2005年11月21日読売新聞朝刊「米大統領中国に政治自由化要求」を読んで
中国が自由化したらどうなるのだろうか。そもそもブッシュ大統領は政治宗教の自由な国同士は戦争にならないと考えていると思われるが、果たしてこれは本当に信じていいことなのだろうか。
政治宗教が自由な国とはどのような意味を持つのだろうか。最初に思いつくのは、国家指導者を批判する権利だ。これがなければ自由であるとは言えない。そして確かにこれは戦争の抑止力として働くだろう。先進国の反戦運動を見ればこれは理解できる。しかし、それでもイラク戦争は行われた。相手が民主主義国家なら止まるという保障はあるのだろうか。現実問題として考えれば、確かに民主主義国家で現在のアメリカを相手に戦おうとする国家は想像できない。
しかし、イギリス相手だったらどうだろうか。つまり勝つ見込みがある場合には話は別なのではないだろうか。極論を言えば、イスラム圏が民主化して経済発展した場合、民主主義国家であるイスラエルを攻撃しなくなるのだろうか。もっともこれは宗教が自由化していないという状況であると考えられる。つまり片方がユダヤ教、もう片方がイスラム教で固定された状況で反発し合っているから対立する。
つまり民主主義国家同士でもこのような「譲歩不可能な思想」があれば対立を避けられないのではないだろうか。考えてみるとこれは何も国家同士ではなく、国家内でも同じことが言えそうである。例えば歴史教科書をめぐる争いは国外国内両方で争われているし、靖国問題だって同じである。もしこの両者が譲歩不可能であれば戦争になるのは、オウム真理教の例を挙げれば充分だろう。あれは立派な武力抗争つまり外国相手だったら戦争と呼ばれる行為なのだから。
そもそも歴史を溯れば民主主義自体が、このような対立を議論を通して解消することを目的として成立したシステムであると考えられる。つまり民主主義国家の特徴は野党が野放しになっていることであり、民主主義でない国家は野党が存在できない。これは野党を武力討伐でなく、平和的に日本的に言えば話し合いで対立を解消するために、政治システム内に野党を取り込み、その意見を政治に反映させることで武力闘争を避けたからであると考える。
この野党の意見を取り込むシステムがない場合には、野党の不満は武力行使という形で行われ、これに対する与党の反撃は鎮圧という形になるだろう。このようなことは今も世界中で起こっている。反乱と鎮圧こそ与党と野党の武力抗争そのものではないだろうか。とするならば、民主主義が多数決による決定よりも、少数意見を尊重して充分議論を行う必要がある点に重点が置かれているのも当然だろう。つまり野党が納得しなければ、武力闘争に逆戻りしてしまう危険があるのである。
このことは二つの連想を生む。つまり世界でもこのようなシステムがあれば戦争や対立の解消になるのではないだろうか。二つの勢力の対立が戦争に発展せず、両者が妥協できる点を模索できればいいのだ。そもそもこれこそ外交の目的であり、国連の存在意義でもあるはずである。戦争を前提にしたならば、外交交渉は謀略でしかない。しかし戦争回避を前提にするならば、外交は妥協点の模索となるはずだ。民主主義国家はこれを議論の前提としてもいいのではないだろうか。つまり既に国内でこれを行っていると考えられるのだから。
もう一つの連想はオーム真理教である。このオーム真理教は衆議院に立候補している。つまり政治主張があったということだろう。宗教扱いをするよりも、世間に不満を持つ人間の集団として扱ってあげれば良かったのではないだろうか。そもそも不満な人の言葉を聞いてあげることは、人生相談などでもわかるように、不満をなだめる効果がある。事実解散した後の信者たちは、まさしくこういう扱いを受けたのではないだろうか。「不幸な人たち(不遇な立場)」として扱われた彼らの中には社会復帰した人が少なくないはずだ。最初からこれを行うべきだったという主張に違和感を持たれる方はおられるだろうか。
そもそも政治主張とは、現状に対する不満ではないだろうか。私の政治主張もまさしくこれである。つまり現状に不満があるから政治主張を行っているのだ。だとしたら、多くの人に話を聞いてもらえれば当面の目的は達成したことになる。そしてこれ以上を期待するならばもはや政治主張ではなく、政治行動を行わねばならないだろう。過激な行動(実力行使)を採用しないならば、署名を集めるとか、選挙に立候補するとか、デモ行進を行うとか。つまり政治行動そのものである。
しかしながら、政治行動の前には政治主張が存在するのは当然である。これを人に伝えて共に行動してもらうためにこそ政治行動(活動)を行うのだから。テロや戦争だって言ってみれば究極の政治行動ではないのだろうか。主張が相手に伝わって相互理解が可能になれば、このような行動よりも対話こそがふさわしい態度になるはずだ。そしてこの「対話」とは国家間であれば外交交渉のことであり、国内であれば議会における議論ということになるだろう。
政治宗教の自由化の本質は、この対話による対立の解消であると考えられる。ならば日本の伝統を活用してはどうだろうか?日本は「和をもって尊しとなす」の伝統を持ち、話し合い絶対の文化を持つと言われる国である。話し合いによる対立の解消。この文化を世界中に広げようではありませんか。この文化を必要とする国は世界中に存在していると考えられるのだから。え、日本国内でも話し合いで解決していない。バカの壁は大ベストセラー。仕方がない。
新しい方法を開発しよう。確かに対話による対立の解消は、今まで最終的な解決とはなっていない。しかしこれは絶対必要だと考える。対話による対立の解消が不可能であれば、戦争の回避もまた困難に決まっている。人類の未来はこれ(対話による対立の解消)に掛かっているのだ(これ政治的主張)。もしこれに成功すれば、人類は戦争の無い明るい未来社会を築き上げることができることは間違いないのだから。