メッセージ  天心観測

自分以外のすべては、「魂」そんな話を前にした。

この世は、メッセージすべて自分宛だ。

どこかにある何かも、誰かから放たれる何かもすべてメッセージだ。


でも、

そのままだとメッセージ化できないこともある様子。

ここが面白いところで、メッセージは自分の受け取り方次第でどうとでもなるということになる。

たとえば、

「仕事で、それは自分のことなので、私は、教えません。」

って言われたらどう取るか。

うっ、と少し苦しくなるのか。
元気がなくなるというメッセージにしてしまうのか。

それとも、
今は、自分で頑張ってみるといいことがあるよ、と捉えるか。

私は後者で取ってみた。
突き放されたのではなく、今は、自分でやるといいことがあるという意味だと。

そんなの、思い込みの都合のいい解釈、戯言と思うかもしれないが、
面白いのは、その方が結局自分が動き出せるということだ。

打たれた杭を気にしないというか。

すべてを「自分が何か動き出すためのメッセージ」と捉える。

変換を繰り返して、自分が納得のいく、人生の辻褄の合うものを導けるといい。

もちろん、怠慢、怠惰、惰性はご法度である。
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命と時間(はじまりのおわり)  命と時間

生きているということ。

これは、命と時間を手に入れ続けているということ。

私たちは、命のもつ可能性を発揮して、時間を手に入れているということだ。

ただ、その可能性というのは、生きていることで自然と表出することだし、
時間を手に入れることだって、それは対価を支払って手に入れるようなものではなく、いつも今、そこに在るだけで手に入れられるものである。

人の最大の価値は"今"そこに在るという事実に集約される。

それをつなぐことができるかが問題となる。


時間をなんらかの形でつなぐために、命がある。

そしてその、命を癒すために、時間という最終兵器がある。

この世の目的は、命という側面と、時間という側面から見ることで理解できるかもしれない。
そして、この二つの目的を踏まえつつ、二つが合わさっていることで、求められている根本の目的が達成されるわけだ。

命は何をしたいのか。
時間は何をしたいのか。

私たちの目的はこの二つの要求に応えることである。

と、なれば、命と時間の価値が人によって決められるのは正しくはないということになるだろう。

命と時間の根本目的があるのだ。誰かの目的のために命と時間が使われるべきではないのだ。

言ってみれば、自分の命と時間が持っている目的のために、自分の命と時間を使うべきということになる。

ただ、当然、自分の中のバランスと全体のバランスがある。
自分としては不当でも、それが全体としてバランスを取っていることはある。
そういうときに大切になってくるのは、自分は何を不当と思っているのかということ、
その不当さを解決する術はあるかということである。

しかし、簡単に解決することはできない。
社会において、正義とは、利益のための口実にすぎないからだ。
社会において、支配には、利益がある。だから、支配が起こる。
そして、その反対にその支配をなくすことに利益のあるものが、別のルールを提案する。
その別のルールが不当さを生むこともあるだろう。
正義は、良い結果だけを生み出せるわけではないのだ。

ただ、ルールの提案は、たとえば、支配していない者や場所、もしくはされている側から出る。
利益のためのルールの提案は不当だが、その提案は、生命をおびやかすほどの不当さではなく、
もともとの支配による、生命をおびやかすほどの不当を拭うことができるだろう。

不当な支配は淘汰されるべきである。
いわゆる「銃が悪いのではない。銃を使う人間が悪いのだ。」ってやつだ。
支配が悪いのではなく、支配をする奴が悪いってことで、
その支配の内容によっては、(ルールの提案者など支配する者が変われば)、不当さは拭われるってこと。

話を戻してく。

これらを踏まえて、自分の現在の実感を基に思慮すると、

銃ではなくなった(つまり人が誰かに殺されるほどではなくなった)が、
それはただ、銃でなくなっただけであり、陰湿な何か、
もっと遠回りして人を追いつめるような何かに変わったのではないかと思う。

自然的に死ぬ。しかし、それは寿命という意味ではなく、
社会からの孤立であり、人間を人間足らしめる社会からの排除である。
そういう殺し方。

君の命と時間には価値がないよっていう音のない宣告だ。

だから、命と時間の価値ってなんなんだよ。

本当にそう思う。

言いたいことはさ、

社会でみんなが価値があると思っていることだけが命と時間の価値じゃないだろってことだ。
こんなの誰でも思ったり言ったり考えたりしていることだけど。

もっと命と時間が根本的にしたかったことはこんなことじゃないんだ。

思うのは、
誰かの役にたつとか、何不自由なく手に入れることができるとか、楽しく生きられるとか、
本来、求められる命と時間の価値はこんな動作や事実のことではないのだ。
他人が喜ぶための能力を育むことでもない。

何なら、誰の役にもたたない、何も自由に手に入れられない、生きているのがつまらない。
そういう人の価値はないのかよ。ってことになる。

命と時間の価値は、
命と時間をつなげているだけでその目的を成し得ているのだ。
それだけでいい。

でも、命と時間をつなげるだけであれば、私たちに意思はいらないということになる。

地球の話をする。
昔、ここは、時間をつなげるだけの星だった。
その、時間をつなげるだけのときには体験できなかった何かを超えるために、
命が誕生したのだ。


それは、言えば、
形にとらわれないで時間をつなぐってことだ。
自然物のときは、物理法則ですべて循環していたはずである。

それに神は一つ、粋な奇跡を施した。
きまぐれの奇跡であったのかもしれないが。
一滴の神の雫である。

なんと、まぁ、神は生命を誕生させたわけだ。

時間をつなぐという目的があるから、生命は本能にある後世を残すということに一切の疑問がない。

そして、生命を誕生させた理由をまとめると。

要は、誰かは、
天の誰かさんは、完全なる選択がみたいのだ。
"それ"しかないから"それ"を選択するのではなく、
今分かる言葉で説明しきれば、

"すべてを知った上で、自然に時間を運ぶ様"

をアイツは見たいのだ。
時間を運ぶという意思をもって時間が運ばれていく様を。

そう、ただ時間が運ばれる様ではなく、あれやこれやと思いながら、
たくさんの命が選択しかかわり合った、全員が選択し運ばれる時間を。

意思をもって時間を運ぶには、意思を持った命が必要となる。
ゆえに、時間を運ぶという意思を持って時間を運ぶためには、生命の存続が必要不可欠だ。

もう一度言うが、何も知らずに生命が時間を運ぶのではなく、いろいろ知って理解した上で、
時間を運ぶのが見たいのだ。

そして、これまでの時代における様々なことは、生命が真に選択し時間を運ぶことに辿りつくためにあったわけだ。
ここに辿り着くために、散々壊し、殺し、傷つけてきたのだ。
無理矢理運ばせる時代を通して、自らの意思で時間を運ぶ役目を全うしきれるようになってきたということ。

現に、ここ最近は、地球が安心して回れるように、あれやこれやと考え、
時間をつなごうとすることが意識されている。

そもそも
"私たちがどうしてここにいるのか。"

そんな疑問がどうして出るかと言えば、そんなの意思の問題でしかない。
ここに在るから。その事実があるのだから、他に言いようがない。
私たちはそこにいるだけで善なのだ。それだけで役目を果たしている。
なぜなら、命と時間を運ぶという役目を果たしているからである。
その役目を果たすのだから、ここにいるのは当たり前である。

ただ、運ぶのを何かのせいにしている人は、嫌気がさしていてそういう疑問が出る。
何かに脅かされている人は。

そういう人は、目の前の命と時間の価値に心を奪われているのだ。
また、反対に世の中には、命と時間の価値になど、触れもせず、何も気づかず、
ただ時間をつないでいる者もいる。

しかし、目の前の命と時間の価値に気づこうが、また、気づかずとも、本質的な命と時間の価値は変わらない。
だからといって、気づいたから何かがどうかしてしまうわけでもない。
時間と価値の本質的な価値に気づいて変わるのは、生きていく上で、選択をする際の神経質さが少し緩むくらいだ。
多少人生を信頼して安心して生きれるってことだ。

ここで、これまでの世界の流れを要約する。

本当に大切な要約を。

端的にいきたい。

私たちは、ある日、世界を手にかけた。
支配をしようとした。
しかし、それはどこか間違っていたようだった。
なぜなら、あのとき、確かに誰かが泣いていたんだ。

だから、もっと上手くやる必要があった。

そうだ、と、誰かが閃いた。
それが人の人による人のための社会だった。
そこでは誰もが生きられた。
けれど、やっぱりあのときと同じように、見えなくなるほど隅に追いやられ、覆い隠され、小さくなって、
どこかで誰かは泣いていた。
まただ。また、泣かされたんだ。今だって泣いている。

でも、社会では、人間によって、命と時間の価値がつけられていたから、
泣き声はいつも笑い声に埋もれてしまった。

そこでは、何かができないとダメだった。
運動、勉強、人助け、優しくする、おもいやり、論説、犠牲、力の行使、人殺し、誰かを陥れること。
そうしなければ、社会が声を聞いてくれることはなかった。

そこでは、何かを持ってないとダメだった。
家柄、肌の色、道具、金、食料、資源、居場所、美しい顔、健康な身体、身分証明書。
それがなければ、社会は声が聞こえてもすぐにそれを掻き消した。

今はどうだ。

何かが変わりつつあるはずだ。

もうすでに、私たちの根本には、これまでとは違う、命と時間の本質的な価値があると分かっている。
何もできなくても、何も持っていなくても、私たちには、命と時間をつなぐ、それ自体に価値があると分かっているのだ。
何もできなくても、何も持っていなくても、私たちは、意思をもって行動していいということだ。

運動をするのか、勉強をするのか、人助けをするのか、優しく生きるのか、おもいやりをもつのか、論説し伝えるのか、犠牲となり誰かを生かすのか、力の行使を人を殺めるために使うのか守るために使うのか、誰かを陥れるのか誰かに手を差し伸べるのか。
何も決まりはない。

すべて、自分の意思で選んでいい。

家柄が良くたって悪くたって、肌の色が同じだって違ったって、道具があったってなくたって、お金があったってなくたって、食料があったってなくたって、資源をもっていたってもっていなくたって、居場所があったってなくたって、美しい顔があったってなくたって、健康な身体があったってなくたって、身分証明書があったってなくたって。
何も関係ない。

すべて、自分の意思で選んでいい。

すべて、自分の意思で選んでいいのだ。

時間を運ぶだけだと分かっている。
その時間を意思をもって、すなわち、命をつないで運ぶのかどうか。
その選択をすればいいのだ。

自分で選択して生きればいいのだ。

人に優しくしなくたっていいのだ。
けど、する。なんで?したいから、そうやって時間をつなぎたいから。
それが自分が在るということであり、選択をし、オリジナルの時間が運ばれることになる。


(人殺しもありなわけ?って思うでしょう。また、そこには別の原理、ルールがあります。それは命と時間の価値の根本を知ってから考えることで、理解が深まるはずなので、また別口で。)

一言で言えば、

「私たちは、何を言われようが、一人ひとり自分として、時間をつなぐ役目を担っている」

ということです。

"私たち"ですよ。

ってことは、他人の時間運び、もとい命の活動も認めようよって話です。

けど、やっぱり"良い"と言われる人がいて、"悪い"奴もいて、
それでバランスが保たれているんじゃないの?全員が認められるなんて結局バランスがなくてダメになるでしょ?

そう思っているあなたは、天秤に恋をしすぎです。

この星に本当は、優れているとか優れていないとか、
時間と命の価値の善し悪しはないんです。
みんな同じなんです。

その証拠に、私たちの全体は決してシーソーに乗ってバランスをとっているわけではない。
どちらかが上がったり、下がったりして安定、動かないということを維持しているわけではないのだ。
シーソーにのって、均等なバランスを取ることは、それは当然に難しいことだ。
一人と一人ならできるかもしれないが、この星には70億人もいるのだから。

けど、よく考えれば分かることだが、

私たちはシーソーには乗っていない!!

私たちは、重力のある、玉の上にいるのだ。
バランスボールなら話は別だが重力がある。

地球は誰も置いて行かないのだ。
弾んでしまって飛び出したりはしない。
地球は私たちを魅了して引きつけて止まないのだ。
シャアもそんなことを嘆いてた気がする。

一人一人が立っていいのだ。

そして結局、私たちに、命と時間を運ばせて神は何を望むのか。


少し話しが逸れるが、神が何か目的を持っているとすれば、
それは、神の量産だろうと思う。

神も神以外を体験したいのだ。
要するに、神は私たちにその能力の一部を委託しているということだ。

でなければ私たちは意思を持てない。

私たちが運ぶ私たちがいるはずがないのだ。

もちろん神がいなくなったわけではないから、
神は、私たちがあまりにも苦しんだり、道を間違っているときには、ひょいと小指で私たちを動かしてくれる。
そうして起こる奇跡が偶然とか運命とかってものだ。

偶然や運命があるが、
私たちは、ほぼ私たちの意思によって命と時間を運ぶのだ。

ほぼというのは、当然で全て私であったなら、それは神と変わりない権利を持っていることになる。
いつも自分だけの好きな時間を運べるからだ。
あくまで運ぶのは、私"たち"であり、私の意思には、少なからず他者の意思が入っている。
他者の意思も踏まえて起こる行動が私なのだから、私だけということはいつだってありえない。

意思のある人々がバラバラに動いても自然とうまく作用し合い地球を運営できることが、
この超次元高速立体パズルのようなものが、地球のしくみとしてあり、
そのしくみが働き続けられるのは、時間を運ぶという目的に全員の目的が一致がしているからである。

さきほど括弧で記したが、これを踏まえると、自殺についても人殺しについても多少説明がつく。

自殺は、時間を運ぶのをやめてしまうということだから悪いと感じることであるし、
人殺しも、他者の時間を運ぶのを止めてしまうのだから悪いと感じることになる。

みんなで地球を中心にして時間を運ぶという目的があるのだから、
そこからはみ出るのは悪いことだという感覚を抱いて当然であり、
その"嫌だな"という感覚だけが、時間を上手く、心地よく、正しく運ぶためのヒントになる。

もちろん、何をしても、たとえ社会で悪いと言われることをしても、時間が運ばれなくなることはない。


だが、もし、この地球や宇宙にはじまりがあったように、終わりがあるとすれば、時間を運ぶ人が減った分、終わりが遠のくというパターンもあるのかもしれない。

そう考えると、あながち自殺や人殺しが悪いとは言えなくなる。
社会の価値、今の地球が好きだと留まりがちな人(よくいるんだ、自分は自分とか言って変われない人が)が、
この世界を長引かせるために、そういう人を生み出している可能性もあるわけだ。

ただ、地球はいつだって、今日も、回っているから、総合的な時間の運びに対する悪い出来事も踏まえて一番良い求められている進み方が、全員の意思を踏まえて選択できているのかもしれない。

不思議と心理の世界には、"心的外傷後成長"という言葉がある。
心的外傷があって、成長が飛躍するって話だ。
そうやってなんだかんだと、時間運びの帳尻を合わせられる方法が地球には内在しているわけだ。

天の誰かさんないし、地球ってやつは、意地でも時間を止めさせないつもりでいるのだ。

でも、それは大事なことだ、私たちは時間が止まったら立ち直れない。
もし時間が止まったら、ずっとそこに居続けることになる。時間と空間のしくみはホントにすごい。

時間がなければ、物質は移動しないわけで、私たちの脳も活動を止めるのだろう。
そうなれば、たとえば心は物質でなく私たちの中にあったとして、
ずっと気持ちが止まったまま変わらないのだ。
そんなの本当に死ねるだろうなって思う。

時間があるから、問題のすべては解決するのだ。
あーホントに地球ってすごい。

なんであれ、時間運び人としては、
自殺も、人殺しも、嫌だと思うのだから仕方ない。
これは"嫌だと思う"という時間運びに対する根本的な本能のプログラムであり、また、そう思うのも、必要な意思なのだろう。

そして、ここまで考え出すと、
っていうか、じゃあ、なんで俺たちが時間を運ばなきゃいけないんだ!この野郎って思う人もいるんだろうけど。

運んじゃうんだから仕方ない。

これは、息みたいなもんで、なんで息しなきゃいけないんだって怒りたいけど、怒ったって仕方ないのと同じで、本当に勝手に機能していることだ。
それに、時間を運ぶことを否定したら、自分に起きた体験のすべてを否定することになる。
私たちには、一つや二つは嬉しかったことがある。その反対でもいい。そのときにあった意思は、どうしたって絶対に嘘にならない。
確かにあなたはそのとき、ここに在ったのだ。生きていたのだ。それは誰にも否定できない究極的な事実だ。
この世で起きた、愛されるべき、讃えられるべき、あなただけの時間運びだ。

どうして息は良くて、時間運びが問題になるかと言えば、息は科学的に理由が分かるけど、
時間運びについては説明がないせいだろう。
しかし、あったらあったで、またそこに基準が、価値ができてしまうので説明がないことの方が正しいと考えられる。

そして、時間を運ぶ中での私たちの役目は、命の扱い方(選択肢に対峙したときの選択、意思を持つ)ということになる。
時間を運んでいく中で、どのようにその時間と付き合っていくかということだ。

もちろん何度か言ったように自分の意思で決めていくことが大切なポイントになるが、何をしたって時間は運ばれるわけで。

じゃあ、オレが、こんなに長くベラベラ、ダラダラ書いて、言いたいことは、何かっていうと、

どうせ何をしても運ばれるんだったら、楽しく、気楽にいかないか?
ってことだ。

はっきり言って、こんな嬉しい機能(地球における時間運びと命の関係)はない。
何をしたっていいんだ、失敗したって時間は運ばれていて、いずれその傷が拭われる保障があるんだから。

地球が回っている間は、
自分が夜寝て、朝起きられている間は、何も問題ないよってことだ。

しかし、まだこの世に社会はある。
それは、完全になくすことはできないものであり。なくしてしまうのは、どこか根本からずれることになるだろう。
社会では、当然、悪いことをすれば、自分の時間を奪われてしまう。
ただ、この点に関しては実に理に適っていてすばらしいように思う。
(もしくは、せめてそれ以上他人の時間運びを奪わないように、隔離しているのかも。)

奪われてしまうということは、どんな風に時間を運ぶかが、他者によって選択されてしまうのだ。

それが緩和されはじめたよって話なのに、本当に自由に運んでいいんだよって話なのに、それを蔑ろに無駄にするのはもったいない。
(なぜ社会があることに悲観的かというと、悪いことをした場合だけでなく、社会というのは根本から少しずれた命と時間の価値を持っているので、それを押し付けられるような、苦しみのある環境では、自分らしい命と時間の関係を感じ取れなくなるためである)

また、もしかすると、時間運びに数値があるのかもしれない。
とすれば、誰かが運べない分を誰かが運んでいて、その地球全体の数値は日々一定となるわけだ。

だから、時間が時間としていられるのかもしれない。
そうすると、運べる時間の数値の平均化を求めているのかって感じになりそうだけど、そう思っているわけではない。
でも、やっぱり数値的なものなのかもしれないとも思う。
平均化というのは、毎日同じというわけではなくて、やっぱり、人生で起こることによって消費時間が違うため、
最初の方の命と時間で書いたように起こした(起こった)イベントによって持っている消費時間が違うのかもしれません。
それが死に関するものであれば大きく運ぶべき時間を消費するわけです。
だから、人を死なせてしまったりすると、牢屋に入り、僅かな残りの時間を運ぶだけとなるため、自分の思うように時間を運ぶことができなくなり、ほとんどジッとしていることになるというわけです。

となると、やっぱりいろいろ、自分の行いによってその人が運べる量が変わるのかもしれませんね。
その運べる量が幸せの度合いと関係するのかもしれません。

運べる量の一番安定した運び量というのもあって、
もし、一気に運んでしまうと、それは致死量となって死が訪れてしまうわけです。
その致死量となってしまう時間運びをしなければ、死を回避できるわけだ。

日々を通しての、運び量のバランスが大切になってくるわけだ。
人生に起こることを、どんな風に配分して運んでいくかって話だ。
(非常にわけのわからないヒドい話になってきた。)

この間中、上映していた映画の作者と話の気がとっても合うか、全く合わないかだろうね。

そして、また、話を戻すと、
(ここまで → なんで時間を運ばなきゃいけないんだ!って思う人もいるだろう。)

それでも、時間運びに納得できなくても、
一つ誇っていいことは、実際に私たちが時間を運んでいる。
(生きていれば、多かれ少なかれ、確実にもう運んでしまっている)

ということだ。

私たちが、いつもいつも、そのときそのとき意思を持ち、選択し、時間を運んだということは揺るがない事実である。

神は私たちにそれを求めたのだ。

時間を運ぶという意思を持って、運んでいくことを。


誰かさんの希望に従って、運んでやったのだ。

この時間運びを終えたとき、誰かさんはなんて言うのだろうか。

私がこれを終えたとき、もし、いわゆる誰かさんが「お疲れさま」とでも言おうものなら、

「説明なさすぎだろ!!」と言ってぶん殴ってやるつもりである。2発。

言ってしまえば、それだけが楽しみで、生きていると言っても過言ではない。

だから、私はどうどうと時間を運んだと言い切るために、きちんと時間を運ぶ、すなわち、きちんと前を向いて生きようと思うのだ。

そもそも、神は神だよ、なんでもできるし、知っているの。
私たちが考えることも、どうするかも、そこまで計算済みである。

しかし、神がはじめに試みた、ただ運ばれている時間は何も生み出さなかった。
それでは、ただ時間が過ぎて循環するだけだった。

そのとき、唯一、

"時間を運んでいるだけでは、張り合いがない"

という結果だけは得ることができた。

そして、次に神は、意思を持って時間を運ぼうと思い、選択させ時間が運ばれることを試みた。
神は私たちにいろいろ知恵をやったのだ。

さっき言った私の願望である結果を起こすために。

そう、自分を殴らせるためだけにだ。

自然と自分を殴らせるには演出が必要である。
本当の意味で、神でないものに神自身を殴らせるにはこれぐらいの大掛かりな仕掛けが必要なのだろう。
人々が神を信じなくなったころ、ある程度神と心が離れたころ、これまでの歴史、今までの流れが必要だったのだろう。

要するに、神は、刺激的な、最高級で最大級なつっこみがほしいのだ。

しかし、この感覚が世界で同時的に起きて、みんなで一斉に神を殴るとしたら、

「神は死ぬな、いや!死ぬね!!」
byとんねるず、みなさんのおかげでした

そして、その後に、最高に幸せそうな笑顔で言ってやろう「あぁ、本当につまんなかったぜ」と。

「けど、わるくないかも」ってね。

本当、こういう、真に自分で選択できるという機会、生をもらえたことには感謝できるね。

神様、お前本当に面白いわ、って思う。

私たちは、本当に、真に、命(自分の意思で自分の感覚)を使って時間を運ぶんだ。

もう、社会がもたらした命と時間の価値(何を持っているか、何をすることができるか)は関係ないんだ。

それを超えて、何もしなくてもいい、ってなったところで何をして時間を運ぶか。

それは、実に、本当の、本物の時間を運んでいるっぽいじゃないか。美しい感じがある。

より、洗練された方向に、自分を傾ける、寄せていくんだ。

また、何をしなくてもいいのに、何かをするっていうところが、限りなく人間らしい。
この部分だけでも、人間が時間を運ぶ役目を担っていることがよく分かる。


そして、最後ね。

注意なんだけど、この話は、社会の価値を捨てろってことではない。

それに、先人たちが苦労して培ってきたものを、当然、捨てたくない。

要は、誰のせいにもしないで、自分の意思に気づいて、必要な価値を選択しろってことだ。

その中に、時間を運んでいるという前提があれば、他人の命と時間の価値を危ぶめることはないだろうと。

ねらいはここだ。

誰かが誰かに脅かされることをなくしたいだけなのだ。

生きていて、ただ助けられるだけの人生。これが地球のもともとにある基盤だ。

笑っていこうよ、苦しみ、辛さ、悲しみ、怒り、それもバランスよくあって、笑顔になれる調和を選択していこうよって話だ。

自己のバランスを選択するんだ。

そして、全体のバランスを見据えるんだ。

そのバランスを取る為に、他者を傷つける必要はないだろってことだ。

人生が全う出来る保障はある(時間を運んでいるから)のだから、楽しくやれよってことだ。

社会を憎むのではなく、今、変わりつつある、ここに来るために今までがあった、
私たちは犠牲になったのではなく、常に最前線だった、すべてが必要であったのだ。
それでも憎まずにはいられなかったのは勝手な私の意思だった、でもそのときは時間を運んでいることを知らなかった。これからは、私たちが運びたい時間を運びたかった、もう選択できる権利が委ねられ、その準備はいつでもできていることをここに記しておく。

揺るがない選択をするということ、
その方が、具体的に、鮮明に、はっきりと、
これらは、清々しいという意味で、心地よく時間が運べるだろう。

自分の意思で決定し、生きて行くのだ。それが真に命を生きるということであり、運ぶべき時間を運ぶ術となる。
もし失敗しても必ず命は全うできる。そのために時間がある。私たちはただ、つなげばいい。
そこに、自身の選択という味付けをするだけだ。それに、結局はちゃんと運べる保障があることを忘れないで。地球は誰も置いていかない。今日も回る。
あなたの、自分の人生を、信じ、愛し、笑顔で大切な時間を運び終えることを心より願う。いつも。

2012.06.02 雀の鳴く土曜日の中で


今回は、大分書きたいことが書けたような気がする。
本当に長いのを読んでもらってありがとうございます。

また、語り合おうぜ!!
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ルールを守れる人は、やさしい人。  天心観測

ルールを守って。

なんてのは堅苦しい。バカじゃないのって言いたくなる(大竹しのぶではない)。

なぜ、苦しく、バカと思うかというと、大人がそれを武器に攻撃してくるからである。

ルールを守ってというのは、やさしいとかあったかいイメージがない。

でも、ルールを守るということは、なかなかあったかいものである。
この言葉を聞いてからそう思うようになった。

「ルールを守れる人は心の優しい人です。」

うーん。なるほど。

ほんとかよ、って感じるけど。

よく考えてみれば、ルールっていうのは、より多くの人が一緒にすごすために作られている。
ルールを守ると、たくさんの人が気持ちよくすごせるのだ。

よくルールを守ることは当たり前みたいに言うけど、
当たり前なんて簡単なものではなくて、優しい、それもとてつもなく優しいことなのである。

優しい人をよく見てごらん。
その人は絶対ルールを守る人だから。

優しい人を思い浮かべたとき、その人は大抵ルールを守っている人である。
私は優しい人になりたい、だからまずルールくらいは守ろうって思う。
思うだけだけど・・・笑

ルールって言葉への嫌悪感がどこから来るのか考えた。
おそらく、ルールを守るという武器を掲げた輩がいたわけだ。
そして、ソイツの持っていたルールに嫌な感じがしたわけだ。

まぁ、理由は、そこに、
みんなのためのルールではなく、
自分のためのルールが見えたからだろう。

子どもたちは、大人のために静かにするために生まれてきてはいない。

子どもには、なぜルールを守らないことが優しくないことか聞いてみようと思う。
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ともだちは、じぶんがあそぶための、おもちゃでしょうか  天心観測

ともだちは、おもちゃではないだろう。

だって、にんげんだもの。とボケたところで考える。

ともだちは、じぶんがあそぶための、おもちゃでしょうか?

と、尋ねると、

おもちゃ→大切な人間
じぶんが→一緒に

と、この辺を子どもたちから引き出せたらいいと思う。

おもちゃとにんげんでなにが違うか?

きもちがある、こころがある、かんがえがあるなど。

あそぶときに、相手のきもちやこころやかんがえを感じて遊んでいるか?

たとえば

じぶんがやりたいことをやってくれないから
ともだちをかえるとしたら、
それは、おもちゃあつかいではないのか。

ともだちは、そのともだちがすきなのであって、
じぶんがあそべればだれでもいいというのは、さびしいだろう。

おもちゃではなく、ともだちとしてにんげんとしてあつかうには、なにがひつようか。
おもちゃではなく、にんげんであったなら、
きもちや、こころや、かんがえがある。
にんげんとあそんでいるならば、きもちや、こころや、かんがえをたいせつにしたい。

ともだちはおもちゃではなく、にんげんなのだから。

コツは、あいてのきもちをじぶんのなかにいれることだ。
またじぶんのきもちもあいてにいれることだ。
きもちをてにいれるには、きもちをそとにださなければならない。

つまり、つたえかたもたいせつになってくる。
いうのかたたくのか、どなるのかやさしくいうのか、むずかしいことばでいうのか3さいでもわかることばをつかうのか。

かんたんなかんがえかたとしてふたつあげる。

たぶん、
つよいものからよわいものへつたえるのはかんたんだ。
としうえからとししたにつたえるのはかんたんだ。
たいせつなのは、そのはんたい。

1.よわいものからつよいものへ、
2.とししたから、としうえへ
きもちがつたえられれば、にんげんをたいせつにあそべる。
あったかいあそびなる。

ともだちにいばったり、めいれいしたり、ばかにしたり、わるいことばをつかったり。
これは、としうえのひとやつよいひとがよくやってしまうしっぱい。

こんなひととあそんでいるひとは、おもちゃにされているみたいにかんじるだろう。

じぶんだけのこころやきもちやかんがえであそんでいたら、それはともだちとあそんでいるのではなく、おもちゃであそんでいるのといっしょだ。

ともだちは、とうぜんいやになっていなくなる。だって、おもちゃじゃないからね。

みんなには、ちゃんとにんげんといっしょにあそんでほしい。

つづく。

と、まぁ、一つ分かることは、教師は話が長いということだ。
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何が起きてもおかしくない  天心観測

ドキドキである。
焦りまくりである。
さて、どうなることやら。

この莫大な不安が何ヶ月後かにどうなっているのか。
非常に興味深い。
人生は誰にも予期できない。

人には幸せしか存在しない。そうに違いないのだが。

今日、何ヶ月後かへの人生のスイッチが一つ入れられる。
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タグ:  幸せ 人生




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