2005年11月23日読売新聞朝刊「編集手帳」を読んで
財界の鞍馬天狗とは何者だろう。どうやら経済界の危急存亡に駆けつけては事を裁く人だったらしい。なんで天狗が正義のヒーローなんだ?
元々鞍馬天狗とは、フィクションではあるが幕末における正義のヒーローであるらしい。でもこれに違和感がある人もいるはずである。なぜなら、「天狗になるな」と聞いたことはあっても、「天狗になれ」と言われたことのある人はおられるだろうか。つまり現代において天狗とは「高慢の戒め」として語られているのである。「鉄壁の自信を語ってさまになる財界人はもう現れないだろう」とこの編集手帳は嘆く。このコラムは高慢の奨めを行っているのだろうか?
そもそも天狗になるなと言い聞かせられている現代人が天狗になりたいと思うはずがないだろうに。ましてやさまになってどうするというのだろうか。故人となられた鞍馬天狗こと中山素兵さんは「問題は解決されるためにある」と語られたそうである。実は私もそう思うのだが、このような発言をすると、やはり天狗であると「非難」されそうな気もするのだが、このような発言はやめた方がいいのだろうか。それともいっそ鞍馬天狗を目指して鞍馬山に篭ってみた方がいいのだろうか。
つまり天狗になるなとは、高慢の戒めなどではなく、身の程を知って行動せよという戒めなのではないだろうか。「我は天狗なり」と発言することは、難題を持ち込まれることを意味するのである。別に天狗でなくても、あるいは正義のヒーローでなくても、名探偵の下には、いや名弁護士の下には常に難題が持ち込まれてきたのではないだろうか。ならば天狗の鼻を折られると言う言葉の意味も違って取ることができるのではないだろうか。
つまりは能力不足で信頼に値しないから、もっと自分を磨けということである。とするならばなぜ天狗を止める必要があるのだろうか。人の信頼に応え、大天狗になることこそ人のあるべき道ということになるのではないだろうか。昔から「苦労は買ってでもせよ」と言われる時の「苦労」とはこの「天狗の鼻をへし折られること」に違いない。天狗の鼻をへし折られ続け、苦労した人間はきっとその経験を生かして立派な大天狗となり、人の信頼を勝ち得るに違いない。
みみっくも立派な大天狗を目指して努力し、いつか「鉄壁の自信を語ってさまになる」存在となることを誓うであろう。どうか見守ってほしい。以上である。