車を止め、外に出てみました。すると、右後部のタイヤが、無残に破裂したようにズタズタになっていました。ブツブツと音を立てながら黒くて臭い煙が出ていました。さきほどの上下の振動はこのタイヤのためだったのです。数日前に釘が刺さっていることがわかり、修理してもらったばかりなのに、という思いが一瞬頭をよぎりましたが、そう考えても何の役にも立ちません。さて、どうするか。ふとまわりをみると、車の中から見慣れているはずの草原の景色が、突然ものすごいリアリティーをもって私に迫ってきました。見えるのはどこまでもつづくかのような草原と低木、聞こえるのは虫の声、皮膚に感じるのは朝の8時前だというのにジリジリと突き刺すような強い日差し。
世界にたったひとり取り残されたような感覚になり、とにかく何かしなければとトランクから工具を取り出し、産まれてはじめてのタイヤ交換にチャレンジ。まず車体を持ち上げ、タイヤのボルトをはずそうとしますが、なかなかはずれません。こん身の力を込めて両腕で動かそうとしますが、びくともしません。しかし、ここであきらめるという選択肢はなく、とにかく動くまで同じことを繰り返さなければいけません。とうとう普段は出さないような「うおおお」という雄叫びまであげてボルトを動かそうとしますが、やはり無駄でした。つい数十分前は、家にいてヌビアと娘に「いってきまあす」といったのですが、そういう状況からは考えられないシビアな現実。とにかくそのときの私にとっての世界は、目の前にある黒煙をあげるタイヤとボルトと工具と私の汚れた両手と汗と荒い息と強い日差しだけでした。状況は奇跡でも起きない限り、何もかわらない状況でした。
奇跡が起きました。たまたま通りかかった車が止まってくれたのです。私が状況を説明したら、「だったら足で蹴れ!そんなこともわからんのか!」と逆に怒鳴られました。なるほど、そういわれてみればそうだ。怒鳴られても私はむかつくことなく素直に納得し感動してしまったのでした。サンタクロースのように長く伸びたひげのその運転手はそういうとすぐに立ち去り、私はまた大草原の中の一本道に取り残されました。とにかく、私にできることは「蹴る」ことだけ。こん身の力をこめてスパナを蹴りまくりました。キック!キック!キック! 動いた! ようやくボルトが緩んだときの喜びは一生忘れないでしょう。タイヤを修理するのに格闘をはじめてから30分近い時間がたっていましたが、私には一瞬のように感じられました。
3.今を生きるということ
車を運転する者として、上記のような車のトラブルは誰にでも起こりうるわけですが、私がここで注目したいのは、トラブルの最中、私の中から時間という感覚がなくなってしまい、その間は不思議と充実感があったという事実です。時間の感覚がなくなったのは、これがはじめてではなく、前回の通信で報告したように、娘の出産のときも、何か自分が別次元にいるかのような不思議な感覚になったことを覚えています。また、泳いでいるとき、走っているとき、本や音楽や映画や執筆にのめりこんでいるとき、私は時間の感覚がなくなります。いいかえると、現実の雑多な空間から非常に集中できる空間に抜け出したような感覚です。こうした感覚の中では、生きている実感がこれまでになく飛躍的に増すのです。ロビンウィリアムス主演の映画「今を生きる」も基本的には同じテーマをあつかっているのではないかと思います。
最近読んだ「パワーオブナウ」という本によると、わたしたちは過去や未来にしばられすぎている、今をもっと生きなければということです。わたしに関していえば、過去のことでくよくよしたり、将来のことで不安になったり、心の中で、過去と未来が不協和音のBGMとして常に鳴り響いていることがしばしばです。たとえば、前の授業で授業を妨害してきたある生徒のことをいつまでも腹立たしく思ったり、一方、今後の生活をどう設計していくかを考えて不安になったりすることがあります。これは、その本によれば、「今」「ここで」生きていないからだ、ということです。その本には、多くの人は、今、ここで生きることを避け、過去や未来、自分の肩書き、地位、所有物、ひいては、不幸な自分などを「本当のじぶん」だと思い込んでいるというのです。裏をかえすと、「今」「ここで」生きることこそが本当の自分であるということを強調しているのです。そして、今を生きることで、過去や未来の悩みや問題は「溶けていく」というのです。たしかに、今現在に本当に集中しているときは、過去や未来の悩みのことなんか忘れることができます。しかし、そのことで自分の抱えてる問題の全てが実際になくなったりすることはありません。ただ、一方で、悩まなくてもいいことまで悩んでいることも事実で、そうしたムダな悩みを追いやることができるという意味では、今を生きるということは非常に有効だと思います。
4.人間の原点
もうすぐ生後5ヶ月を迎え体重も7.4キロに増えた娘の花を見ていると「今を生きること」の重要性が何かわかるような気がしてきます。花にとっては、今年2月5日に産まれてから今日までの過去、そして今後成長していくという未来はありますが、娘にとっては過去も未来も認識することはできず、それゆえ意味をもちえず、彼女にとっては、「今、ここ」のことだけが意味をもっているとわかります。今、ここでお腹がすき、眠くなり、母乳を飲み、笑って泣く娘をみていると、「今、ここで」生きることが人間にとっての原点なのだなあと思えてきます。娘は母乳をそれこそ一心不乱にぐびぐび飲みます、意味不明な「あああああ」「ぎいいいい」という声をとめどもなく発声します、しきりにものをつかもうとします、何度も何度も自分で起き上がろうとします。娘はいつでも「今」真剣です。そうした今の真剣な積み重ねが将来へとつながっていく、その意味で真の変化・成長は「今」起きており、それなしに将来の成長はないのだなあとよくわかります。つまり、しっかりおっぱいをくわえて母乳を飲むことが将来の身体の土台をつくるし、「あああああ」という声は将来の言語的コミュニケーションへとつながるし、何かものをつかもうとする動作は将来の労働へとつながっていくわけです。それが、大人になっていくにつれて、どんどん過去と未来からのプレッシャーがふくれあがって、重たくなって、本当に大切な今がないがしろにされてしまう。。。。今を見られなくなってしまう。悩まなくてもいいことに苦しんでしまう。。。。

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