1.はじめに
私の住むマウントアイザは人口約2万4千人の鉱山の町で、土地の大部分は赤茶けた土と岩で占められており、農業にはおよそ向きません。さらに、農業のできる土地からははるか遠くはなれているので、その日にとれたばかりの野菜を食卓に持ち込むのは不可能だと思ってきました。ある日、近所の人が庭で家庭農園をつくり、そこでとれたプチトマトをご馳走してくれました。そのおいしさときたら、舌の上でとろけるような甘さでした。マウントアイザで採れたての野菜が食べられるなんてとちょっとした驚きでした。彼は栽培用の土を手に入れて庭で様々な野菜の栽培をはじめたのです。私たちも家庭農園をはじめることにしました。
2.「バカの壁」の外にある身体性
考えてみれば、日本にいたころから食べ物は店で買うものだという固定観念ができあがっていたように思います。いってみれば、「食べ物=商品」という「バカの壁」(養老、2003)をつくって、自分で食べ物を育てて食べるという可能性を考えてもみなかったのです。日本でベストセラーになっている「バカの壁」という本のポイントは、現代日本人は「脳化社会」の中で生きており、自分の意識できることでしか世界や自分を見ようとしない。その結果、現実の世界との間に壁(バカの壁)ができ、身体、死、無意識、共同体を排除している。もっと現代人は身体を使い、死をみつめ、無意識の世界もあるのだということを知り、共同体の中で生きる意味を見出していくべきではないか、「バカの壁」という一元論に縛られて「わかった」ような気になっているより、もっと物事はわからないということをわかるべきではないか、というようなことだったと思います。私が特に注目したのは、その「バカの壁」の外にある「身体」に関する部分です。
自分の身体は紛れもなく自分自身のものですが、自分から疎遠になってしまっているという奇妙な現象。すなわち、自分の身体であって、自分の身体ではないような感覚、あるいは、自分の身体を使って直接外界に接することなく機械やモノを介して接しているような感覚、自分の意識と身体が分離しているような感覚、自分の思うように身体を動かせない硬直感覚、自分の意識の中だけで生きているような感覚、そういったものが「身体の喪失」と呼ばれるのだと思います。具体的には、毎日「箱」の中(例:満員電車、教室、会社)で決まった行動様式に従えば事足りるような毎日(例:ルーティーンをこなしていく)の中で身体性はどんどん失われていくのでしょう。たとえば、公の場で何か自分のイイタイコトを発言する場合、あるいは上司や上級生の前で自分の意見をいう場合、身体が硬直して思うように自分が出せなかったり、それをあきらめたりした経験をした人は私を含めて少なくないのではないでしょうか?
私の日本での5年間の教師経験の中で、公共の場で堂々と自分の意見を表明できる子どもはかなり少数派だったと記憶していますが、ここオーストラリアでは学校の全体集会であろうが、動物園のショー会場であろうが、実に大勢の子どもたちが手をあげて自由にいろいろなことを発言します。子どもたちの最善の利益を保証するための意見表明権(国連子どもの権利条約第12条)を実質的に行使するためにも、身体性の問題と切り離すことはできないと思います。
いうまでもなく、身体と精神は連動しており、それゆえ、自分の身体を失うということは同時に自らの精神や個性を失うという面ももち、看過できない問題を含んでいると思われます。
3.外から与えられる身体性と経験の貧困
いってみれば、身体は空洞化してきているといえますが、それゆえにそこには様々なものが外から入り込んできます。外から「与えられる身体性」です。それが一番センセーショナルに顕在化した日本の例が、1995年のオウム関連の事件でしょう。信者の多くが身体性を奪われたエリートたちだったということは今では周知の事実です。彼ら彼女らが自分たちの身体を通じて「神秘体験」をどんどん与えられていたわけです。
また、商品化された食べ物もテレビのコマーシャルや広告や見た目や安い値段に拍車をかけられて、私たちの身体に毎日ドカドカドカと入り込んできます。オーストラリアの場合は、その結果世界第二位の肥満大国になってしまいました(一位はアメリカ)。この国では、肥満は大人だけの問題ではなく、子どもも4人にひとりが肥満であるという現状であり、最近では子どもの糖尿病が深刻化しているといわれています。それは文字通り、「与えられた身体性」が増大していく危険性を示しています。そこで、ハワード政府は巨費を投じて子どもたちにスポーツを増やす機会を増やすキャンペーンを展開することを大々的に発表しました(6月30日)。しかし、それも結局は「国家によって与えられる身体性」のキャンペーンにすぎず、合成着色料や添加物が多分に含まれたお菓子や飲み物のテレビコマーシャルも放置されたままです。
タバコやドラッグを通じて「病んだ身体」を与えられている人の増加も見逃せません。オーストラリアでは、毎年約1万9千人もの人々がタバコによる疾患で亡くなっています。そして、12歳から17歳の世代の3分の1が喫煙の経験があるというデータもあります(ABCニュース)。
また、オーストラリアは年に一度世界からゲイやレズビアンがあつまって大きな祭典を開く国でもありますが、一方で硬直した性、「男」「女」という産まれながらの心身の枠組みも社会の中で根強い力をもっています。たとえば、ハワード首相はテレビのインタビューで同性愛者同士の結婚は認めないという趣旨の発言をしましたし(5月27日)、テレビの調査でも同性愛者同士の結婚に対して、44パーセントが認められない(33パーセントは賛成)という結果が出ています(6月8日SBSニュース)。なお、政府の方針としては、同性愛者が海外から養子をとることも禁止するということです。
その結果、われわれ現代人は、日本であろうとオーストラリアであろうと、日々経験する「一元的な世界」(「バカの壁」)の中で、多様な世界から隔絶させられ、「与えられた」と意識せずに、一元的に他者(例:食べ物、たばこ、性など)を身体の深くにとりこんで、多様な身体性を失っていく危険性に直面しているといえるでしょう。
そうしたプロセスの中で、私たちの経験はどんどん貧しくなっていきます。多様な経験がどんどん矮小化されていく危険にさらされているのです。外から身体性が与えられることが支配的な社会では、多様で個性的な自己表現を経験することが奪われていきます。たとえば、本当に味わいたい様々な味を探求することなく安易に商品として味が固定された食べ物を購入したり、本当に表現したい自分を「流行」や「伝統」の中のファッションの枠に閉じ込めたり、音楽・絵画などの芸術で自分を表現せず、CDや画集を購入することで満足したりということが、金太郎飴のように毎日連続して起こります。
(つづく)

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