2018/2/23

シャラートのベルギー講演  Translation

 今回はシャラートがベルギーで行なった講演を翻訳しました。
 この講演ではヤマ、ニヤマとアーサナ練習との関係が詳しく語られています。アシュタンガヨガの練習生にとって、これはとても気になるテーマ。ご一読ください。

(注1)出典はベルギーのヨーガスタジオ“Ashtanga Yoga Institute”のWebサイトに掲載されていたテキストです(http://yoga-ashtanga.net/en/about-ashtanga-yoga-teacher-workshop/)。
(注2)僕はこのスタジオをよく知りません。またいつの講演なのかも未確認です。なので、テキストの信頼性を保証できません。しかし内容を読んで、シャラートの発言が正確に再現されたものと判断し、公開することにしました。
(注3)元が講演ですから、聴衆との関係性や場の雰囲気をふまえなければ、発言の意味やニュアンスを取り違えてしまう恐れがあります。特に他の流派に対して批判的な言及をしている箇所については、そこをわきまえて読んで下さい。



アシュタンガヨガ・ティーチャーワークショップについて

シャラート(グルジの孫)からのメッセージ

現代世界では全てがインスタント(即席)です。誰も忍耐強さを持っていません。誰もができるだけはやく(何でも)手に入れたいと願います。ヨーガの世界もそうです。あなたはいろんな場所へ行って、15日か1ヶ月そこらでサーティファイ(教授資格授与)してもらえます。インドに来る人はいつもこう思っています。「ひと月もここにいて勉強したんだから、当然サーティファイしてもらえるだろう」と。

私たちのところにはたくさん電話がかかってきます。先週も三回電話をもらいました。ひとつはデリから。ひとつはイングランドから。もうひとつはアメリカからです。彼らは単刀直入にこう言いました。「そちらではティーチャーズ・トレーニングをやっていますか?」と。

ヨーガは規模が大きくなりましたが、分別を欠いたもの(crazy)にもなりました。ヨーガが無分別なのではありません。人々がヨーガを無分別なものにしているのです。彼らはヨーガの意味も、ヨーガの純粋さも理解していません。ヨーガの先生たる者は、つねに練習(practice)の純粋さを保たねばなりません。

私が子どもの頃は、中国人や日本人を見るといつも、あの人は空手が使えると思ったものでした。決して近づこうとはしませんでした。その人は空手の達人だと思い込んでいましたから。それ以前にブルース・リーの映画『ドラゴンへの道』を観ていたのです。その当時はテレビも何もなくて、唯一の娯楽は劇場へ行って映画を観ることでした。そういうわけで、『ドラゴンへの道』を観た私たちは、中国人や日本人はみんな格闘技ができると思い込んだのです。近づいたらぶっ飛ばされるぞ、離れていろ!とね。……ヨーガの世界でも、いま同じようなことが起こっています。サフランやルンギ(南インドの伝統衣装)を着て、インド人のような格好をしていれば、誰でもヨーギー(ヨーガ行者)になってしまう。たくさんのヨーギーが雨後の筍のように、あっちこっちに出現しています。なぜこんなことを言うかというと、ヨーガの練習生にとって、先生を選ぶことは非常に大切なことだからです。先生とは、あなたを正しく導ける人のことです。ヨーガを熟知し、長年練習を積み、一つの系譜(a lineage)につながっている人が先生です。このことがとても重要です。

バガヴァッド・ギーターにはこう書かれています。

「私はこの不滅のヨーガを太陽神ヴァスヴァットに教えたが、彼はそれを人類の祖マヌに教え、さらにマヌが大王イクシュヴァークに教えたのである。ヨーガは師弟継承の鎖(parampara)によって伝えられ、先王たちはこれをよく会得してきたのだが、久しい時を経てそれは失われてしまった」(第4章、詩句1,2)。

バガヴァッド・ギーターはとても偉大で美しい書物です。それは18の章を通じて、つねにヨーガの実践について説いています。パラムパラを通じてヨーガを学ぶにはどうすればよいのでしょう。パラムパラとは一つの系譜に連なりながら学ぶことです。クリシュナマチャリヤがラーマモハン・ブラマチャリから学び、パタビ・ジョイスがクリシュナマチャリヤから学んだように。それが系譜ということですね。それはこの辺にある、誰でもドアを開けられる電話ボックスとは訳が違います(屋外を指さしながら)。電話ボックスなら、どの通りにもありますが。……正しいサーダカ(修行者)であること、正しいサーダナ(修行)をすること、これは先生から生徒への伝達が行なわれる上でとても大切なことです。先生が自分の生徒に知識を伝えるためには、まず先生自身が何年もかけてそれを修得しなければなりません。内的な経験を積まなければなりません。そのときだけ生徒に正しい方法を伝えることが可能になるのです。

今日ではYou-tubeでたくさんの動画を観ることができますが、それはサーカスなのか、ヨーガなのか、それとも何なのかを見分けるのは非常に困難です。どれもこれもがクレイジーなヨーガです。多種多彩なる馬鹿げたヨーガです。そういうものが全部ヨーガになってしまいます。「裸のヨガ」ですって! いったいそれはどういうナンセンスなのでしょう? 「クークーヨガ」に「ホットヨガ」。「ホットヨガ」って何ですか? 「絶叫ヨガ」に「温熱ヨガ」に「炸裂ヨガ」……こういうクレイジーなものが何でもヨーガに数えられてしまう。

それはさておき、私たちが果たすべき務めは、ヨーガの実修者(practitioner)であることです。教えをやっている人もここにはいるでしょうね。いずれにせよ純粋さを保つことが大切です。もし自分の内に純粋さを保たなければ、10年か15年も経てば、あなたが行なっているヨーガは意味の違ったものになってしまうでしょう。

ヨーガはいろんな仕方で言い表すことができます。

1. 結合(union)。個の魂(jivatma)が至高の魂とつながり、結びつくことをヨーガという。
2. あるいはヨーガとはモークシャ(解脱)へと至る手段である。
3. 解脱(liberation)それ自体をヨーガという。

このようにヨーガの説明の仕方はいろいろあります。ヨーガはさまざまな方法で経験することができます。あなたがすべてのものとひとつになれば、それがヨーガなのです。その経験を「結合」といいます。

ですからヨーガに関しては、ヨーガを実践すること、すなわちサーダナ(修行)がすごく大切なのです。一年、二年、三年と練習を続けても、あなたはヨーガの深みへは至らないでしょう。たとえそう望んだとしても。……あなたは船に乗り、海の上をどこまでも行きますが、その旅に終着点はありません。あなたはそのうちに飽きてきます。退屈のあまり、もう何も学びたくないと思うでしょう。でも、ひとたび海の中へ飛び込んでみたらどうでしょう。海の深くへ潜っていけば、あなたは海の美しさを目にすることができます。ヨーガの練習でも、深いところへ向かって進めば、じつに多くの素晴らしい経験を得ることができます。練習が私たちに与えてくれる恩恵はさまざまありますが、それを経験できるのは、私たちが帰依(devotion)、献身(dedication)、規律(discipline)、決意(determination)という4つのDを身につけているときだけです。これらはすべてヨーガの練習においてとても大切な要素です。ご存知のように、ヨーギーは規律ある生活をするものです。なぜ規律ある生活をするのでしょう? 自分の心が「カンカラ」にならないようにするためです。

「カンカラ」とは、散漫という意味です。もし私が夜遅くまでパーティに行って……念のために言っておきますが、これは例えばのお話ですよ。私は毎日午前1時に起きて練習していますからね。……ある日、私は退屈を持て余し、パーティに出かけます。そこで誰かと言い争いになって、私の心はすっかり乱れてしまいます。明くる日、「どうしてあんなことしちゃったんだろう?」と私は考えます。人は自分が何かをするように急き立てられる状況をわざわざ自分で創り出そうとは望まないものですが……でも、15日後にはまた案の定、私は「どうしてあんなことしちゃったんだろう」と考え込んでいるのです。これに対して、ヨーギーの心はどうでしょう。来る日も来る日も練習することによって、あなたの内側ではヨーガが強く育ってゆきます。あなたの心は音も立てず停滞しているのではなく、「ヨーガとは何か?」について思考するでしょう。その種の考えがあなたの中に生じます。アヒムサー(非暴力)とは何か? サティヤ(真実)とは何か? といった考えが、アーサナ(ポーズ)の練習をしているとき、あなたの中に芽生えます。

ヨーガの練習中、あなたの中にこの種の考えが去来します。それは自ずとやって来るのです。あなたは「アヒムサーとは」と考え始めるでしょう。練習をしているときに「非暴力」が心に浮かんだら、それに従いましょう。そうやって非暴力に従えば、争いはなくなってゆきます。それと同じように、ヤマとニヤマ――その下には10個の項目が含まれます――のひとつひとつが、私たちの内部で強く育ってゆきます。それが強く育っていくほどに、私たちは自分がしている練習の意味がより良く理解できるようになります。もし何も考えずに練習を続けているだけなら、この種の考えは得られず、練習はジムのトレーニング、例えばウェートリフティングみたいなものになるでしょう。そんなものがいったい何の役に立つでしょう。善良な心根(good heart)を持っていないとすれば、美しいボディが何の役に立つでしょう。善良な心根がなければ、よく考えることも無益です。

アーサナは私たちの霊的な修行の基礎をなすものです。霊的な建築物を建てるためには、まず基礎が正しくなければなりません。目の前の多くのものに心が惑わされなくなったとき、あなたが手にするのは、あなたの内なる純粋さのみです。そうなのです。あなたが練習に対する帰依と献身の姿勢を持ち、長く練習を続けていると、そういう変化が起こるのです。シュラッダーヴァム・ラバーテ・ジュニャーナム。「シュラッダ」とは帰依心を持ち、自分の練習に信を置く人のことですが、その人は知恵を得ることができます。その人は自分の練習の純粋さをはっきり悟ることができるのです。もしあなたが非常に無知無学な状態であるなら、25年、30年と練習をしても、それを悟ることはないでしょう。練習はただフィジカルなものになります。ですが、ひとたびそれを悟ったとたん、あなたの内部で準備された変化が顕在化し、あなたは練習の美しい意味を理解するでしょう。成長はゆっくりと起こります。生まれたとき、私たちはどうやってこのからだを形成していきますか。ゆっくりと育てていきますよね。赤ん坊の頃は知らないことだらけ。子どもの頃はあらゆるものが空想的でした。そう、子ども時代にはすべてがファンタジーなのです。ヨーガもまたそんなふうに始まります。しかし、練習の中で齢を重ね、より賢くなってゆくにつれ、練習の意味もまた変化してゆきます。ヨーガの練習を始めたばかりの頃は、私たちはまだ十分に賢くはありませんでした。

あなたが深く進んでゆくほどに、練習はより深いものになります。土に生える植物のように、それを育てるには正しく栄養を与えねばなりません。正しく栄養を与えれば、植物は成長して花を咲かせるでしょう。もし根に栄養を与えなければ、植物は花を咲かせることはありません。それと全く同じように、アーサナの練習にとって、ヤマとニヤマは私たちの心に必要な栄養なのです。栄養をあげれば、ヨーガは成長し、私たちの内で開花するでしょう。しかし、そのことは簡単には起こりません。何かを得るためには何かを失わなければなりません。ここであなたは悪しきものすべてを失います。多くのことを犠牲にしなければなりません。……そのことを私は学びました。誰からですって? 私に影響を与えたのは祖父(グルジ)です。祖父は毎日3時30分に起きてチャンティングを行ない、4時にはクラスを教える準備ができていました。長年、祖父のやりようを見、祖父のアシスタントを務めながら、私は学んできました。師と弟子の関係は、父親と息子の関係に似ています。クリシュナマチャリヤとパタビ・ジョイスのあいだにも、そしてもう一人の弟子マハーデーヴァ・バート(グルジの兄弟弟子)とのあいだにも同じ関係がありました。グルジは毎日、朝のうちに練習をすませ、12時からは(クリシュナマチャリヤと一緒に)理論の研究をしました。そのようにして知識は弟子に伝えられるのです。今日のインスタントな世界では、忍耐強さを維持している人はいません。人々はみんな紙切れ(資格取得証明書)を欲しがります。そんな紙切れが何の役に立つでしょう。役立ちはしません。本物のヨーガ練習生であるなら、サーティファイされるかどうかを気にしたりしません。その人の内部ではヨーガが起こり続けています。その人の内部でヨーガはどんどん強いものになってゆきます。こんなことを話すのは、多くの人がヨーガについてさまざまに違った意見やイメージを抱いているからです。ジャンプバックを正確に飛べることがヨーギーの証明! ハンドスタンドができたら偉大なヨーギー……等々。私たちは自分の知識を、つまりヨーガの知識や霊的な知識を高めなければなりません。それらを自分の内部で高めてゆくとき、私たちは少しずつヨーギーへの道を進んでいるのです。近頃は「ヨーギー、ヨーギニーのみなさん、パーティするから集まって」などと(SNSに)書き込む人が多いですね。しかし、ヨーギーもヨーギニーも決してパーティなどには行きません。彼らが望むのは、静けさの内に坐り、平穏な心で修行することです。私たちはまだ、ヨーギーへの道、ヨーギニーへの道の途上にあるのです。

私たちはその方向を目指して歩み続けています。しかし、まだゴールには達していません。ずっと遠くまで進んだ人もいれば、少し前を行く人もいます。いずれ啓示の光に照らされるとき、私たちはゴールに到達します。今生の所業は来生に持ち越されてゆくのです。

R. Sharath Jois

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