ブログ記事の索引  Information

 築地ヨーガ・シャーラ講師、青田潤一のブログです。下は主要記事の索引です。興味ある項目を見つけたら、ご一読下さい(タイトルをクリック!)。
最新記事「3.11とヨーガ・スートラ」にご注目!

〈主な記事〉
3.11とヨーガ・スートラ(new !)
シャラートのベルギー講演:ヤマ、ニヤマとアーサナの関係
シャラートのウッタラカシ講演(1)パラムパラについて
シャラートのウッタラカシ講演(2)ヨーガの八支則について
シャラートのウッタラカシ講演(3)質疑応答
マサラヨガ(混合なのか、混乱なのか?)
『ヨーガ・スートラ』解説
ヨーガはアーサナのみにあらず?
マハーサマディ(ヨーギの死)について
他者の生存を付託された者
新春覚え書
インド記1「インドなう」
インド記2「Rumor 流言飛語」
インド記3「家族の住む家」
インド記4「マイソールの子どもたち」
インド記5「Forget! 忘れろ」
インド記6「シャーラ 朝の賑わい」
インド記7「攻め倒す」
インド記8「サイババ」
インド記9「プール!プール!プール!」
インド記10「極彩色の金曜日」
インド記11「魂の経験」
インド記12「祝セカンド入り」
インド記13「クラウンチャ・アーサナ(青鷺のポーズ)」
インド記14「帰国しました」
痛みについて
ムーンデイについて
など


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2018/3/19

新ホームページ  Information

築地ヨーガ・シャーラの新しいホームページが開設されました。

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2018/3/16

3.11とヨーガ・スートラ  

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 先週末に、広島県廿日市にある“honohono”というヨガスタジオでワークショップをしてきました。二日間のプログラムの一部として、ヨーガ・スートラの解説講義を行ないました。偶然にもそれは3月11日、「震災の日」でした。よりによって、この日にスートラを講じるという奇妙な巡り合わせについて少し考えたことがあるので、それを文章にまとめてみます。

 僕は今でもはっきり覚えています。
 原発事故の直後、首都圏の人々は飛来する放射線物質に怯えていました。僕の住む東京では、被災地でもないのにパニックが起こりました。
 「プルトニウムに汚染されて東京は壊滅!」といった恐ろしい噂が、ネットを通じて拡散していました。近所の顔なじみのコンビニ店長はその情報を信じ込んで、「みんな死にます、もう終わりです!」と目に涙を浮かべながら僕に訴えました。
 大慌てで西日本へ移動した人、海外へ脱出した人もいました。僕の知る範囲では、ヨーガ関係者にこういう人が多かったですね。彼らは自分では「正しい情報」に基づいて、他の人々よりも賢明で迅速な行動をとっていると思っていたでしょうが、その心理状態はコンビニの店長さんとあまり変わりないものでした。
 オイルショックの教訓も忘れ、食料や日用品の買い占めに走る人が続出しました。東京の物流は正常時ほどではないにしろ、まともに機能していたというのに、買い占めのせいでコンビニやスーパーの棚からは商品が消えました。節電のために昼間も薄暗い店内はいっそう荒(すさ)んだ様子になって、人々をさらに暗い気持ちにさせました。
 数日間、断続的な余震が続きました。余震が収まった後も、体の中にまだ揺れているような感覚が残りました。人々は放射能汚染に関する情報を四六時中チェックしていました。小さい子どものいる親は特にナーヴァスでした。しかし、情報の真偽を確かめるすべもなく、情報を求めるほどに混乱と不安は増してゆくのでした。放射能のリスクがなかった西の人には想像しにくいでしょう。あの頃、日本の東エリアでは、誰もが「正気」でいることが難しかったのです。

 東京で起きたあのパニックを、僕はしっかり覚えておこうと思うのです。繰り返しますが、東京は直接の被災地ではありませんでした。東京の人はいつもちょっとしたことでパニックを起こします。パニックのきっかけとなったもの(台風、大雪、害虫、ウィルス、放射能)よりも、パニックを引き起こす人々の心の方がよほど恐ろしいのです。
 それから、普段は「冷静さ」や「心の平安」を説いているヨーガ関係者たちがあの時に見せた、あられもない混乱ぶりや例外的事態に対する弱さのことも、長く記憶にとどめておきましょう……自分の鏡として。ヨーガの経験や知識は、かならずしも「生きる」ことの役には立たないようです。むしろヨーガをすることで、必要以上の神経過敏さや不安体質を作ってしまうのかもしれません。広い意味で「霊性」に関わる人、アーティストも含め、そういう人は「見えないもの」への感受性を発達させているので、目に見えない放射能に対して過剰に反応してしまうのではないでしょうか。その種の人々が共通に抱える弱点ですね。

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 3月11日にヨーガ・スートラを読む――これは一種のアイロニー(皮肉)です。ヨーガとは心の動きを鎮める修練を重ね、真我独存の境地を目指すものであると、スートラは説きます。しかし、そのような悟りの境地が災害時に何の役に立つでしょうか。周囲がパニックに陥る中で、ヨーガの修行者は冷静さを保ち、的確な行動をとることができる……などということは決してありません。震災後の混乱の中で僕が見たことから言えば、ヨーガ経験の有無には関係なく、たんに例外的事態に強いタイプの人と弱いタイプの人がいるだけです。言ってしまえば、性格でしょうか。
 3月11日は僕にとって、ヨーガ講師がしばしば口にする「冷静さ」「落ち着き」「心の平安」といった言葉の薄っぺらさを噛みしめる日です。スートラを読むには絶好の日です。もちろん、こうした皮肉な意味だけではなく、その反対側には素直にポジティブな意味もあります。
 この日は人間にとって「幸せ」とは何かを考える日でもあります。地位や名声やお金よりも大切なものがあることを、日本人は震災・原発事故の経験から学びました。みんなが一時は「正気」に戻りました。けれども、その時期は長くは続きませんでした。せめてこの日だけでも、あの時の「正気」を思い出そう。そう考える人が僕の周りには少なからずいます。スートラは人間にとって「幸せ」とは何かを説いています。無知から生じる幻想を打ち払い、「正気」に戻る方法を教えています。ですから、3月11日にスートラを読むことは、ストレートに意味深い経験であると言えるでしょう。(→詳しいスートラ解説はこちらへ)
 実際、“honohono”で行なわれた解説講義において、僕らはこの日ならではのスートラの読み方ができたと思います。廿日市では同じ時間帯に近隣で被災者支援イベントが開催されており、“honohono”はスタジオとして義援金集めに協力していました。講義に参加した人たちの心にはそれぞれ震災に関する思いがありました(原爆の記憶を継承する広島の人は、震災の死者やその遺族への思いがとても深いという印象を受けます)。こんな雰囲気の中でスートラを読むなんて、まあ滅多にない特別な経験でした。でも、僕らはすぐにそれを忘れるでしょう。そして、また何かの機会に思い出すでしょう。人の経験はそうやって少しずつ熟してゆくものです。

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2018/2/23

シャラートのベルギー講演  Translation

 今回はシャラートがベルギーで行なった講演を翻訳しました。
 この講演ではヤマ、ニヤマとアーサナ練習との関係が詳しく語られています。アシュタンガヨガの練習生にとって、これはとても気になるテーマ。ご一読ください。

(注1)出典はベルギーのヨーガスタジオ“Ashtanga Yoga Institute”のWebサイトに掲載されていたテキストです(http://yoga-ashtanga.net/en/about-ashtanga-yoga-teacher-workshop/)。
(注2)僕はこのスタジオをよく知りません。またいつの講演なのかも未確認です。なので、テキストの信頼性を保証できません。しかし内容を読んで、シャラートの発言が正確に再現されたものと判断し、公開することにしました。
(注3)元が講演ですから、聴衆との関係性や場の雰囲気をふまえなければ、発言の意味やニュアンスを取り違えてしまう恐れがあります。特に他の流派に対して批判的な言及をしている箇所については、そこをわきまえて読んで下さい。



アシュタンガヨガ・ティーチャーワークショップについて

シャラート(グルジの孫)からのメッセージ

現代世界では全てがインスタント(即席)です。誰も忍耐強さを持っていません。誰もができるだけはやく(何でも)手に入れたいと願います。ヨーガの世界もそうです。あなたはいろんな場所へ行って、15日か1ヶ月そこらでサーティファイ(教授資格授与)してもらえます。インドに来る人はいつもこう思っています。「ひと月もここにいて勉強したんだから、当然サーティファイしてもらえるだろう」と。

私たちのところにはたくさん電話がかかってきます。先週も三回電話をもらいました。ひとつはデリから。ひとつはイングランドから。もうひとつはアメリカからです。彼らは単刀直入にこう言いました。「そちらではティーチャーズ・トレーニングをやっていますか?」と。

ヨーガは規模が大きくなりましたが、分別を欠いたもの(crazy)にもなりました。ヨーガが無分別なのではありません。人々がヨーガを無分別なものにしているのです。彼らはヨーガの意味も、ヨーガの純粋さも理解していません。ヨーガの先生たる者は、つねに練習(practice)の純粋さを保たねばなりません。

私が子どもの頃は、中国人や日本人を見るといつも、あの人は空手が使えると思ったものでした。決して近づこうとはしませんでした。その人は空手の達人だと思い込んでいましたから。それ以前にブルース・リーの映画『ドラゴンへの道』を観ていたのです。その当時はテレビも何もなくて、唯一の娯楽は劇場へ行って映画を観ることでした。そういうわけで、『ドラゴンへの道』を観た私たちは、中国人や日本人はみんな格闘技ができると思い込んだのです。近づいたらぶっ飛ばされるぞ、離れていろ!とね。……ヨーガの世界でも、いま同じようなことが起こっています。サフランやルンギ(南インドの伝統衣装)を着て、インド人のような格好をしていれば、誰でもヨーギー(ヨーガ行者)になってしまう。たくさんのヨーギーが雨後の筍のように、あっちこっちに出現しています。なぜこんなことを言うかというと、ヨーガの練習生にとって、先生を選ぶことは非常に大切なことだからです。先生とは、あなたを正しく導ける人のことです。ヨーガを熟知し、長年練習を積み、一つの系譜(a lineage)につながっている人が先生です。このことがとても重要です。

バガヴァッド・ギーターにはこう書かれています。

「私はこの不滅のヨーガを太陽神ヴァスヴァットに教えたが、彼はそれを人類の祖マヌに教え、さらにマヌが大王イクシュヴァークに教えたのである。ヨーガは師弟継承の鎖(parampara)によって伝えられ、先王たちはこれをよく会得してきたのだが、久しい時を経てそれは失われてしまった」(第4章、詩句1,2)。

バガヴァッド・ギーターはとても偉大で美しい書物です。それは18の章を通じて、つねにヨーガの実践について説いています。パラムパラを通じてヨーガを学ぶにはどうすればよいのでしょう。パラムパラとは一つの系譜に連なりながら学ぶことです。クリシュナマチャリヤがラーマモハン・ブラマチャリから学び、パタビ・ジョイスがクリシュナマチャリヤから学んだように。それが系譜ということですね。それはこの辺にある、誰でもドアを開けられる電話ボックスとは訳が違います(屋外を指さしながら)。電話ボックスなら、どの通りにもありますが。……正しいサーダカ(修行者)であること、正しいサーダナ(修行)をすること、これは先生から生徒への伝達が行なわれる上でとても大切なことです。先生が自分の生徒に知識を伝えるためには、まず先生自身が何年もかけてそれを修得しなければなりません。内的な経験を積まなければなりません。そのときだけ生徒に正しい方法を伝えることが可能になるのです。

今日ではYou-tubeでたくさんの動画を観ることができますが、それはサーカスなのか、ヨーガなのか、それとも何なのかを見分けるのは非常に困難です。どれもこれもがクレイジーなヨーガです。多種多彩なる馬鹿げたヨーガです。そういうものが全部ヨーガになってしまいます。「裸のヨガ」ですって! いったいそれはどういうナンセンスなのでしょう? 「クークーヨガ」に「ホットヨガ」。「ホットヨガ」って何ですか? 「絶叫ヨガ」に「温熱ヨガ」に「炸裂ヨガ」……こういうクレイジーなものが何でもヨーガに数えられてしまう。

それはさておき、私たちが果たすべき務めは、ヨーガの実修者(practitioner)であることです。教えをやっている人もここにはいるでしょうね。いずれにせよ純粋さを保つことが大切です。もし自分の内に純粋さを保たなければ、10年か15年も経てば、あなたが行なっているヨーガは意味の違ったものになってしまうでしょう。

ヨーガはいろんな仕方で言い表すことができます。

1. 結合(union)。個の魂(jivatma)が至高の魂とつながり、結びつくことをヨーガという。
2. あるいはヨーガとはモークシャ(解脱)へと至る手段である。
3. 解脱(liberation)それ自体をヨーガという。

このようにヨーガの説明の仕方はいろいろあります。ヨーガはさまざまな方法で経験することができます。あなたがすべてのものとひとつになれば、それがヨーガなのです。その経験を「結合」といいます。

ですからヨーガに関しては、ヨーガを実践すること、すなわちサーダナ(修行)がすごく大切なのです。一年、二年、三年と練習を続けても、あなたはヨーガの深みへは至らないでしょう。たとえそう望んだとしても。……あなたは船に乗り、海の上をどこまでも行きますが、その旅に終着点はありません。あなたはそのうちに飽きてきます。退屈のあまり、もう何も学びたくないと思うでしょう。でも、ひとたび海の中へ飛び込んでみたらどうでしょう。海の深くへ潜っていけば、あなたは海の美しさを目にすることができます。ヨーガの練習でも、深いところへ向かって進めば、じつに多くの素晴らしい経験を得ることができます。練習が私たちに与えてくれる恩恵はさまざまありますが、それを経験できるのは、私たちが帰依(devotion)、献身(dedication)、規律(discipline)、決意(determination)という4つのDを身につけているときだけです。これらはすべてヨーガの練習においてとても大切な要素です。ご存知のように、ヨーギーは規律ある生活をするものです。なぜ規律ある生活をするのでしょう? 自分の心が「カンカラ」にならないようにするためです。

「カンカラ」とは、散漫という意味です。もし私が夜遅くまでパーティに行って……念のために言っておきますが、これは例えばのお話ですよ。私は毎日午前1時に起きて練習していますからね。……ある日、私は退屈を持て余し、パーティに出かけます。そこで誰かと言い争いになって、私の心はすっかり乱れてしまいます。明くる日、「どうしてあんなことしちゃったんだろう?」と私は考えます。人は自分が何かをするように急き立てられる状況をわざわざ自分で創り出そうとは望まないものですが……でも、15日後にはまた案の定、私は「どうしてあんなことしちゃったんだろう」と考え込んでいるのです。これに対して、ヨーギーの心はどうでしょう。来る日も来る日も練習することによって、あなたの内側ではヨーガが強く育ってゆきます。あなたの心は音も立てず停滞しているのではなく、「ヨーガとは何か?」について思考するでしょう。その種の考えがあなたの中に生じます。アヒムサー(非暴力)とは何か? サティヤ(真実)とは何か? といった考えが、アーサナ(ポーズ)の練習をしているとき、あなたの中に芽生えます。

ヨーガの練習中、あなたの中にこの種の考えが去来します。それは自ずとやって来るのです。あなたは「アヒムサーとは」と考え始めるでしょう。練習をしているときに「非暴力」が心に浮かんだら、それに従いましょう。そうやって非暴力に従えば、争いはなくなってゆきます。それと同じように、ヤマとニヤマ――その下には10個の項目が含まれます――のひとつひとつが、私たちの内部で強く育ってゆきます。それが強く育っていくほどに、私たちは自分がしている練習の意味がより良く理解できるようになります。もし何も考えずに練習を続けているだけなら、この種の考えは得られず、練習はジムのトレーニング、例えばウェートリフティングみたいなものになるでしょう。そんなものがいったい何の役に立つでしょう。善良な心根(good heart)を持っていないとすれば、美しいボディが何の役に立つでしょう。善良な心根がなければ、よく考えることも無益です。

アーサナは私たちの霊的な修行の基礎をなすものです。霊的な建築物を建てるためには、まず基礎が正しくなければなりません。目の前の多くのものに心が惑わされなくなったとき、あなたが手にするのは、あなたの内なる純粋さのみです。そうなのです。あなたが練習に対する帰依と献身の姿勢を持ち、長く練習を続けていると、そういう変化が起こるのです。シュラッダーヴァム・ラバーテ・ジュニャーナム。「シュラッダ」とは帰依心を持ち、自分の練習に信を置く人のことですが、その人は知恵を得ることができます。その人は自分の練習の純粋さをはっきり悟ることができるのです。もしあなたが非常に無知無学な状態であるなら、25年、30年と練習をしても、それを悟ることはないでしょう。練習はただフィジカルなものになります。ですが、ひとたびそれを悟ったとたん、あなたの内部で準備された変化が顕在化し、あなたは練習の美しい意味を理解するでしょう。成長はゆっくりと起こります。生まれたとき、私たちはどうやってこのからだを形成していきますか。ゆっくりと育てていきますよね。赤ん坊の頃は知らないことだらけ。子どもの頃はあらゆるものが空想的でした。そう、子ども時代にはすべてがファンタジーなのです。ヨーガもまたそんなふうに始まります。しかし、練習の中で齢を重ね、より賢くなってゆくにつれ、練習の意味もまた変化してゆきます。ヨーガの練習を始めたばかりの頃は、私たちはまだ十分に賢くはありませんでした。

あなたが深く進んでゆくほどに、練習はより深いものになります。土に生える植物のように、それを育てるには正しく栄養を与えねばなりません。正しく栄養を与えれば、植物は成長して花を咲かせるでしょう。もし根に栄養を与えなければ、植物は花を咲かせることはありません。それと全く同じように、アーサナの練習にとって、ヤマとニヤマは私たちの心に必要な栄養なのです。栄養をあげれば、ヨーガは成長し、私たちの内で開花するでしょう。しかし、そのことは簡単には起こりません。何かを得るためには何かを失わなければなりません。ここであなたは悪しきものすべてを失います。多くのことを犠牲にしなければなりません。……そのことを私は学びました。誰からですって? 私に影響を与えたのは祖父(グルジ)です。祖父は毎日3時30分に起きてチャンティングを行ない、4時にはクラスを教える準備ができていました。長年、祖父のやりようを見、祖父のアシスタントを務めながら、私は学んできました。師と弟子の関係は、父親と息子の関係に似ています。クリシュナマチャリヤとパタビ・ジョイスのあいだにも、そしてもう一人の弟子マハーデーヴァ・バート(グルジの兄弟弟子)とのあいだにも同じ関係がありました。グルジは毎日、朝のうちに練習をすませ、12時からは(クリシュナマチャリヤと一緒に)理論の研究をしました。そのようにして知識は弟子に伝えられるのです。今日のインスタントな世界では、忍耐強さを維持している人はいません。人々はみんな紙切れ(資格取得証明書)を欲しがります。そんな紙切れが何の役に立つでしょう。役立ちはしません。本物のヨーガ練習生であるなら、サーティファイされるかどうかを気にしたりしません。その人の内部ではヨーガが起こり続けています。その人の内部でヨーガはどんどん強いものになってゆきます。こんなことを話すのは、多くの人がヨーガについてさまざまに違った意見やイメージを抱いているからです。ジャンプバックを正確に飛べることがヨーギーの証明! ハンドスタンドができたら偉大なヨーギー……等々。私たちは自分の知識を、つまりヨーガの知識や霊的な知識を高めなければなりません。それらを自分の内部で高めてゆくとき、私たちは少しずつヨーギーへの道を進んでいるのです。近頃は「ヨーギー、ヨーギニーのみなさん、パーティするから集まって」などと(SNSに)書き込む人が多いですね。しかし、ヨーギーもヨーギニーも決してパーティなどには行きません。彼らが望むのは、静けさの内に坐り、平穏な心で修行することです。私たちはまだ、ヨーギーへの道、ヨーギニーへの道の途上にあるのです。

私たちはその方向を目指して歩み続けています。しかし、まだゴールには達していません。ずっと遠くまで進んだ人もいれば、少し前を行く人もいます。いずれ啓示の光に照らされるとき、私たちはゴールに到達します。今生の所業は来生に持ち越されてゆくのです。

R. Sharath Jois

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2016/10/17

シャラートのウッタラカシ講演(#3)  Translation

 カンファレンス三日目の内容をお届けします。この日は、シャラートによる講義はなく、最初から質疑応答が行われました。
 分量が多いので、私の判断で「小見出し」をつけておきました。全部を通して読む時間のない人は、興味のある項目から拾い読みしてください。

・バンダの重要性
・ナヴァアサナでの脚の交差
・ヨーガの精神面を教えることの困難、練習も仕事もやりすぎは禁物
・オイル風呂の効用
・練習についておしゃべりしない、フェイスブックの悪い面
・複数の先生から習うという間違い
・練習は一人がいいか、みんなと一緒がいいか? 初心を忘れずに
・ヨーガと他の運動は両立しない、グルジのやんちゃな一面
・翻訳によって失われるもの
・サラスワティとシャラートから全参加者へのメッセージ


三日目(質疑応答)
今日は皆さんにチャンスを与えましょう。カンファレンスの始まりから質問を受けます。今日が最後のカンファレンスです。明日はカンファレンスはありません。次の機会はマイソールで、ということになりますね。

★バンダの重要性
質問者:手首に痛みがあるとき、どのように変形すればウップルティヒができるでしょうか。

シャラート:ウップルティヒの変形ですか? 親指の位置を変えてみたらどうです。あるいはリストバンドをするとか。リストバンドが手首をサポートしてくれるでしょう。ウップルティヒに関しては、バンダを用いることが重要です。ムーラ・バンダが働けば、体全体がとても軽くなり、強さも生まれます。

いくつかのアーサナではバンダが非常に重要です。例えばウッカタ・アーサナをやるときです。ポーズを取り終えたら、体を持ち上げて、それからジャンプバックしなければなりませんよね。バンダをしていればそれをするのは簡単です。自分の体がまるで鳥の羽のように軽くなったと感じられるでしょう。あなたは飛ぶことができます。ひとつ私がお見せしましょう。これ、今までに何度もやっているんですけどね。時々見せたくなるんです(笑)。ウッカタ・アーサナをするときは、いったん手を床まで下した後、このように真っ直ぐに体を持ち上げます(ウッカタ・アーサナからの移行をやって見せながら)。バンダを用いなければ、これをやるのはとても困難です。単に強さの問題ではないんです。多くの人は強さを持っていても、こんなふうにはできません。だからこそウップルティヒがとても大切なのです。私が皆さんにウップルティヒを長時間キープさせる理由もここにあります。ウップルティヒを長時間キープすれば下腹部が強化され、ムーラ・バンダを得ることができるでしょう。


★ナーヴァ・アーサナでの脚の交差
質問者:ナーヴァ・アーサナをやるとき、ポーズとポーズの間では、右足を上にしてクロスした方がよいのですか、それとも左足が上ですか。

シャラート:ナーヴァ・アーサナですか?

質問者:はい。

シャラート:右足が上です。

質問者:つねにですか?

シャラート:つねにです。

質問者:わかりました。


★ヨーガの精神面を教えることの困難、練習も仕事もやりすぎは禁物
質問者:私の記憶違いでなければ、あなたは今年の夏に中国本土で行なわれたヨーガ・カンファレンスに出席されましたね。中国ではどうなのでしょう。ヨーガの精神面を強調することに関して、他の場所で話すときと比べて何か違いがあったでしょうか。つまりプラクティスの精神面について語ることは難しいため、もっぱら肉体面に焦点を当ててお話しされたのでしょうか。その点を知りたいと思うのですが。

シャラート:精神面について話をすることに私が困難を感じたかどうか、ということですか?

質問者:ええ。宗教と霊性(spirituality)に関する中国政府の立場ゆえにですね。

シャラート:事実として、あのカンファレンス全体は中国政府の主催で行なわれました。その名称は「中国・インドシナ・ヨーガ・サミット」です。「インドシナ」とは「インドとシナ(中国)」という意味です。インド大使館が成都市の市長と協力してこのカンファレンスを企画実行しました。

中国ではヨーガはとても新しいものです。ほとんどの人はヨーガはアメリカから来たものだと思っています。何も分かっていないのです。確かに何人かの先生が中国へ行きました。彼らはハンドスタンドやジャンプバックのやり方は教えたのでしょう。ヨーガの肉体面についても、じつにたくさんの説明すべき要素がありますからね。その先生たちはその説明に集中したのでしょう。しかし、彼らはヨーガを全体としては取り上げませんでした。そういうことなのです。ヨーガを分かっていない人がヨーガを教えることは難しいでしょう。ですから、そういう人はブランド・ヨーガに手を出そうとします。アメリカ合衆国でそうなっているように。合衆国といえば、最初にヨーガの海外普及が行われた場所なのですが。

1893年、ヴィヴェーカナンダ師は合衆国へ行き、人々にヨーガの教えを説きました。彼が初めて合衆国でヨーガを教えたのです。そのときヨーガはかの地へ渡りました。その後には他のグルたちが行きました。彼らはヨーガを教えました。そしてヨーガの肉体面に関しては広く知られるようになりました。人々はみなこう思っています。脚を頭の後ろへ持っていけば、それがヨーガだと。それが偉大なヨーギーだと。彼らはヤマやニヤマには関心がありません。ヨーガの他の側面にも興味を示しません。彼らはそういうものがヨーガだと思っています。肉体のことも確かにとても大切ですが、それはヨーガの最終ステージではありません。ご存知のように、人々に理解させることは時として非常に難しいのです。よく分かっていない人々に教える場合は特に。例えば、あなた方自身の両親のことを考えてみてください。あなた方の両親の中で、いったいどれくらいの人がヨーガの練習をしたいと望むでしょうか? ヨーガの何たるかを理解するでしょうか? 彼らには分からないでしょう。もし彼らがもっと若いときにヨーガをやっていたら、もしインド人の師から教えを受けていたとしたら、彼らはヨーガについていくらかの知識を得ていたでしょうが。

ある国へ初めて行って何かスピリチュアルなことを教えるのは、つねに困難なことです。私はインドで生まれましたから、スピリチュアルというのがどういうことか、このプラクティスがどういうものかを分かっています。スピリチュアリティの意味も。単にバガヴァッド・ギータを全部読むだけではスピリチュアルにはならないでしょう。スピリチュアルになるためには、ギータの語ることをまるごと受け入れなければなりません。その教えを自分の人生に採り入れなければなりません。

クリシュナが「我は一切なり、我に汝を明け渡すがよい」と言えば、あなたはそうしなければなりません。そうするときにのみスピリチュアルな知識を持つことができます。その知識は、昨日お話ししたように、あなたのもとへやって来るでしょう。一切があなたの内部で成長するでしょう。こういったことをヨーガについて何も知らない人に理解させるのはとても難しいのです。

中国でのヨーガはまだ新しいものです。彼らはすでにヨーガを知っていると思っていますが、そうではないと私は思います。

もちろん良い生徒もたくさんいます。私のところにも、定期的に学びにくる中国人生徒がいます。彼らは練習しています。しかし、なにしろ日が浅い。中国や韓国では今ようやくヨーガが一般に知られ始めたところです。ヨーガの何たるかを知るまでには、まだ時間がかかるでしょう。ヨーガはナイフのようなものです。ナイフを使って誰かを殺すこともできますし、自分を殺すこともできます。その一方でリンゴを切って食べることもできます。リンゴの味を楽しみましょう。

朝から晩までアーサナを練習し続ければ、あなたは自分を殺すでしょう。私は何人かの人々が朝、午後、夕方にアーサナをするのを見たことがあります。彼らはビーチへ行ってアーサナをやるんです。早朝のクラスに出て、それからプールに行ってハンドスタンドをやる。彼らはこうしたあらゆるクレイジーなことをします。そしてまた夕方になるとアーサナをやるんです。クレイジーです。そんなことをすれば人はおかしくなってしまいます。

Yuktaharaaviharasya
Yuktacestasya karmasu
Yukutasvapnaavabodhasya
Yogo bhavati duhkah
節度をもって食べ、節度をもって気晴らしをし、仕事をし、節度をもって眠り、目覚める者は、ヨーガの実修により苦を取り除くことができるだろう。(バガヴァッド・ギータ6.17)

あらゆることは制限されるべきです。食べ物にも制限があるべきです。あなたは度を過ごして食べることはできません。もしインド料理のターリー(銀のお盆に盛られた定食)を三回もおかわりしたら、あなたの胃は異常を起こすでしょう。それと同様に、あなたは自分のカルマ(なすべきこと)においても節度を守るべきです。カルマとはあなたの義務のことです。

もしあなたが技術者なら、あなたの義務は立派な建物を建て、その建物をよい状態に保つよう努めることです。あなたはそのために必要なことをすべて身につけています。あなたが医者なら、患者を正しく治療し、つねに良質な医療を施せるように努めねばなりません。おそらくあなたは毎日12時間から14時間くらいなら医者でいることができるでしょう。ですが、24時間は無理ですよね。あなたは休息を取らなければなりません。なんとしても。

このカルマ(なすべきこと)の一部がアーサナの練習です。アーサナ練習にも制限は必要です。練習は朝に一回だけ。2時間か3時間。グルがあなたに教えたことを、教えられた分だけ練習する。それで充分です。

睡眠にも制限があるべきです。人間は18時間以上も眠れません。山猫ではありませんから。山猫は18時間眠ります。そうなっているのは、もし山猫が18時間眠らなかったら獲物をすべて殺し始めるだろうからです。だから神様(God)は山猫に18時間の睡眠をお与えになったのです。

神様は人間に8時間の睡眠を与えられました。一日の残りの16時間、人間がよりクリエイティブでいられるように。人間がその間のすべての活動を神性(the devine)を知ることへと向けておくことができるように。このようなわけで、あなた自身の個人的なサーダナ(修習)のために、神様は16時間をお与えになったのです。それはスピリチュアルであるための時間、(神性を)知るための時間です。中には、仕事こそが人生と思っている人もいます。「さあ、仕事へいかねば」「朝から晩まで働かなきゃ」…あなたは働きます。お金を稼ぐため、生きていくため、食べる物を手に入れるため、住む場所を確保するために。お金は必要以上は要らないというのに。あなたは心の平安を得ようとしていません。つまりあなたは何も得ようとしていないのです。

私にはかつて大手ソフトウェア会社に勤めていた友人が数人います。彼らは朝6時に起きます。運動はしません。プジャ(家の神棚に花を供えて祈る儀式)もしません。何もしない。彼らは起きて湯を使い、急いで朝食を済ませます。そしてオフィスへ猛ダッシュ。8時までにはオフィスにいなければなりません。彼らはみんなバンガロールに住んでいました。バンガロールは人口密集地です。朝6時から交通渋滞です。なので、オフィスに着き、仕事にとりかかるまで、2時間はかかります。で、彼らは朝の8時から夜の8時まで働きます。家に帰ってくる頃には彼らは疲れ果てているでしょう。いつヨーガの練習ができるでしょう。

仕事がすべてではありません。何かをするためのゆとりを持ちましょう。この意味でもタパスは重要なのです。仕事はしなければなりませんが、自分自身のサーダナ(修習)のためにいくらかは時間を空けておかねばなりません。これもまた大切なことです。

仕事だけになってしまったらストレスが溜まります。20年、30年と経つうちには血圧が上がったり、ぜんそくになったり、糖尿病にかかったりするでしょう。そういう人は何でも手に入れることができるでしょう。あらゆるものがその人のもとに来るでしょう。でも、その人は自分自身の世話ができていません。こうしたことに気をつけなければなりません。えーと、いったい何の話からこんな話になったのでしたっけ。でも、これでいいですか? こんな回答でいいですか。ダメですか? それとも満足ですか?

質問者:すごく満足です。

シャラート:ありがとう。

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★オイル風呂の効用
質問者:オイル風呂と浄化(purification)について質問があります。オイル風呂の重要性について少し話していだだけますか。

シャラート:オイル風呂は体から炎症の痛みを取るために使います。アーサナ練習をすることで大量の内的な熱が生まれます。ときには体の中でオーバーヒートが起こります。だからときどき体を冷却することが大切です。それがオイル風呂を使う理由です。6日間の練習をすれば体は炎症を起こします。多くのアーサナは難しいです。練習もハードになります。特に難しいアーサナに取り組んでいるとき、体は炎症を起こします。炎症をすみやかに取り除くためにオイル風呂を使いなさい。どんなオイルでも構いません。ひまし油はとても体に良いのですが、拭き取るのが大変です。なのでゴマ油かアーモンド油を使うといいです。アーモンド油はとても高価です。もしお金があるならそれを使えばよいでしょう。オリーブ油も体によいです。一週間に一度くらいのペースで、体を休めるときにオイル風呂を使う必要があります。練習のない日にオイル風呂を使い、温かいシャワーを浴びましょう。そうすれば体からあらゆる炎症の痛みが取り除かれるでしょう。肌も良好な状態になります。オイル風呂とシャワーは皮膚の毛穴を開きます。毛穴が開くと、そこからあらゆる毒素が外に出ます。アーサナの練習をしているときに毛穴が開いていれば、汗と一緒に毒素を出すことが容易になります。

★練習についておしゃべりしない、フェイスブックの悪い面
質問者:ヨーガについて、あまりたくさん話すべきではないと聞いたことがあります。もちろん、グルと一緒にいるこの状況は別ですが、しかし……

シャラート:ヨーガについて話すこと?

質問者:自分たちの練習について話すことです。

シャラート:誰がそんなことをあなたに言ったのです?

質問者:私が言っているのは、スピリチュアルな経験のことです。内的経験といったような。

シャラート:話さなくて、どうやって学べるのですか? もし私が黙ったままなら、あなた方の学びを手伝うこともできません。

エディ・スターン: シャラート、僕が思うに、今の質問の意味は、それぞれの個人的な練習については語るべきではない、ということなんじゃないかな。「私、膝が痛いんだけど」とか、「このポーズが上手くできないんだ」とか。

シャラート:ああ、その手の話? ええ、それは良くありませんね。あなたは誰とも比べるべきではありません。たくさんの人が、議論していますね。ほら、カポタ・アーサナですよ。彼らはカポタ・アーサナについて際限なく議論を重ねています。マイソールでは私が一人の生徒に一つポーズを与えると、彼らはココナッツ・スタンドに行って一日中そのことについて語り合っています。

ドゥルガ・バヴァーン、これはマイソールで有名なホテルですが、生徒たちはこぞってこのホテルへ行き、いっぱい議論をするのです。「ねえ、あなたはこのアーサナどうやってるの?」。一つのアーサナについて、数百万の意見が交わされます。どんな意見を採用しようとも、それは来るべきときに来るのです。考えることをせずにただそれをやり続けなさい。そうすればそれはやって来ます。

私はアーサナについて生徒の誰とも決して話しません。祖父は言ってました。「やれば、それはやって来る」(You do it, it will come.)と。オーケー、グルビョー・ナマハ(グルを称えよ)。これで終わり。グルの指示が最終的なものです。それで終わり。議論はいらない。フェイスブックもいらない。クレイジーです。

フェイスブックはある種の事柄に関しては役立つのでしょうが、何にでも役立つわけではありません。日がな一日「オー、タカタカタカタカタカ(訳者注:キーボードを打つ音)」「わたしカポタ・アーサナができたよ!」 「シャラートがね、あたしにこんなことを言ってくれたんだ」「キミはこれについてはどういう意見を持ってる?」 ……意見というものは、それこそ無数にあるでしょう。なぜそんなものが必要ですか。そんな意見など必要ないでしょう。時間の無駄、エネルギーの無駄ですよ。心を散漫にしているだけです。もしあなたがブレない心を持っていたなら、今生でそれが来るならばそれを楽しみ、来ないならば来世まで待つでしょう。インドでは人は幾度も生を得ます。カポタ・アーサナが今生でできるようになれば、それはそれでオーケーだし、もしできなければ待つことです。次の生を。あなたが生まれ変わる理由の一つがそこにあります。カポタ・アーサナをするために! もしすべてを学び終えてしまったら、すべてを今生で手に入れてしまったら、そのときは来世はないでしょう。

★複数の先生から習うという間違い
質問者:先生からご覧になって、生徒たちがアーサナ練習に関して共通に間違っていることってありますか。えーと、べつにアーサナ練習に限らなくてもいいんですけど……

シャラート:一般的に?

質問者:ええ。

シャラート:だから、それはフェイスブックですよ(笑)。人々が犯している一つの間違いはね、複数の先生に就くことです。

ご存知の通り、そして前にお話ししたように、一つのパランパラに従うこと、一つのシステムに従うこと、これが学び探求することにとっては常により良いことなのです。あっちこっちへ習いに行けば混乱します。そういう人は自分が何を聴くべきなのか分かっていないのです。これが一般的に見られる共通の間違いです。アーサナを修得するにはとにかくたくさん練習を重ねなければなりませんね。だいたいはそこからいろんな間違いが生まれてくるのです。もっと多くマイソールに来て、もっとたくさんのクラスを受ける必要があります。このシャラに来つづけるならあなたは学ぶことができるでしょう。問題ありません。

どうか理解してください。ヨーガというものは、それ自体が非常に神聖なプラクティスなのです。これについて人と議論をしに行って、様々な意見を採り入れてはいけません。そんなことは必要ありません。ヨーガのプラクティスはとても個人的なプラクティスです。それはあなた自身が変化してゆくためにあります。討議をするのはまた別のことです。二人の学者がいて、討議します。彼らはあくまでもスピリチュアルなプラクティスに向けて、そのヨーガの体系をより明晰にするために討議します。しかしまたこんな場合もあるでしょう。二人の学者がいます。彼らは坐っています。彼らが討議するのをあなたは聴いています。ところが、今回はまったく様子が違います。学者たちはアーサナについて語りません。彼らが語るのはこの教典にはこう書いてあり、あの教典にはこう書いてあるが、これはどう適用すべきか、あれはどう適用すべきかといったことです。

★練習は一人がいいか、みんなと一緒がいいか? 初心を忘れずに
質問者:私たち練習生は、他の人と一緒に練習する機会があります、そして、互いからたくさんのエネルギーをもらいます。シャラート先生は他の人と一緒に練習する機会を持ったことがありますか。それともいつも一人で練習しなければならないのですか。もしそうであるなら、先生もグループで練習をして、互いからエネルギーをもらうことができたらいいなと思ったりしますか。

シャラート:他の人と一緒に練習することも必要ですし、一人で練習することも大事です。どちらの場合でも気持ちよく練習できるようにすべきです。こんなふうにサットサンガ(集まり)が開かれる場合もあります。ごらんなさい。大勢の人々、大勢の生徒が、練習をするためにここへ来ていますね。そうするとその場に大きなエネルギーが生まれます。これは大切なことです。他方、一人だけで練習する場合はどうでしょう。あなたは二日練習し、三日練習して、四日目にはこう感じるのではないでしょうか。「ああ、今日はいくつかポーズを飛ばして練習しよう」と。大勢の生徒がいると、それが練習をするモチベーションになります。しかし、すべての人の心構えが同じであることはありません。みんなの心構えがスピリチュアリティを探し求め、それを理解することに向かっているとしましょう。もし全員がそんなメンタリティでいるならば、それはとてつもなく大きなエネルギーを創り出すでしょう。

しかし、中にはこんな人もいます。「システムがどうとか、そんなことには全然興味ないよ。僕は教授資格認定書をもらって、それを自分の家か自分のスタジオに飾りたいだけなんだ。見てよ、僕はサーティファイされたんだ。オーソライズされたんだ」。これは、悪いエネルギーです。ヨーガは、自分自身が変化してゆくために練習するものです。そういうつもりで取り組めば、練習にまったく違った意味が出てきます。ヨーガへの理解ががらりと変わるでしょう。みんな練習を始めたばかりの頃はそんな欲望はありませんでしたよね。私は有名になりたいとは思いませんでしたよ。大勢の生徒を持ちたいとも思いませんでした。何も望みませんでした。そこに欲望はなかったのです。私はただ習いたかった。ヨーガを理解したかったんです。

まだ小さい頃から、つねに私はスピリチュアリティに魅了されていました。よく映画『ラーマーヤナ』を観に行ったものです。ガネーシャ・シアターという映画館が家の近くあって、そこで二か月間『ラーマーヤナ』を上映していたんです。私はほとんど毎週のように観に行きました。ハヌマーン(猿の姿をした神)が好きだったんです。ハヌマーンはラーマに心から帰依していました。本当に彼がどれほど「セーヴァ」(献身的奉仕)に徹してしていたことでしょう。私はその姿に心を揺すぶられ、自分ももっとスピリチュアルになりたいと思いました。これがヨーガを始めた理由です。しかし、もう一つだけ要因を挙げるとすれば、私の背中を押して、ヨーガへと導いてくれたのは母親です。かつての私は少々サボり屋なところがありました。「練習は明日行こう」「来週でいいや」と思うこともあったのです。そんなときは決まって母が私の背中を押しました。一言「行きなさい」と。それで私は練習を始めるのでした。

お母さんがヨーガを教えていた頃は7人か8人の生徒しかいませんでした。母はラクシュミプラムからゴークラムの近くまで遠路はるばる行きました。いつも一人でした。女の人が一人だけで移動するのです。その頃マイソールの街はまだ小さく、人も今ほど多くは住んでいませんでした。その中を母は毎日歩いていきました。

スクーターに乗ったり、時にはローカル・バスに乗ったりしながら、彼女は来る日も来る日も通い続けました。それは情熱の為せる業でした。練習への愛、それこそがあなたの中に変化を引き起こすのです。それが本当に大事なことです。もし練習への愛のために練習するなら、そこに限界はありません。あなたはこのプラクティスをただ楽しむことができるでしょう。サーティファイされることではなく、このプラクティスがもたらす喜びを味わうでしょう。

★ヨーガと他の運動は両立しない、グルジのやんちゃな一面
質問者:自分の体の状態は日々違っていると感じます。ある時はこっちが痛く、またある時はあっちが痛いというように。特に私の場合、時おり膝がズキンと痛むんです。お尻が開かないためだと思うのですが。それでこの地へ来たときにですね、先生がおっしゃるように、この場所はある種のエネルギーに満ちていますから、体が温かくなって、いつもより深くポーズをとってみようと自然に思うわけです。で、実際により深くやってみます。すると膝の痛みが増すんです。それで次の日には練習することが難しくなります。少し時間を置いた方がいい、あんまりプッシュしない方がいいと自分では分かっているのですが、このことを先生に伝えるために最も適切な方法はどういうものでしょうか。自分の膝の問題がどうなっているかを分かっているのは、何といっても自分自身ですからねえ。それを先生にどう伝えるのがベストなのでしょう。もちろん先生のことは尊敬しますし、サレンダーもしてますよ。でもそれと同時に、私は自分の体の声にも耳を傾けたいのです。そんなわけで時々混乱したり、引っ掛かりを感じたりするのです。

シャラート:言えることは二つあります。一つはなぜその膝の痛みが生じたのか、あなたはその理由を知らなければなりません。あなたはアーサナの他に何をやっていますか。何か別の運動をしているのではありませんか。それが膝の痛みの原因です。すぐにそれをやめなさい。それがすべてです。もう一つは自分の限界を知ることです。練習すれば体は変わります。が、変わるための時間を体に与えてやらねばなりません。体は一日では変わりません。長い時間がかかります。私にしたって、体が変化して柔軟性を身につけるまでにはずいぶんと時間がかかりました。若い頃は毎朝2:00か2:30に起きてラクシュミプラムまでヨーガを習いに行ったものです。ハードな練習を山ほどやりました。簡単には進歩しませんでした。ヨーガ以外のことは一切やりませんでした。自転車も走ることも、山登りも何もかも。ひたすらヨーガだけ、それがすべてでした。ヨーガの練習をするなら他の運動は必要ありません。ヨーガの練習の中で多くのエクササイズが起こるからです。

自分の体に変わるための時間を与えなければなりません。もしジョギングやランニングのような運動をすれば体は固くなります。ここでやっているアーサナの練習では、体を緩めているのです。あなたは、お尻を緩め、膝を緩めています。体のすべてが柔軟になります。他の運動は体を締めます。筋肉を締め、関節を締め、すべてが固く締まった状態になります。

アーサナの練習をするなら、それだけをやり続けなさい。それがすべてです。二つのことはできません。そんなことをすれば体を壊すでしょう。十代の頃、周りの友人たちはみんなジョギングやランニングをやっていました。私は言いました。「僕もやらなくちゃいけないんだよ」。また、私は友人たちとゴークラムからクッカラハリ湖というマイソールの大きな湖までサイクリングをしました。そこへは何度も行きました。二人の友人が共和国記念日パレードに出場するためにトレーニングしていました。かなりきつい練習でした。走る、ジョギングする、その他にもたくさんやりました。私もその半分に付き合いました。彼らが12キロ走るところを私は6キロというように。この運動をやった後にラクシュミプラムからゴークラムへ移動し、ヨーガの練習に戻ったのですが、そのときは練習が本当に大変でした。一番大変だったのはエーカ・パーダ(片足を頭の後ろへもっていくポーズ)です。そのポーズで私は何か月も立ち往生しました。その二年間、走り過ぎたために、あらゆる関節がとても固くなっていたのです。すごく痛かったです。若い頃ならまだよいのです。そんなには痛みを感じないでしょうから。でも歳を取って、35歳、40歳くらいになってきたら運動のペースを落とさなければなりません。

サイクリングやランニング、またウェイトトレーニングは体に良くないです。それらをやった後は関節も筋肉もすごく固まります。関節炎やその他あらゆる問題が起きて、動けなくなってしまいます。あなたは一か所に落ち着くべきです。ヨーガだけを練習するように。特にアーサナの練習は体を柔軟にし、いつまでも強く保ちます。80歳になってもすごく行動的でいられるでしょう。なぜなら(ヨーガをしていれば)あなたの筋肉も関節も強くて柔軟だからです。

私の祖父は90歳になってもこんなふうに背中を真っ直ぐにして座っていました。祖父が前かがみになって座っているところを私は見たことがありません。祖父が他界したとき、私たちは祖父の遺体を焼きましたが、火葬の後でも彼の背骨は焼けずに残っていました。

祖父はよく落っこちる人でした。私と母にはそれが不思議だったのですが、グルジは落っこちても全然へっちゃらなのです。祖父はシャンカラチャリアを祀った祭壇に花冠を備えるため、何度もこういう大きな椅子に登りました。そして二度三度と落っこちました。すると祖父は立ち上がり、微笑むのでした。祖父はよく笑っていました。

祖父は何度もスクーターから転げ落ちました。祖父がスクーターの乗り方を覚えたのは78歳の時です。祖父は4段変速のバジャジ・スクーターを新品で購入しました。ある一人の献身的な生徒がいました。彼はアーサナは得意ではありませんでしたが、一生懸命練習していました。私たちの親戚でもありました。その彼が祖父を大学の近くまで連れて行って、スクーターの乗り方を教えたんです。毎日レッスンをしました。ある日、彼が脚を持ち上げ、グルジのスクーターの後ろに座ろうとしたとき、グルジは行ってしまいました。一人で行ってしまったのです。ご機嫌でした。それで彼の生徒、名前はスディと言いますが、彼はちょうどスクーターで通りかかった人を止めて言いました。「ああ、私のグルジがスクーターに乗って行ってしまったんです。追いかけてもらえますか」。その人は言いました。「いいとも」。

スディはスクーターの後ろに飛び乗り、グルジを追いかけました。スディは言いました。「グルジ、止まってください! 止まって!」。するとグルジが言いました。「おお、お前、そこにいたのか」。グルジはスクーターにすごく興奮していて、そのまま行ってしまいました。しかし、グルジがスクーターを覚えたのはずいぶん歳を取ってからです。だからグルジは何度も転倒しました。しかしグルジはそのことを決して祖母には言いませんでした。もし言えば、叱られてしまうからです。グルジはよくスクーターを押して運んでいました。私たちの家には小さな外階段(ramp)がありました。たしか5段くらいありました。オールド・シャラの真ん中にスクーターでも何でもその下に入れておける外階段があったのですが、グルジがそこにスクーターを置くときにようやく、祖母はグルジが転倒したことを知るのでした。グルジは自分からは決して言いません。誰にも。ある日、グルジは大きな傷を負いました。それでも誰にも言わなかったのです。グルジがスクーターを階段の下に停めようとしているとき、祖母はグルジのドーティ(腰布)が汚れているのを見ました。そこにはおびただしい血が付着していました。かくのごとくグルジはタフな男でした。

★翻訳によって失われるもの
質問者:ウパニシャッドをサンスクリットから英語へ翻訳すると、何が失われてしまうでしょうか。私たちの多くは英語しか読めないのですが。

シャラート:どういう翻訳なのかを見た方がいいですね。本当に良いものもありますが、いろんな事柄に関して正確な意味で訳していない場合も多々見られます。例えば、ディヤーナとは、正確にはメディテーションではありません。ディヤーナとはすべての感覚器官を引っ込めることです。この意味わかりますか。メディテーションでは意識を一点に集中させることができます。これをドリシュティと言います。心を一つの場所に置き留めることです。しかし、ディヤーナはあらゆる感覚器官を引っ込めることですから、外界にある物はあなたに働きかけることができません。これがディヤーナです。多くことが翻訳によって失われます。翻訳されるとディヤーナはメディテーションになってしまいます。メディテーションで可能なのは集中だけです。心を一点に集中させればメディテーションになります。真の熟達者(マスター)の中には「ディヤーナはメディテーションではない。ディヤーナは翻訳できない」と言う人もいます。このように、翻訳で失われるものは他にもたくさんあるのです。あまりにも多くのものが失われます。

質問者:では、ギータの英語版で比較的良質な翻訳はどれだとお考えですか。

シャラート:たくさんあります。ラーマクリシュナ・アシュラムから出ている本は美しい翻訳です。チンマヤ伝道会のものは装丁がきれいです。どちらもよく書かれています。そのうちの一つか、あるいは二つともを読めばいいでしょう。翻訳一冊だけを読んでも、理解は難しいです。読み続けることです。決して「私はバガヴァッド・ギータを読んでしまった。読み終えた」とは言ってはいけません。ギータはそういう本ではありません。読み続けるべき本なのです。

バガヴァッド・ギータの世界に深く入っていくごとに内容が少しずつ分かってきます。よりよく、よりクリアに理解できるようになり、やがてすべてが分かる日がやって来るでしょう。この本をつねに読み続けることを習慣にすべき理由はそこにあります。それがとても大切です。今どきの本など読んではなりません。誰かがヨーガについて書いても、それを読んではいけません。そこにスピリチュアルなものはありません。本当の熟達者(マスター)、真の熟達者が書いたものだけを読みなさい。そういう本はたくさんあります。チンマヤナンダ、ラーマクリシュナのような人が書いた本です。シャンカラチャリアの名も挙げておきましょう。彼の説明力は驚異的です。彼の本には叡智が詰まっています。シャンカラチャリアはあらゆるヨーガの方法を紐解いてくれます。もちろん彼はハンドスタンドとか、そういうタイプのアーサナのやり方を教えてくれるわけではありません。シャンカラチャリアから湧き出てくるのは、真の叡智、スピリチュアルな知識です。彼はバンダについて語ります。その他にも、あなたの個人的なサーダナ(修習)を向上させるのに役立つことを教えてくれます。なので、一つないしは二つの翻訳を読んでください。二つ、三つの翻訳を読み比べれば、より正確な意味を知ることができるでしょう。

読むべき本はたくさんありますが、ともかく一冊から始めましょう。バガヴァッド・ギータから始めるのがよいでしょう。もし本当のスピリチュアリティを欲するなら、この本の他にうってつけのものはありません。Gita-sugita kartavya(ギータをよく学ぶべし)。ギータは本物であり、神であるクリシュナから直接もたらされる真の叡智です。そのすべてが私たちの正気を保ってくれます。バガヴァッド・ギータを読みましょう。ヨーガに関する真の知識がそこに詰まっていますから、これから始めましょう。もし読み続ければ、この本からたくさんの知識を得られるでしょう。この本の18章すべてがヨーガについて語っています。

ギータを読んだら、他にもたくさんの本があります。ヨーガ・スートラ、ハタ・ヨーガ・プラディーピカー、ウパニシャッド、サンヒターなど。シャンカラチャリアは多くの本を書きました。アパロクシャヌブーティ、ヨーガ・タラバリ。他にもたくさんあります。しかし、これらの本を全部買ったら読む気がしないでしょう。なので一冊から、バガヴァッド・ギータから始めなさい。おそらく理解するのに二年はかかるでしょう。いや、それは一生のプラクティスです。ヨーガは一生のプラクティスです。一日や二日ではなく、生きている間ずっと続くプラクティスです。読み続け、学んでください。「すべてを学んだ」と思った時が、学びの終わりです。しかし、人がすべてを学び終えることはありません。「私は知っている、でもすべてを知っているわけではない」と考えること、それが探求のやり方です。学ぶ方法です。そのとき知識はあなたにやって来るでしょう。ありがとう。これで終わります。

出席者全員:ありがとうございました。

サラスワティ・ジョイス:練習を続けなさい(Keep practice)。

シャラート:どうもありがとう。神が皆さんに幸福をお与えくださいますように。物質的な幸福ではなく、内面的な幸福を。キープ・プラクティス。これが本当の叡智です。キープ・プラクティス。アーサナが出来ても出来なくても気にしない。その場にいることが大事なのです。毎日練習することが大切です。次回またお会いしましょう。どこでなのか、いつになるのかは分かりません。しかし、皆さんの心の中に、私はいます。グルジもいます。私の母もいます。だから、キープ・プラクティス。すべての皆さんに神の祝福あれ。
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