4.自分の身体を取り戻すために:勇気をもって〈対抗文化圏〉を創造する
自分の身体を取り戻し、個性的な自己表現の経験をするためにはどうすればいいのか。養老孟司氏は、どのように身体性の回復を志向しているでしょうか。養老氏が「バカの壁」の続編としての「死の壁」(養老, 2004)で提案している身体性回復の方策は、なんと「参勤交代制」の導入です。日本人はまじめすぎるから、身体を動かせ、どこかに行きなさいといってもそうはしないだろう、だったら制度で身体を動かすことを強制するしかないんではないかというのが氏の主張です。つまり、養老氏にとっての身体性の回復とは、「国家によって強制される身体」を受け入れることであり、そこでの「経験」もやはり貧困だなあと思いました。ちなみに、養老氏は、自分の身の回りのことは、洋服選びから料理洗濯まで全て「奥さん」にやらせているということです(NHKドキュメンタリー「人に壁あり」)。たとえば、養老氏は全く異なった絵柄の靴下を左右はいていても全然気にならないそうです。これこそ身体性喪失のいい例だと思うのですが。参勤交代制の前に、病気でもないかぎり、まず自分の身の回りの世話ができるようになることが身体回復の第一歩ではないでしょうか。
私が注目したいのは、〈対抗文化圏〉(清眞人, 1995)という概念です。これは、本来個性的で多様な経験を抑圧し一元化する現代社会のシステムから離脱し、経験を蘇生・解放・確立する文化圏を意味します。さらに、そうした文化圏をつくっていくためには、自己の「死」を恐れず思い切って創造的な表現行為をして自己を「再生」することが必要だと清氏はいいます。ちょっと堅苦しい言い方でよくわかりにくいのですが、要は、与えられた没個性的な文化から抜け出すためには、自分がまわりに否定されることを恐れずに、自分にまっすぐ厳しく向き合い、自分なりの新しい文化を勇気をもって表現し、自己をさらに成長・解放させていくべきだ、それが新しい文化の創造につながるのだ、ということだと思います。それゆえ、ここでいう「死」は文字通りの死ではなく、古い枠組みの中でこりかたまっている自分であり、「再生」とは古い自分を乗り越え解放された新しい自分を意味しているといっていいでしょう。
興味深いのは、こうした「死」と「再生」を結びつけて勇気をもって新しい文化を創造するという考え方は、故岡本太郎氏の芸術論と奇妙にリンクするということです。岡本氏は、ずばり「芸術は創造である」(岡本, 1995, p.59, p.206)と述べ、「すぐれた芸術家は、はげしい意志と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく創造していきます。それは、芸術家がいままでの自分自身を切りすて、のり越えて、おそろしい未知の世界に、おのれを賭けていった成果なのです」(岡本, 1995, p.100)と主張します。つまり、本当の芸術というのは、古い自分を殺して新しい自分に生まれ変わっていく過程ではじめて誕生するものだ、それが時代の創造に一躍をかってきた、というわけです。注意しなければいけないのは、岡本氏は、芸術はある特定のいわゆる芸術家集団に独占されるべきものではなく、「芸術は、ちょうど毎日の食べものと同じように、人間の生命にとって欠くことのできない、絶対的な必要物、むしろ生きることそのもの」(岡本, 1995, p.16)として、全ての人間によって取り組まれるべきだとしています。ここで紹介した岡本氏の言葉は1954年にはじめて「今日の芸術」として出版されベストセラーになったのですが、今なお多くの読者に親しまれているという現実は何か希望を投げかけているようにも思われます。
確かに、自己の思い切った表現をすると、だれにも受け入れられないんじゃないか、無視されるんじゃないか、あるいは、否定されるのではないか、集団から排除されるのではないか、という恐怖に駆られます。しかし、清氏や岡本氏のいうように、そこで想定される自らの「死」を怖がっていたのでは、いつまでたっても私たちの身体性は他者から与えられたままであり、死ぬまで借り物の自分でありつづけることになってしまいます。真に創造的な自分を表現するかぎり、その文化は他者の中にも新しい種をまき、他者も再生させる可能性があると信じています。そうすることで、少しずつ新しい文化が共同の中で育っていくのでしょう。
岡本氏は、全ての人間が絵を描かなければならない、といいますが、私はそんなことはないと思います。それが借り物ではない真の自己表現であり、文化的・創造的であるかぎり、絵画であれ、音楽であれ、彫刻であれ、料理であれ、生け花であれ、書道であれ、スポーツであれ、文章であれ、写真であれ、ダンスであれ、演劇であれ、なんでもいいと思います。ただ、それが、特定の身体の部位(例:指先や脳)だけを集中的に使用する身体性であれば、人間の全面発達の観点からも、もっと幅広く外に向かって身体を使うようにはすべきでしょう。私の場合は、この「通信」が一つの自己表現の場であり、毎回読者に否定されるのではないかと、それなりに勇気をふりしぼっているわけですが、一方で、この「通信」を書き、それについて議論したりする過程で自分が変わっていくことにこの上ない魅力を感じていることも事実なので、今後もご迷惑でしょうが、未熟な文章ながら続けていきたいと思っています。ただ、その過程での身体の使い方はちょっと偏っていますので、その反省から、冒頭にもふれたように、最近家庭農園をはじめたのです。
5.おわりに
生後5ヶ月の娘のおむつをよくとりかえます。よく手に「うんち」や「おしっこ」がつきますが、大丈夫です。ミサイルのように突然発射されても大丈夫です。自分の子どもだからといってしまえばそれまでですが、現代人が身体の喪失とともに死や便をタブーのように目の届かないところに隠してしまったことを考え合わせると、排泄物が手についても平気であるという感覚は私にとっては、かなり自由になった気分です。そんなことを考えながら外にでると、家庭農園のプチトマトに小さな花が咲いていました。
それでは、また。
遠くオーストラリアの空より
モナカ寅次郎

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