ジェラルド・ギャレゴは遺伝的気質を多く含む性的犯罪者だったようだ。
彼の父親は3件の殺人を犯し、1955年に28歳という若さで処刑されている。しかしギャレゴは長らくこの事実を知らずに成長した。
10歳のとき初めて警察沙汰を起こし、13歳のとき、7歳の幼女を強姦して少年院送致となった。18歳で最初の結婚をするが、32歳までに7回もの離婚と結婚を繰りかえす。その間にできた娘がひとりいたが、ギャレゴは娘が8歳のときから彼女を犯し、14歳になると肛門姦したあげく、彼女の友人までも強姦した。この件は警察に訴えられ、ギャレゴはその地を逃げ出した。
ギャレゴがシャーリーンと知り合ったのは1977年のことである。
シャーリーンは富裕な家のひとり娘として溺愛され、なに不自由なく育った。大学で麻薬とセックスを覚え、21歳までに2回結婚し、2回とも離婚。ギャレゴと知り合ったのは、「目かくしデート」という、相手が誰だかわからないでデートするという少々いかがわしい企画のパーティで、であった。
シャーリーンはギャレゴの虜となった。彼の男性的な荒々しさ、暴力的なセックス、前科、強烈な妄想と権力欲。そのすべてが彼女の目にはたとえようもなく甘美でロマンティックに映った。
1978年、ふたりは結婚(法的にはギャレゴが前妻と離婚する手続きを怠っていたため、無理だった。いわば内縁の結婚でしかない)。
ギャレゴは妻に、
「おれが欲しいのは10代の処女のセックス奴隷だ。オーラルセックスとアナルセックスにいつでも応じる完璧な奴隷、そいつが欲しい。おまえはおれの妻なんだから、奴隷探しに協力しなくちゃいけない」
と言い、シャーリーンはこれを承諾したようだ。彼らの殺人は1978年9月から始まる。
9月11日、ショッピングセンターでシャーリーンはふたりの少女(16歳と17歳)に、マリファナを吸わせてやると言い、車までおびき寄せた。車の後部座席にはギャレゴが待ちかまえており、少女たちは強姦された末、人気のないところで後頭部を3発撃たれて殺された。死体は投げ捨てられた。
1979年6月24日には、14歳の少女と15歳の少女を誘拐し、強姦して殺害した。
1980年4月24日、ふたりの17歳の少女が誘拐される。ともにハンマーで頭蓋を殴られて殺され、3ヵ月後に腐乱死体となって発見された。
同年6月6日(殺人の間隔が短くなってきているのがわかる)、妊娠5ヶ月の女性が誘拐され、殺害される。死体が発見されたのは3週間後で、手をロープで縛られ、頭を鈍器で殴られていた。だが気管に砂が入っていたことから、埋められた際にはまだ生きていたものと思われる。
7月17日、34歳の女性が誘拐、殺害される。
11月2日、ふたりはレストランでイブニングドレスを着た美女を見かけた。ギャレゴは「あれをモノにしたい」と言い、シャーリーンが「でも、彼氏付きよ」と反論したが、「問題ない」と却下した。
カップルが店を出たところで、シャーリーンが彼らに話しかけ、銃を付きつけて車に乗せた。しかしこの様子を見ていたカップルの知り合いの学生が、ふたりの表情がおかしかったことに気づき、車のナンバーを書きとめていたのを、ギャレゴとシャーリーンは知らなかった。
カップルの男のほうは車内で射殺し、死体は投げ捨てた。女はギャレゴのアパートに連れこまれ、彼の倒錯した趣味を満足させるのに「使用」された。シャーリーンは被害者が泣きわめき、哀願するのを隣室で聞いた。
被害者の死体は5日後に発見された。後頭部を3発撃たれ、あきらかに強姦されていた。
学生がひかえたナンバーからシャーリーンの名前が割れ、ギャレゴの存在が浮かんだ。彼らはネブラスカで逮捕された。
逮捕されたのちも、ギャレゴは「陪審員がみんな女なら、自分の味方をしてくれる」と信じていたが、当然ながら陪審員には男性も含まれていた。彼は2度の死刑判決を受け、シャーリーンは有罪答弁取引のおかげで16年の刑で済んだ。