2016/11/28

12月のクラス日程  

12月の築地はこんな予定です。

★12月23日(金)、24日(土)、25日(日)は休講(その他は通常どおり開講)。


★12月30日(金)は本年の最終回。
 13:00〜14:30 大掃除
 15:30〜17:00 年末レッド
 18:00〜21:00 納会




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2016/10/17

シャラートのことば(#3)  

カンファレンス三日目の内容をお届けします。この日は、シャラートによる講義はなく、最初から質疑応答が行われました。

分量が多いので、私の判断で「小見出し」をつけておきました。

全部を通して読む時間のない人は、興味のある項目から拾い読みしてください。

ちなみに、ヨーガとダンスをやっている僕にとっては、「ヨーガと他の運動の両立は困難」というシャラートの指摘が胸に刺さりました。ああ、どうしよう。




三日目(質疑応答)

今日は皆さんにチャンスを与えましょう。カンファレンスの始まりから質問を受けます。今日が最後のカンファレンスです。明日はカンファレンスはありません。次の機会はマイソールで、ということになりますね。


★バンダの重要性

質問者:手首に痛みがあるとき、どのように変形すればウップルティヒができるでしょうか。

シャラート:ウップルティヒの変形ですか? 親指の位置を変えてみたらどうです。あるいはリストバンドをするとか。リストバンドが手首をサポートしてくれるでしょう。ウップルティヒに関しては、バンダを用いることが重要です。ムーラ・バンダが働けば、体全体がとても軽くなり、強さも生まれます。

いくつかのアーサナでは、バンダが非常に重要です。例えば、ウッカタ・アーサナをやるときです。ポーズを取り終えたら、体を持ち上げて、それからジャンプバックしなければなりませんよね。バンダをしていれば、それをするのは簡単です。自分の体が、まるで鳥の羽のように、軽くなったと感じられるでしょう。あなたは、飛ぶことができます。ひとつ、私がお見せしましょう。これ、今までに何度もやっているんですけどね。時々、見せたくなるんです(笑)。ウッカタ・アーサナをするときは、いったん手を床まで下した後、このように真っ直ぐに体を持ち上げます(ウッカタ・アーサナからの移行をやって見せながら)。バンダを用いなければ、これをやるのはとても困難です。単に強さの問題ではないんです。多くの人は、強さを持っていても、こんなふうにはできません。だからこそ、ウップルティヒが、とても大切なのです。私が皆さんに、ウップルティヒを長時間キープさせる理由も、ここにあります。ウップルティヒを長時間キープすれば、下腹部が強化され、ムーラ・バンダを得ることができるでしょう。



★ナーヴァ・アーサナでの脚の交差

質問者:ナーヴァ・アーサナをやるとき、ポーズとポーズの間では、右足を上にしてクロスした方がよいのですか、それとも、左足が上ですか。

シャラート:ナーヴァ・アーサナですか?

質問者:はい。

シャラート:右足が上です。

質問者:いつもですか?

シャラート:いつもです。

質問者:わかりました。



★ヨーガの精神面を教えることの困難 → 練習しすぎ、仕事しすぎには要注意

質問者:私の記憶違いでなければ、あなたは、今年の夏に中国本土で行なわれたヨーガ・カンファレンスに、出席されましたね。中国では、どうなのでしょう。ヨーガの精神面を強調することに関して、他の場所で話すときと比べて、何か違いがあったでしょうか。つまり、プラクティスの精神面について語ることは難しいため、もっぱら肉体面に焦点を当てて、お話しされたのでしょうか。その点を知りたいと思うのですが。

シャラート:精神面について話をすることに、私が困難を感じたかどうか、ということですか?

質問者:ええ。宗教と霊性(spirituality)に関する中国政府の立場ゆえにですね。

シャラート:事実として、あのカンファレンス全体は、中国政府の主催で行なわれました。その名称は、「中国・インドシナ・ヨーガ・サミット」です。「インドシナ」とは、「インドと中国(シナ)」という意味です。インド大使館が、成都市の市長と協力して、このカンファレンスを企画実行しました。

中国では、ヨーガはとても新しいものです。ほとんどの人は、ヨーガはアメリカから来たものだと思っています。何も分かっていないのです。確かに、何人かの先生が、中国へ行きました。彼らは、ハンドスタンドやジャンプバックのやり方は、教えたのでしょう。ヨーガの肉体面についても、じつにたくさんの説明すべき要素がありますからね、その先生たちは、その説明に集中したのでしょう。しかし、彼らは、ヨーガを全体としては、取り上げませんでした。そういうことなのです。たしかに、ヨーガを分かっていない人が、ヨーガを教えることは、難しいでしょう。だから、そういう人は、ブランド・ヨーガに手を出そうとするのです。アメリカ合衆国でそうなっているように。合衆国といえば、最初にヨーガの海外普及が行われた場所なのですが。

1893年、ヴィヴェーカナンダ師は、合衆国へ行き、人々にヨーガの教えを説きました。彼が、初めて合衆国でヨーガを教えたのです。そのとき、ヨーガはかの地へ渡りました。その後には、他のグルたちが行きました。彼らはヨーガを教えました。そして、ヨーガの肉体面に関しては、広く知られるようになりました。人々はみな、こう思っています。脚を頭の後ろへ持っていけば、それがヨーガだと。それが偉大なヨーギーだと。彼らは、ヤマやニヤマには関心がありません。ヨーガの他の側面にも、興味を示しません。彼らは、そういうものがヨーガだと思っています。肉体のことも、確かにとても大切ですが、それはヨーガの最終ステージではありません。ご存知のように、人々に理解させることは、時によって非常に難しいのです。よく分かっていない人々に教える場合は、特に。例えば、あなた方自身の両親のことを考えてみてください。あなた方の両親の中で、いったいどれくらいの人が、ヨーガの練習をしたいと望むでしょうか? ヨーガの何たるかを、理解するでしょうか? 彼らには、分からないでしょう。もし、彼らが、もっと若いときに、ヨーガをやっていたら、もし、インド人の師から、教えを受けていたとしたら、彼らはヨーガについて、いくらかの知識を得ていたでしょうが。

ある国へ初めて行って、何かスピリチュアルなことを教えるのは、つねに困難なことです。私は、インドで生まれましたから、スピリチュアルというのがどういうことか、このプラクティスがどういうものかを分かっています。スピリチュアリティの意味も。単に、バガヴァッド・ギータを全部読むだけでは、スピリチュアルにはならないでしょう。スピリチュアルになるためには、ギータの語ることを、まるごと受け入れなければなりません。その教えを、自分の人生に採り入れなければなりません。

クリシュナが、「我は一切なり、我に汝を明け渡すがよい」と言えば、あなたは、そうしなければなりません。そうするときにのみ、スピリチュアルな知識を持つことができます。その知識は、昨日お話ししたように、あなたのもとへやって来るでしょう。一切が、あなたの内部で成長するでしょう。こういったことを、ヨーガについて何も知らない人に理解させるのは、とても難しいのです。

中国でのヨーガは、まだ新しいものです。彼らは、すでにヨーガを知っていると思っていますが、そうではないと、私は思います。

もちろん、良い生徒も、たくさんいます。私のところにも、定期的に学びに来る、中国人生徒がいます。彼らは、練習しています。しかし、なにしろ日が浅い。中国や韓国では、今ようやく、ヨーガが一般に知られ始めたところです。ヨーガの何たるかを知るまでには、まだ、時間がかかるでしょう。ヨーガは、ナイフのようなものです。ナイフを使って、誰かを殺すこともできますし、自分を殺すこともできます。その一方で、リンゴを切って食べることもできます。リンゴの味を楽しみましょう。

朝から晩まで、アーサナを練習し続ければ、あなたは自分を殺すでしょう。私は、何人かの人々が、朝、、午後、夕方にアーサナをするのを見たことがあります。彼らはビーチへ行き、アーサナをやるんです。早朝のクラスに出、それからプールに行き、ハンドスタンドをやる。彼らは、こうしたあらゆるクレイジーなことをします。そして、また夕方になると、アーサナをやるんです。クレイジーです。そんなことをすれば、人はおかしくなってしまいます。

Yuktaharaaviharasya
Yuktacestasya karmasu
Yukutasvapnaavabodhasya
Yogo bhavati duhkah
節度をもって食べ、節度をもって気晴らしをし、仕事をし、節度をもって眠り、目覚める者は、ヨーガの実修により苦を取り除くことができるだろう。(バガヴァッド・ギータ6.17)

あらゆることは、制限されるべきです。食べ物にも、制限があるべきです。あなたは、度を過ごして食べることはできません。もし、インド料理のターリー(銀のお盆に盛られた定食)を三回もおかわりしたら、あなたの胃は、異常を起こすでしょう。それと同様に、あなたは自分のカルマ(なすべきこと)においても、節度を守るべきです。カルマとは、あなたの義務のことです。

もし、あなたが技術者なら、あなたの義務は、立派な建物を建て、その建物をよい状態に保つよう努めることです。あなたは、そのために必要なことをすべて心得ています。あなたが医者なら、患者を正しく治療し、いつも良質な医療を与えられるように努めねばなりません。おそらく、あなたは、毎日12時間から14時間ほどは、医者でいることができるでしょう。しかし、24時間は無理です。あなたは、休息を取らなければなりません。是が非でも。

このカルマ(なすべきこと)の一部が、アーサナの練習です。アーサナ練習にも、制限は必要です。練習は、朝に一回だけ。2時間か、3時間。グルが、あなたに教えたことを、教えられた分だけ練習する。それで充分です。

睡眠にも、制限があるべきです。人間は、18時間以上も眠れません。山猫ではありませんから。山猫は、18時間眠ります。そうなっているのは、もし、山猫が18時間眠らなかったら、獲物をすべて殺し始めるだろうからです。だから、神様(God)は、山猫に18時間の睡眠をお与えになったのです。

神様は、人間には8時間の睡眠を与えられました。一日の残りの16時間、人間がよりクリエイティブでいられるように。人間が、その間のすべての活動を、神(the devine)を知ることへと向けておくことができるように。このようなわけで、あなた自身の個人的なサーダナ(修習)のために、神様は16時間をお与えになったのです。それは、スピリチュアルであるため、(神を)知るための時間です。仕事こそが人生だと思っている人もいます。「ああ、仕事へいかねば」。「朝から晩まで働かなきゃ」。あなたは、働きます。お金を稼ぐため、生きていくため、食べる物を手に入れるため、住む場所を確保するために。お金は、必要以上は要らないというのに。あなたは、心の平安を得ようとしていません。つまり、あなたは、何も得ようとしていないのです。

私には、かつて大手ソフトウェア会社に勤めていた友人が、数人います。彼らは、朝6時に起きます。運動はしません。プジャ(家の神棚に花を供えて祈る儀式)もしません。何もしない。彼らは、起きて、湯を使い、急いで朝食を済ませます。そして、オフィスへと猛ダッシュ。8時までには、オフィスにいなければなりません。彼らはみんな、バンガロールに住んでいました。バンガロールは、人口密集地です。朝6時から、交通渋滞です。なので、オフィスに着き、仕事にとりかかるまで、2時間はかかります。で、彼らは、朝の8時から、夜の8時まで働きます。家に帰ってくる頃には、彼らは疲れ果てているでしょう。いつ、ヨーガの練習ができるでしょう。

仕事がすべて、ではありません。何かをするためのゆとりを持ちましょう。この意味でも、タパスは重要なのです。仕事はしなければなりませんが、自分自身のサーダナ(修習)のために、いくらかは時間を空けておかねばなりません。これもまた、大切なことです。

仕事だけになってしまったら、ストレスが溜まります。20年、30年と経つうちには、血圧が上がったり、ぜんそくになったり、糖尿病にかかったりするでしょう。そういう人は、何でも手に入れることができるでしょう。あらゆるものが、その人のもとに来るでしょう。でも、その人は自分自身の世話ができていません。こうしたことに気をつけなければなりません。えーと、いったい何の話からこんな話になったのでしたっけ。でも、これでいいですか? こんな回答でいいですか。ダメですか? それとも満足ですか?

質問者:すごく満足です。

シャラート:ありがとう。


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★オイル風呂の効用

質問者:オイル風呂と浄化(purification)について、質問があります。オイル風呂の重要性について、少し話していだだけますか。

シャラート:オイル風呂は、体から炎症の痛みを取るために使います。アーサナ練習をすることで、大量の内的な熱が生まれます。ときには、体の中でオーバーヒートが起こります。だから、ときどき体を冷却することが大切です。それが、オイル風呂を使う理由です。6日間の練習をすれば、体は炎症を起こします。多くのアーサナは難しいです。練習もハードになります。特に、難しいアーサナに取り組んでいるとき、体は炎症を起こします。炎症をすみやかに取り除くために、オイル風呂を使いなさい。どんなオイルでも構いません。ひまし油はとても体に良いのですが、拭き取るのが大変です。なので、ゴマ油かアーモンド油を使うといいです。アーモンド油はとても高価です。もし、お金があるなら、それを使えばよいでしょう。オリーブ油も、体によいです。一週間に一度くらいのペースで、体を休めるときに、オイル風呂を使う必要があります。練習のない日に、オイル風呂を使い、温かいシャワーを浴びましょう。そうすれば、体からあらゆる炎症の痛みが取り除かれるでしょう。肌も、良好な状態になります。オイル風呂とシャワーは、皮膚の毛穴を開きます。毛穴が開くと、そこからあらゆる毒素が外に出ます。アーサナの練習をしているときに、毛穴が開いていれば、汗と一緒に毒素を出すことが容易になります。



★練習について語ることは慎む → フェイスブックの悪い面

質問者:ヨーガについて、あまりたくさん話すべきではないと聞いたことがあります。もちろん、グルと一緒にいるこの状況は別ですが、しかし……

シャラート:ヨーガについて話すこと?

質問者:自分たちの練習について話すことです。

シャラート:誰がそんなことをあなたに言ったのです?

質問者:私が言っているのは、スピリチュアルな経験のことです。内的経験といったような。

シャラート:話さなくて、どうやって学べるのですか? もし私が黙ったままなら、あなた方の学びを手伝うこともできません。

エディ・スターン: シャラート、僕が思うに、今の質問の意味は、それぞれの個人的な練習については語るべきではない、ということなんじゃないかな。「私、膝が痛いんだけど」とか、「このポーズが上手くできないんだ」とか。

シャラート:ああ、その手のこと? ええ、それは良くありませんね。あなたは誰とも比べるべきではありません。たくさんの人が、議論していますね。ほら、カポタ・アーサナですよ。彼らはカポタ・アーサナについて、際限なく議論を重ねています。マイソールでは、私が一人の生徒に一つポーズを与えると、彼らはココナッツ・スタンドに行って、一日中、そのことについて語り合っています。

ドゥルガ・バヴァーン、これはマイソールで有名なホテルですが、生徒たちはこぞってこのホテルへ行き、いっぱい議論をするのです。「ねえ、あなたはこのアーサナどうやってるの?」。一つのアーサナについて、数百万の意見が交わされます。どんな意見を採用しようとも、それは来るべきときに来るのです。考えることをせずに、ただそれをやり続けなさい。そうすれば、それはやって来ます。

私は、アーサナについて、生徒の誰とも、決して話しません。祖父は言ってました。「やれば、それはやって来る」(You do it, it will come.)と。オーケー、グルビョー・ナマハ(グルを称えよ)。これで終わり。グルの指示が、最終的なものです。それで終わり。議論はいらない。フェイスブックもいらない。クレイジーです。

フェイスブックは、ある種の事柄に関しては、役立つのでしょうが、何にでも役立つわけではありません。日がな一日、「オー、タカタカタカタカタカ(訳者注:キーボードを打つ音)」「わたしカポタ・アーサナができたよ!」 「シャラートがね、あたしにこんなことを言ってくれたんだ」 「キミはこれについてはどういう意見を持ってる?」 ……意見というものは、それこそ無数にあるでしょう。なぜ、そんなものが必要ですか。そんな意見など、必要ないでしょう。時間の無駄、エネルギーの無駄ですよ。心を散漫にしているだけです。もし、あなたがブレない心を持っていたなら、今生でそれが来るならば、それを楽しみ、来ないならば、来世まで待つでしょう。インドでは、人は幾度も生を得ます。カポタ・アーサナが今生でできるようになれば、それはそれでオーケーだし、もしできなければ、待つことです。次の生を。あなたが生まれ変わる理由の一つが、そこにあります。カポタ・アーサナをするために! もし、すべてを学び終えてしまったら、すべてを今生で手に入れてしまったら、そのときは、来世はないでしょう。



★複数の先生から習うという間違い

質問者:先生からご覧になって、生徒たちがアーサナ練習に関して共通に間違っていることってありますか。えーと、べつにアーサナ練習に限らなくてもいいんですけど……

シャラート:一般的に?

質問者:ええ。

シャラート:だから、それはフェイスブックですよ(笑)。人々が犯している一つの間違いはですね、複数の先生に就くことです。

ご存知の通り、そして前にお話ししたように、一つのパランパラに従うこと、一つのシステムに従うこと、これが、学び探求することにとっては、常により良いことなのです。あっちこっちへ習いに行けば、混乱します。そういう人は、自分が何を聴くべきなのか、分かっていないのです。これが、一般的に見られる共通の間違いです。アーサナを修得するには、とにかくたくさん練習を重ねなければなりませんね。だいたいはそこから、いろんな間違いが生まれてくるのです。もっと多くマイソールに来て、もっとたくさんのクラスを受ける必要があります。このシャラに来つづけるなら、あなたは学ぶことができるでしょう。問題ありません。

どうか、理解してください。ヨーガというものは、それ自体が、非常に神聖なプラクティスなのです。これについて、人と議論をしに行って、様々な意見を採り入れてはいけません。そんなことは、必要ありません。ヨーガのプラクティスは、とても個人的なプラクティスです。それは、あなた自身が変化してゆくためにあります。討議をするのは、また別のことです。二人の学者がいて、討議します。彼らは、あくまでもスピリチュアルなプラクティスに向けて、そのヨーガの体系をより明晰にするために、討議します。しかしまた、こんな場合もあるでしょう。二人の学者がいます。彼らは、坐っています。彼らが討議するのを、あなたは聴いています。ところが、今回はまったく様子が違います。学者たちは、アーサナについて語りません。彼らが語るのは、この教典にはこう書いてあり、あの教典にはこう書いてあるが、これはどう適用すべきか、あれはどう適用すべきか、といったことです。



★練習は一人がいい? みんなと一緒がいい? → 初心を忘れずに

質問者:私たち練習生は、他の人と一緒に練習する機会があります、そして、互いからたくさんのエネルギーをもらいます。シャラート先生は、他の人と一緒に練習する機会を持ったことがありますか。それとも、いつも一人で練習しなければならないのですか。もしそうであるなら、先生もグループで練習をして、互いからエネルギーをもらうことができたらいいなと思ったりしますか。

シャラート:他の人と一緒に練習することも必要ですし、一人で練習することも大事です。どちらの場合でも、気持ちよく練習できるようにすべきです。こんなふうにサットサンガ(集まり)が開かれる場合もあります。ごらんなさい。大勢の人々、大勢の生徒が、練習をするためにここへ来ていますね。そうすると、その場に大きなエネルギーが生まれます。これは大切なことです。他方、一人だけで練習する場合はどうでしょう。あなたは、二日練習し、三日練習して、四日目にはこう感じるのではないでしょうか。「ああ、今日はいくつかポーズを飛ばして練習しよう」と。大勢の生徒がいると、それが練習をするモチベーションになります。しかし、すべての人の心構えが同じであることはありません。みんなの心構えが、スピリチュアリティを探し求め、それを理解することに向かっているとしましょう。もし、全員がそんなメンタリティでいるならば、それはとてつもなく大きなエネルギーを創り出すでしょう。

しかし、中にはこんな人もいます。「システムがどうとか、そんなことには、全然興味ないよ。僕は、教授資格認定書をもらって、それを自分の家か、自分のスタジオに飾りたいだけなんだ。見てよ、僕、サーティファイされたんだ。オーソライズされたんだ」。 これは、悪いエネルギーです。ヨーガは、自分自身が変化してゆくために(for your own transformation)練習するものです。そういうつもりで取り組めば、練習にまったく違った意味が出てきます。ヨーガへの理解が、がらりと変わるでしょう。みんな練習を始めたばかりの頃は、そんな欲望はありませんでしたよね。私は、有名になりたいとは思いませんでした。大勢の生徒を持ちたいとも思いませんでした。何も望みませんでした。そこに、欲望はなかったのです。私は、ただ習いたかった。ヨーガを理解したかったんです。

まだ小さい頃から、つねに私は、スピリチュアリティに魅了されていました。よく、映画『ラーマーヤナ』を、観に行ったものです。ガネーシャ・シアターという映画館が家の近くあって、そこで二か月間、『ラーマーヤナ』を上映していたんです。私は、ほとんど毎週のように、観に行きました。ハヌマーン(猿の姿をした神)が好きだったんです。ハヌマーンは、ラーマに心から帰依していました。本当に、彼がどれほど「セーヴァ」(献身的奉仕)に徹してしていたことでしょう。私は、その姿に心を揺すぶられ、自分ももっとスピリチュアルになりたいと思いました。これがヨーガを始めた理由です。しかし、もう一つだけ要因を挙げるとすれば、私の背中を押して、ヨーガへと導いてくれたのは、お母さんです。かつての私は、少々サボり屋なところがありました。「練習は、明日行こう」「来週でいいや」と思うこともあったのです。そんなときは、決まって母が、私の背中を押しました。一言、「行きなさい」と。それで、私は練習を始めるのでした。

お母さんがヨーガを教えていた頃は、7人か8人の生徒しかいませんでした。母はラクシュミプラムから、ゴークラムの近くまで、遠路はるばる行きました。いつも一人でした。女の人が、一人だけで移動するのです。その頃、マイソールの街はまだ小さく、人も今ほど多くは住んでいませんでした。その中を、母は毎日、歩いていきました。

スクーターに乗ったり、時にはローカル・バスに乗ったりしながら、彼女は、来る日も来る日も、通い続けました。それは、情熱の為せる業でした。練習への愛、それこそが、あなたの中に、変化を引き起こすのです。それが、本当に大事なことです。もし、練習への愛のために練習するなら、そこに限界はありません。あなたは、このプラクティスをただ楽しむことができるでしょう。サーティファイされることではなく、このプラクティスがもたらす喜びを味わうでしょう。



★ヨーガと他の運動は両立しない → グルジのやんちゃな一面

質問者:自分の体の状態は、日々違っていると感じます。ある時は、こっちが痛く、またある時は、あっちが痛いというように。特に、私の場合、時おり膝がズキンと痛むんです。お尻が開かないためだと思うのですが。それで、この地へ来たときにですね、先生がおっしゃるように、この場所はある種のエネルギーに満ちていますから、体が温かくなって、いつもより深くポーズをとってみようと、自然に思うわけです。で、実際により深くやってみます。すると、膝の痛みが増すんです。それで、次の日には練習することが難しくなります。少し時間を置いた方がいい、あんまりプッシュしない方がいい、と自分では分かっているのですが、このことを先生に伝えるために、最も適切な方法は、どういうものでしょうか。自分の膝の問題がどうなっているかを分かっているのは、何といっても、自分自身ですからねえ。それを、先生にどう伝えるのがベストなのでしょう。もちろん、先生のことは尊敬しますし、サレンダーもしてますよ。でも、それと同時に、私は自分の体の声にも、耳を傾けたいのです。そんなわけで、時々混乱したり、引っ掛かりを感じたりするのです。

シャラート:言えることは、二つあります。一つは、なぜ、その膝の痛みが生じたのか、あなたはその理由を知らなければなりません。あなたは、アーサナの他に何をやっていますか。何か別の運動をしているのではありませんか。それが、膝の痛みの原因です。すぐにそれをやめなさい。それがすべてです。もう一つは、自分の限界を知ることです。練習すれば、体は変わります。が、変わるための時間を、体に与えてやらねばなりません。体は、一日では変わりません。長い時間がかかります。私にしたって、体が変化して、柔軟性を身につけるまでには、ずいぶんと時間がかかりました。若い頃は、毎朝2:00か2:30に起きて、ラクシュミプラムまでヨーガを習いに行ったものです。ハードな練習を山ほどやりました。簡単には進歩しませんでした。ヨーガ以外のことは、一切やりませんでした。自転車も、走ることも、山登りも、何もかも。ひたすらヨーガだけ、それがすべてでした。ヨーガの練習をするなら、他の運動は必要ありません。ヨーガの練習の中で、多くのエクササイズが起こるからです。

自分の体に、変わるための時間を与えなければなりません。もし、ジョギングやランニングのような運動をすれば、体は固くなります。ここでやっているアーサナの練習では、体を緩めているのです。あなたは、お尻を緩め、膝を緩めています。体のすべてが、柔軟になります。他の運動は、体を締めます。筋肉を締め、関節を締め、すべてが固く締まった状態になります。

アーサナの練習をするなら、それだけをやり続けなさい。それがすべてです。二つのことはできません。そんなことをすれば、体を壊すでしょう。十代の頃、周りの友人たちは、みんなジョギングやランニングをやっていました。私は言いました。「僕もやらなくちゃいけないんだよ」。また、私は友人たちと、ゴークラムからクッカラハリ湖というマイソールの大きな湖まで、サイクリングをしました。そこへは何度も行きました。二人の友人が、共和国記念日パレードに出場するためにトレーニングしていました。かなりきつい練習でした。走る、ジョギングする、その他にもたくさんやりました。私も、その半分に付き合いました。彼らが12キロ走るところを、私は6キロというように。この運動をやった後に、ラクシュミプラムからゴークラムへ移動し、ヨーガの練習に戻ったのですが、そのときは、練習が本当に大変でした。一番大変だったのは、エーカ・パーダ(片足を頭の後ろへもっていくポーズ)です。そのポーズで、私は何か月も立ち往生しました。その二年間、走り過ぎたために、あらゆる関節が、とても固くなっていたのです。すごく痛かったです。若い頃なら、まだよいのです。そんなには、痛みを感じないでしょうから。でも、歳を取って、35歳、40歳くらいになってきたら、運動のペースを落とさなければなりません。

サイクリングやランニング、またウェイトトレーニングは体に良くないです。それらをやった後は、関節も筋肉もすごく固まります。関節炎やその他あらゆる問題が起きて、動けなくなってしまいます。あなたは、一つの場所に座っているべきです。ヨーガだけを練習するように。特にアーサナの練習は体を柔軟にし、いつまでも強く保ちます。80歳になっても、すごく行動的でいられるでしょう。なぜなら、あなたの筋肉も関節も、強くて柔軟だからです。

私の祖父は、90歳になっても、こんなふうに背中を真っ直ぐにして、座っていました。祖父が前かがみになって座っているところを、私は見たことがありません。祖父が他界したとき、私たちは祖父の遺体を焼きましたが、火葬の後でも、彼の背骨は焼けずに残っていました。

祖父は、よく落っこちる人でした。私と母には、それが不思議だったのですが、グルジは落っこちても、全然へっちゃらなのです。祖父は、シャンカラチャリアを祀った祭壇に花冠を備えるため、何度もこういう大きな椅子に登りました。そして、二度三度と、落っこちました。すると、祖父は立ち上がり、微笑むのでした。祖父は、よく笑っていました。

祖父は、何度もスクーターから転げ落ちました。祖父がスクーターの乗り方を覚えたのは、78歳の時です。祖父は、四段変速のバジャジ・スクーターを、新品で購入しました。ある一人の献身的な生徒がいました。彼は、アーサナは得意ではありませんでしたが、一生懸命練習していました。私たちの親戚でもありました。その彼が、祖父を大学の近くまで連れて行って、スクーターの乗り方を教えたんです。毎日、レッスンをしました。ある日、彼が脚を持ち上げ、グルジのスクーターの後ろに座ろうとしたとき、グルジは行ってしまいました。一人で行ってしまったのです。ご機嫌でした。それで、彼の生徒、名前はスディと言いますが、彼はちょうどスクーターで通りかかった人を止めて言いました。「ああ、私のグルジが、スクーターに乗って、行ってしまったんです。追いかけてもらえますか」。その人は、言いました。「いいとも」。

スディはスクーターの後ろに飛び乗り、グルジを追いかけました。スディは言いました。「グルジ、止まってください! 止まって!」。すると、グルジが言いました。「おお、お前、そこにいたのか」。グルジは、スクーターにすごく興奮していて、そのまま行ってしまいました。しかし、グルジがスクーターを覚えたのは、ずいぶん歳を取ってからです。だから、グルジは、何度も転倒しました。しかし、グルジはそのことを、決して祖母には言いませんでした。もし言えば、叱られてしまうからです。それで、グルジは、よくスクーターを押して運んでいました。私たちの家には、小さな外階段(ramp)がありました。たしか5段くらいありました。オールド・シャラの真ん中に、スクーターでも何でも、その下に入れておける外階段があったのですが、グルジがそこにスクーターを置くときにようやく、祖母は、グルジが転倒したことを知るのでした。グルジは、自分からは決して言いません。誰にも。ある日、グルジは、大きな切り傷を負いました。それでも、誰にも言わなかったのです。グルジがスクーターを階段の下に停めようとしているとき、祖母はグルジのドーティ(腰布)が汚れているのを見ました。そこには、おびただしい血が、付着していました。かくのごとく、グルジはタフな男でした。



★翻訳によって失われるもの

質問者:ウパニシャッドをサンスクリットから英語へ翻訳すると、何が失われてしまうでしょうか。私たちの多くは英語しか読めないのですが。

シャラート:どういう翻訳なのかを、見た方がいいですね。本当に良いものもありますが、いろんな事柄に関して、正確な意味で訳していない場合も多々見られます。例えば、ディヤーナとは、正確には、メディテーションではありません。ディヤーナとは、すべての感覚器官を引っ込めることです。この意味、わかりますか。メディテーションでは、意識を一点に集中させることができます。これをドリシュティと言います。心を一つの場所に置き留めることです。しかし、ディヤーナはあらゆる感覚器官を引っ込めることですから、外界にある物はあなたに働きかけることができません。これがディヤーナです。多くことが翻訳によって失われます。翻訳されると、ディヤーナはメディテーションになってしまいます。メディテーションで可能なのは集中だけです。心を一点に集中させればメディテーションになります。真の熟達者(マスター)の中には、「ディヤーナはメディテーションではない。ディヤーナは翻訳できない」と言う人もいます。このように、翻訳で失われるものは他にもたくさんあるのです。あまりにも多くのものが失われます。

質問者:では、ギータの英語版で、比較的良質な翻訳はどれだとお考えですか。

シャラート:たくさんあります。ラーマクリシュナ・アシュラムから出ている本は美しい翻訳です。チンマヤ伝道会のものは装丁がきれいです。どちらもよく書かれています。そのうちの一つか、あるいは二つともを読めばいいでしょう。翻訳一冊だけを読んでも、理解は難しいです。読み続けることです。決して「私はバガヴァッド・ギータを読んでしまった。読み終えた」とは言ってはいけません。ギータはそういう本ではありません。読み続けるべき本なのです。

バガヴァッド・ギータの世界に深く入っていくごとに、内容が少しずつ分かってきます。よりよく、よりクリアに理解できるようになり、やがてすべてが分かる日がやって来るでしょう。この本をつねに読み続けることを習慣にすべき理由はそこにあります。それがとても大切です。今どきの本など読んではなりません。誰かがヨーガについて書いても、それを読んではいけません。そこにスピリチュアルなものはありません。本当の熟達者(マスター)、真の熟達者が書いたものだけを読みなさい。そういう本はたくさんあります。チンマヤナンダ、ラーマクリシュナのような人が書いた本です。シャンカラチャリアの名も挙げておきましょう。彼の説明力は驚異的です。彼の本には叡智が詰まっています。シャンカラチャリアはあらゆるヨーガの方法を紐解いてくれます。もちろん彼はハンドスタンドとか、そういうタイプのアーサナのやり方を教えてくれるわけではありません。シャンカラチャリアから湧き出てくるのは、真の叡智、スピリチュアルな知識です。彼はバンダについて語ります。その他にも、あなたの個人的なサーダナ(修習)を向上させるのに役立つことを教えてくれます。なので、一つないしは二つの翻訳を読んでください。二つ、三つの翻訳を読み比べれば、より正確な意味を知ることができるでしょう。

読むべき本はたくさんありますが、ともかく一冊から始めましょう。バガヴァッド・ギータから始めるのがよいでしょう。もし本当のスピリチュアリティを欲するなら、この本の他にうってつけのものはありません。Gita-sugita kartavya(ギータをよく学ぶべし)。ギータは本物であり、神であるクリシュナから直接もたらされる真の叡智です。そのすべてが私たちの正気を保ってくれます。バガヴァッド・ギータを読みましょう。ヨーガに関する真の知識がそこに詰まっていますから、これから始めましょう。もし読み続ければ、この本からたくさんの知識を得られるでしょう。この本の18章すべてがヨーガについて語っています。

ギータを読んだら、他にもたくさんの本があります。ヨーガ・スートラ、ハタ・ヨーガ・プラディーピカー、ウパニシャッド、サンヒターなど。シャンカラチャリアは多くの本を書きました。アパロクシャヌブーティ、ヨーガ・タラバリ。他にもたくさんあります。しかし、これらの本を全部買ったら、読む気がしないでしょう。なので、一冊から、バガヴァッド・ギータから始めなさい。おそらく理解するのに二年はかかるでしょう。いや、それは一生のプラクティスです。ヨーガは一生のプラクティスです。一日や二日ではなく、生きている間ずっと続くプラクティスです。読み続け、学んでください。「すべてを学んだ」と思った時が、学びの終わりです。しかし、人がすべてを学び終えることはありません。「私は知っている、でも、すべてを知っているわけではない」と考えること、それが探求のやり方です。学ぶ方法です。そのとき、知識はあなたにやって来るでしょう。ありがとう。これで終わります。

出席者全員:ありがとうございました。

サラスワティ・ジョイス:練習を続けなさい(Keep practice)。

シャラート:どうもありがとう。神が皆さんに幸福をお与えくださいますように。物質的な幸福ではなく、内面的な幸福を。キープ・プラクティス。これが本当の叡智です。キープ・プラクティス。アーサナが出来ても出来なくても気にしない。その場にいることが大事なのです。毎日練習することが大切です。次回またお会いしましょう。どこでなのか、いつになるのかは分かりません。しかし、皆さんの思考の中に、私はいます。グルジもいます。私の母もいます。だから、キープ・プラクティス。すべての皆さんに神の祝福あれ。
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2016/10/7

シャラートのことば(#2)  

今回は二日目の講演と質疑応答の様子です。この日の講演のテーマは「ヨーガの8本の枝」について。

質疑応答のコーナーでは、私たちが普段から疑問に思っていることに関して、シャラートの率直な回答を聞くことができます。


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〈二日目〉

昨日はパランパラについて――どのようにしてこのプラクティスがラーマ・モハン・ブラマチャリから伝えられてきたのか、ということについて話しました。アシュターンガ・ヨーガは本物のヨーガ(tha real yoga)です。なぜでしょうか? それはアシュターンガ・ヨーガがヤマ、ニヤマについて語るからです。

ヤマは5本の分枝を持ちます。アヒムサ、サティヤ、アスティーヤ、ブラマチャリヤ、アパリグラハの5本です。アヒムサは非‐暴力。サティヤは真であること。自分に対しても、他者に対しても(to be true to yourself, to others)。アスティーヤは盗まないこと。ブラマチャリヤは性に関する節度(celibacy)。次がアパリグラハ。持ち続けない、盗まない、自分に属さないものを取らないこと。

以下がニヤマです。シャウチャ、サントーシャ、タパス、スワディヤーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナ。

シャウチャとは、清潔であること、ピュアであることです。シャウチャには二つあります。一つはアンタル・シャウチャ(antar saucha)、もう一つはバイール・シャウチャ(bahir saucha)です。アンタル・シャウチャは内側を清潔に保つこと。つまり、神経系の汚れを除くことです。数多くのアーサナを行なう理由は、神経系を浄化し、清潔にするためなのです。よい考えを持つこともまた、清潔であることです。内側を清潔にしたら、外側も清潔にします。外側を清潔にするとは、身に着ける衣服や自分の生活空間を清潔に保つことです。これをバイール・シャウチャと言います。

サントーシャ、満ち足りていること(contentment)とは、自分が持っているもので満足することです。何でも持っているのに幸福でないという人もいますね。まだ、あれが欲しいんだと。こんな状態では幸福は微笑みかけてくれません。幸福は内側からやって来るものです。だから、自分が持っているもので満足しましょう。それがサントーシャです。

タパス。タパスも非常に重要です。タパスとは何でしょう。規律ある生活を送ること(to lead a disciplined life)をタパスと言います。タパスとは、山へ行って目を閉じることだけではありません。もちろんそれを実行するにも多くの規律が必要ですが。日々の生活に規律を設けることもタパスなのです。例えば、毎日早朝、同じ時間に起きて練習をし、決まった時間に食事をとること、これもまたタパスです。夜にパーティに出かけて、午前2時までそこにいて、それから帰ってヨーガの練習をすることはできませんよね。それは不可能です。

では、どのようにして生活に規律を設ければよいでしょうか。これも非常に重要な点です。タパスは私たちをより高いレベルのヨーガに導きます。

スワディヤーヤとは、自己−学習(self-study)です。これについては多くの人が混乱しています。自己学習というときの「自己」について。多くの人は自己−学習ということを次のように理解します。「私には先生は必要ないんです。グルは要りません。書物を読めますから」。現在ではヨーガのビデオがたくさんありますね。そのビデオに出ている誰かがあなたにハンドスタンドを教えてくれるでしょう。その人がハンドスタンドを行なっているのをあなたは見ます。どうやらその映像は彼がすごいヨーギであることを意味するらしいのです。

「私には先生は必要ありません、スワディヤーヤをしていますから」

かなり前のことですが、私は一人の頭のおかしな人に会いました。彼女は私のところへ来て、「あたし熟練のダンサーなんです」と言いました。そして私にいくつか質問をしました。私が答えると、彼女は「ええ知ってます、それ知ってます、分かってます」と言うのです。知っているなら、どうして私のところへ来て質問なんかするのでしょう。私はとても怪訝に思って、「どこでヨーガを習いましたか、あなたの先生は誰ですか?」と彼女に訊ねました。「あたしには先生はいません、スワディヤーヤをしていますから」と彼女は言いました。「スワディヤーヤですって、それはどういう意味です?」と私は尋ねました。「えっとぉ、あたしビデオ観ます。本も読みます。それでヨーガを学んでいるんです」。私は言いました。「わかりました。そういうことなら、あなたの知識はたったこれだけってことですね(とても小さいというジェスチャーをしながら)」。

スワディヤーヤの本当の意味は、グルから習ったことを、自分で努力して知ろうとし、実践することです。例えば、このワークショップで学んだことを、ワークショップの後で、実践し、研究することです。日々の生活の中で、学んだ知識にさらに磨きをかけることです。書物を読むのもよいでしょう。ただし、現代の本はダメですよ。私が言っているのは古代の書物です。ヴェーダ、ウパニシャッド、バガバッド・ギータ、サムヒターなど、たくさんの書物があります。パタンジャリのヨーガ・スートラ、ハタ・ヨーガ・プラディーピカ。

カンナダ語(訳者注:カルナータカ州の地方語)のことわざにこういうものがあります。「怠惰な弟子はあれど、師は忘却せず」(some students are lazy, but the teacher never forgets)。つまり熟達の師(master)は忘れないと。もし生徒が怠け者ならば、彼は学ぶ努力をしようともしないでしょう。だから先生は自分の知識を決して忘れないし、怠け者の生徒は決して学ぼうとしないというわけです。さきほど挙げた書物を読めば、あなたはこのプラクティスについてより多くの知識を得られるでしょう。練習の経験も大切ですし、哲学も大切です。両方が上手くかみ合ったときに、あなたは自分の練習の意味を見出すことができるでしょう。スワディヤーヤとはそういうものです。先生はあなたに教えることができます。でも、もしあなたがその教えの何たるかを自分で知ろうと努力しなければ、あなたは決して学ぶことはないでしょう。私たちがその努力をするならば、それがサーダナ(修習)です。それの何たるかを自分で知ろうと努力するときにのみ、このヨーガを理解することができます。

最後にイシュヴァラ・プラニダーナ。スワディヤーヤとイシュヴァラ・プラニダーナは、ほとんど同じものです。スワディヤーヤの項にはこうあります。Svadhyayat ishta devata samprayogah.(スワディヤーヤに専念すれば、自分が望む神霊と一体になることができる。『ヨーガ・スートラ』2.44)。あなたがどのような神を信じようと、その神に近づき、接触しようと努力するならば、そのときにはおのずとジャパが生じます。アルタとバーヴァナを伴ってジャパをするならば、それはとても良いことです。つまり、ちゃんと意味を踏まえ、良き意図をもって(with meaning and good intention)ジャパをすること、これがとても重要なのです。ジャパについては聞いたことがありますか。ジャパとは唱えること(to chant)です。あなたが好む神霊が何であれ、その神霊の名を唱え続けることがジャパです。Tajjapas tadartha bhavanam.(神の名を、その意味について考えながら繰り返し唱えること)。この経文は、正確な意味を踏まえ、意義深い仕方で、(proper meaning, meaningfully)、つまり良きバーヴァナを伴ってジャパをしなさいと言っています。

このような仕方でジャパを行なえば、それがおのずとイシュヴァラ・プラニダーナになってゆきます。イシュヴァラ・プラニダーナとは、神に自己を明け渡すこと(to surrender to the divine)です。西洋文化は私たちの文化とは異なっているため、西洋人の多くは「サレンダー」という言葉を聞くと、躊躇しながら「あの、私はサレンダー(屈服)したくありません」と言います。インドの文化はそれとは違っています。私たちは自分をグルに明け渡します。そうすることで知識が自分にやって来るのです。もしグルに対して疑念を抱けば、知識はやって来ません。

このことはアシュターンガの練習においてとても重要です。8つの枝に従うからには、アーサナの練習をしている間もそうしなければなりません。ただアーサナをやるだけ、ただ体を曲げるだけでは不十分です。それはヨーガの最終ステージではありません。

アーサナをすると、安定性と強さがもたらされ、神経系が浄化されます。アーサナの練習をしている間にすべてのことが起こります。しかし、それだけではより高いレベルに進むことはできません。それは基盤であって、最終段階ではないのです。だから、アーサナの練習中にヤマ、ニヤマをすべて実践するのです。そうすれば自分の練習にこれまでとは違った意味が生じるでしょう。では、いったいどうして「アシュターンガ・ヨーガ」でなくてはならないのでしょうか。

Yogaanga anushthanat ashuddhikshyaye jnana diptih aviveka khyate.
(ヨーガの8つの枝を修習することにより、汚れは取り除かれ、霊的な熱望が生じ、知識は最高度に高まって、自己の真なる本性を実現するであろう。『ヨーガ・スートラ』2.28)

こういうことが起こるのです。この8つの枝を実行し、実践すること、つまりashuddhikshyayeによって、体と心の汚れは洗い流され、除去されます。そしてjnana diptihということが起こります。Jnanaとは真の霊的な叡智です。それがあなたに生じるのです。いったん霊的な叡智が生じたなら、あなたは練習においてもっと賢明になるでしょう。これが、アシュターンガ(8つの枝)を実践することがもたらす恩恵です。




質疑応答(抜粋)

さて、昨日、私は皆さんに約束しました。質問があればお答えしますよと。今からその約束を守りたいと思います。



★プラーナーヤーマについて


質問者:プラーナーヤーマについて少し伺いたいのですが。グルジが教えていたというプラーナーヤーマは本当に存在するのですか。あなたはそれを練習し、教えていますか。

シャラート:教えていますよ。生徒の側に準備が整ったら教えます。すべての人に何でも教えることはできませんよね。でも、そこに問題があってね。みんながすべてを知りたがるのです。しかし、彼らはそれを知るだけの準備ができていません。ここから問題が始まるのです。もしそれを知るだけの準備ができている人がいたら、もちろん私は教えます。実際、マイソールでは上級の生徒を対象に、プラーナーヤーマのクラスを数多く実施してきました。彼らは毎年、いやそれ以上の頻度でマイソールに来ている生徒です。私たちはプラーナーヤーマを行ないますが、やる以上は正確にやらなければなりません。

Pranayamena yuktena sarvarogakshayo bhavet
Ayuktabhyasayogena sarbarogasamudbhava
(Hata Yoga Pradipika, 2.16)
プラーナーヤーマを適切に行えば、すべての病気は滅するだろう。不適切な仕方で行なえば、あらゆる病気が生じるであろう。

教典はこのように述べています。たしかに、プラーナーヤーマを行なうことによって多くの病気を取り除くことができます。しかし、もしプラーナーヤーマをする準備が整っておらず、正確に行なうことができない場合は、望まぬ病気を招いてしまうでしょう。だから別の教典にはこう記されています。

Tasmin sati svasa prasvasayor
Gati vicchedah pranayama
(yoga Sutras, 2.49)
アーサナが仕上がったところで、呼吸の流れを統御するのがプラーナーヤーマである。

Asanam sade siddhi これは「アサナをマスターした場合のみ、プラーナーヤーマを行なう」という意味です。特にクムバカを伴うプラーナーヤーマの場合はそうです。クムバカ・プラーナーヤーマを行なうには、まずアーサナを修得しなければなりません。でなければ、ただ呼吸を止めて、吐くということさえ難しいでしょう。クムバカ・プラーナーヤーマには他にもいろんなバリエーションがあります。

まず第一に、安定していなければなりません。体が安定しないのに、30分間もパドマアーサナで座っていられますか。ふと動きたくなるのではないですか。皆さんはどのアーサナを取るときも、5呼吸した後、私が「ファイブ!」とカウントするのを待っていますよね。そうやって体の安定性が生じます。心の安定性もまた。そしてすべてが安定します。そうなってからプラーナーヤーマをやるのです。以前よりも容易にできるでしょう。

そんなわけで、私はプラーナーヤーマを教えるときは、それを一つの治療法(a therapy)として教えてきました。ぜんそく、気管支炎、呼吸障害を持つ人々が治ってゆくのを私は見ました。この四年間で、私は何人かの人を治療してきました。マイソール市の地区委員長が私のところへやって来ました。彼は深刻なぜんそくでした。規則的に呼吸することもできないほどでした。彼にいくつかの呼吸法を教えるのに、三か月も面倒をみなければなりませんでした。彼は多くの物質に対してアレルギー症状を持っていました。ほこり、植物、そしてご存知のようにインドは大気汚染がひどいですね。こうした物質のすべてが彼の健康を害していたのです。それでとにかく三か月、治療してみたわけです。すると症状が随分と良くなりました。体調は上向き、規則的に呼吸できるようになり、以前ほどはぜんそくの発作も起こらなくなりました。発作は減りました。それで私は思ったのです。そうだ、自分の生徒たちにもこれを教えようと。で、この呼吸法をみんなに教え始めたというわけです。

もう一人、二本の気管を持つ少年がいました。聞いたことがありますか。一本は細くて、もう一本は正常。で、その隣にものすごく細いのがあるんです。医者は言いました。この子には呼吸法を十分にやらせるべきです。マスターのところへ連れて行きなさい。それで少年は私たちのシャラに来ました。私は彼にアーサナと呼吸のテクニックをたくさん教えました。このヴィンヤサはとてもパワフルです。肺を強化します。内臓を強化します。さらに神経系も強化します。そうやって私は何か月もその子の面倒をみました。医者が言うには、正常な気管で呼吸するようにすれば、他の気管は自然に消滅し、正常の気管が働き出すだろう、ということでした。今、彼は体調がずっと良くなり、何の健康上の問題もありません。これまで私はこういう話をしませんでした。「これもあれも私がやったことだ」とは言いたくなかったからです。それをやったのはヨーガなのですから。この方法を用いるだけで、多くの病気を治すことができます。だから私はこれらの呼吸テクニックを教え始めたのです。それは多くの人を救ってきました。4、5人だけでなく、もっと多くの人を。

これでいいですか? 満足しましたか?(笑)。

インドには呼吸に悪影響を及ぼす植物が数種類あります。その一つはパルセニウムです。多くの人がこの植物のアレルギーになっています。今は少し減ってきたでしょうか。この植物はとても早く成長して、たくさんの人に害を及ぼします。この呼吸テクニックはこれらのアレルギーを取り除くにも役立ちます。私はたくさんの人を診てきましたが、特に多かったのは植物へのアレルギーでした。




★ナディについて


質問者:ナディについて説明していただけますか。どれくらいの数があって、どのように働くのか。

シャラート:体の神経系は72000本のナディからできています。一つ一つが特殊なので、すべて説明していたら1時間はかかります。これについては、またいつか話しましょう。




★ポーズ中の足の持ち方について


質問者:ヨーガ・マカランダには手の指で足の親指をつかんで保持するようにと書かれています。それはどうやって行なうのですか? どうやってつなぐのでしょう? エネルギーの観点から言うと、どうなりますか?

シャラート:どれのことを言ってるんですか?

質問者:三本の指で保持することです。ヨーガ・マカランダに書いてあるでしょう。三つの指で保持せよって。それはどういうことなんですか。

シャラート:どういうことって……その意味について訊きたいんですか?

質問者:えっと、私はただ……

シャラート:手全体を使って持つことはできないでしょう。足の親指はたったこれだけの大きさなんですから(ジェスチャーで示して)。(笑)それぞれのポーズをこんなふうに、あるいはこんなふうに保持します。するとエネルギーが流れます。マリーチアサナやその他のポーズでは、手をこういう形にしてはいけません(ニャーナ・ムドラの形を示して)。これをやるのはパドマ・アーサナのときだけです。その他の場合、つまりブラフマ、ヴィシュヌ、マヘシュヴァラの場合、すべては同じ一つです。二つではありません。これがその経文の意味です。アーサナの最中はとにかく手でしっかり握るようにするといいです。そうすれば体が安定します。

足の親指をこうやってつかむと、ごらんなさい、すごくしっかりしたグリップが生じるでしょう。体はより安定し、固定されます。体が安定し固定されると呼吸が起こります。つまり、吸う‐吐く‐吸う‐吐くという呼吸のサイクルが起こります。内的なエネルギーが生み出されるのです。ヴィンヤサをしながら練習をしているときには、内的なエネルギーが生じています。もっと注意深く呼吸をすれば、エネルギーは内側を流れます。私たちはすでにアーサナの中でプラーナーヤマを行なっているのです。プラーナーヤーマとは何でしょうか。プラーナを伸長することです。

通常、私たちが一日にする呼吸の数、吸う−吐くの数は21,600回です。呼吸に集中し、意識を傾けて呼吸するなら、それはもうプラーナーヤーマです。あなたは自分の呼吸に注意を向けることができますか。毎日ですよ。それをどのくらい長時間できますか。何時間も自分の呼吸に意識を向けたままでいられる人が、皆さんのうちに何人いるでしょうか。どのくらいの時間、その状態をキープできますか。完全に呼吸に意識を向けることはできないでしょう。心はどこか他所に行ってしまっているのですから。練習中は呼吸とポーズと視線に意識を向けますよね。そのとき実にいろんなことが起こります。練習中は通常の呼吸をしていません。呼吸は通常の呼吸よりも長くなっています。通常なら二回呼吸するところを、アーサナをしているときは一回になります。そのようにしてプラーナを伸長したのです。すると寿命も伸びます。寿命は呼吸の数によって決まります。呼吸を伸ばせば、寿命も増えるのです。

あんまりたくさん「なぜ?」を並べると、答えは得られませんね。足の親指をつかむときはこうやるか、あるいはこうやることです。そうやるとエネルギーが流れるからです。それは自然に生じます。




★短縮バージョンの練習法


質問者:自分の練習をフルで出来ないときがありますよね。その場合、一日快適でいられるためには、最低どのくらいの時間アーサナの練習をすればいいですか。

シャラート:30分、または40分ほどでよいでしょう。そのくらいの時間アーサナをやると体に良いです。一日中快適な気分でいられます。しかし、ヨーガは24時間続けるべきです。ずっと以前のことですが、ある人が私に「あなたはヨーガの練習を何時間やりますか?」と質問しました。私は「24時間です」と言いました。すると彼はこう言ったんです。「24時間ですって? どうやったら24時間も練習できるんです?」と。人はアーサナがすべてだと思っています。アーサナだけがヨーガであると。アーサナを練習していればヨーガをしていることになると人は考えます。しかし、アーサナの練習は3時間ですが、ヨーガの練習は24時間なのです。

毎日早朝のBrahma muhrta(訳者注:新鮮なプラーナに満ちた特別な時間帯)に練習すると非常に効果的です。一日中快適で、新鮮な気分でいられます。練習後はエネルギーに満ちた状態になります。その感覚はすぐに感じられるでしょう。

では、もう一つくらい質問を受けましょう。




★ポーズ中に起こるめまいへの対策 → 二人の医者がいると患者は死ぬ


質問者:今日もそうだったのですが、スタンディングで深い前屈をして、そこから起き上がるときに、めまいがしたり、バランスを崩したりするのです。ヴィンヤサと呼吸はちゃんと守っているのですが。めまいが起きないようにするためのテクニックがあるのでしょうか? 私が見過ごしている内的なテクニックといったものが?

シャラート:前屈から起き上がるときに、急に起き上がってしまうと、血液が勢いよく流れます。血液が反対側にどっと流れるのです。前屈するときもそうです。上体を倒すのが速すぎると、血液が脳へ殺到します。なので、起き上がるとき、前屈するときには注意深くやらなければなりません。特に血圧の高い人は要注意です。

ゆっくり前屈しましょう。そして深く呼吸しましょう。それから起き上がります。ヴィンヤサを守ることがとても大切です。上体を倒すときは吐く。起き上がるときは吸う。そのサイクルが上手くいかないとき、それが正しく行なわれないとき、めまいが起こります。ゆっくり起き上がる。ゆっくり倒す。呼吸に集中する。起き上がるときも、吸う−吐くのサイクルに従いましょう。

最近まで、医者たちは「高血圧の人はアーサナをやってはいけません、体に良くありません」と言ったものでした。今では医者たちはこう言います。「アーサナをおやりなさい」と。20年前のことです。何人かの生徒がマイソールの私たちのシャラにやってきました。ある者は体に痛みがあり、ある者は発熱しており、そして他の者も何らかの疾患を持っていました。彼らは医者のところへ行きました。その医者は言いました。「君たち、マイソールのパタビジョイスのところで練習しているんだって? まったく、ヨーガには困ったもんだ。練習はやめておきなさい。体に良くない」と。今では医者たちはヨーガは体に良いと言っています。今では彼らは処方箋にこう書きます。「シャラートのところへ行きなさい」。

ロバート・モーゼス:一人の医者が診察する。二人の医者が処方箋を書く。三人の医者が火葬する。

シャラート:その通りです。私の祖父は常々こう言っていました。Vaidya dvaiyam, rogi nipadahetu。「二人の医者は一人の患者を殺すだろう」という意味です。一人の医者が診察する。二人の医者が処方箋を書く。三人の医者が火葬する。仮にあなたが体に何らかの不調を抱えているとします。一人の医者が処方箋を書きます。「この錠剤を飲みなさい」。あなたは別の医者のところへ行きます。彼はその処方箋を見てこう言います。「あなたにこんな薬は必要ありません。そのお医者さんは藪ですね。私のところに通いなさい」と。それで彼はあなたに別の処方箋を書いてくれます。あなたは混乱します。患者は惑います。どうすればよいかわかりません。こっち薬を飲めばよいのか、それともあっちの薬なのか。結局、彼は両方の薬を飲みます。やがて彼は死んでしまうでしょう。

グルジ、つまり私の祖父はこう言っていました。「二人の医者がいると、患者は死ぬ」と。ヨーガのグルに関しても同じことが言えます。こっちのグルのところへ行けばこう言われ、別のグルのところへ行けば別のことを言われるでしょう。もし、あなたがたがフェイスブックをやっているなら――私はやったことがないし、フェイスブックの中にアカウントも持っていませんが――生徒たちがこんなことを言っているのをよく耳にしますよね。「この人いい位置につけてるねえ」。その「いい位置」から、その人は言います。「ボクはこの先生のとこにも、この先生のとこにも、この先生のとこにも行ったことがあるんだ」。こんなふうにして、彼は15人の先生を持ちました。クレイジーですね。この人は自分が何をやっているのか、何を教わっているのか、わかっていないのです。

だからインドでは、人は通常一人のグルにつきます。一つの系統に従います。あなたが良いと感じる系統があれば、その系統に従いなさい。皆さんはこんな広告を見たことがあるでしょう。あるいは、様々なサイトにベタベタ貼り付けられた大きいバナーを。そこにはこう書いてあります。「すべて教えます。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマーディ。15日間インストラクター養成コース」。なんと、15日間の養成コースで、サマーディまで連れて行ってくれるんですよ。もはや“何をか言わんや”ですね。おまけに公式教授資格(サーティファイド)までいただいて、今やあなたはサマーディです。200時間とか500時間で、あなたはサーダナ(修習)せずとも、サマーディに達することができるんです。そんなことがやりたいですか? それをやった後で、あなたは悟るでしょう。「ああ、これは単にお金のためだったのだ」と。




★サレンダーするとはどういうことなのか


質問者:あなたは先生に自分を明け渡す(サレンダーする)ことが必要だとおっしゃいます。しかし、サレンダーすることに二の足を踏む人もいます。それはなぜだと思いますか。

シャラート:人格的に問題があるのでしょう(笑)。でも、文化の違いということもありますね。皆さんはそれぞれ違った仕方で育てられてきました。私もまた違った仕方で育てられました。子どもの頃から、私はスピリチュアリティについて聞かされてきました。グル・パラムパラをはじめ、すべてのことについて。インドでは、人は皆、生まれたときからスピリチュアルな生活をおくるのです。

私たちは幼少期からごく短いチャント(聖句)を教えられ、家族にとってグルがいかに大切な存在かを教えられます。ご存知のように、インドではどの家族にもグルがいます。ファミリー・グルといいます。家族は何をするにもグルの助言を受けます。例えば、プジャをしたいと思ったら、まずグルのところへ行く。こういう習慣は西洋文化にはないでしょう。皆さんは今ようやくグルの何たるかを知り始めたところです。皆さんは親からこう教わったでしょう。「誰にもサレンダー(屈服)してはいけない。相手が誰であれ、立ち上がって、闘うのだ」と。皆さんにとっては、サレンダーは異なる意味を持っています。誰かに屈服させられ、打ちのめされること、それがサレンダーですね。もしあなたが誰かを叩きのめしたなら、あなたはその人をサレンダーしたということになる。このように、サレンダーはいろんな意味を持っています。

けれども、もし知識を学びたいと欲するなら、グルにサレンダーしなければなりません。サレンダーとは、心からという意味です。Kayam manasa vacha、体、心、発語、のすべてにおいてという意味です。あなたの心がグルの語ることに注意を向けていなかったら、あなたは多くの事柄を聞き逃がすでしょう。サレンダーとは、感覚を用いる、感覚を明け渡すということです。グルの言うことをつかみなさい。グルが語るとき、とても注意深く聴いている生徒はグルの言うことをつかむでしょう。そして、スワディヤーヤを通して、つまり自分個人の練習を通して、その知識を磨き上げるでしょう。その知識はまるごと彼の中で成長するでしょう。しかし、生徒が注意深くなく、聴講に行ってもただ時間をやり過ごし、先生のジョークを面白がっているだけならば、聴講に行った帰りにはもう、先生が何を言っていたのか、すっかり忘れているでしょう。その人は娯楽のために行ったのです。ただそれだけ。暇つぶしですね。あるいは、人が大勢いるので、噂話をするにはもってこいの場所だったからでしょうか。

スピリチュアルなサットサンガが行われるとき、グルはあなたに何かを説くでしょう。もしあなたの注意がどこか他のところへ逸れていたら、あなたはグルの言うことを聴いていないということです。あなたはグルに自分を明け渡していません。グルの言うことをつかんでいません。インドにはこんな小話があります。ラーマーヤナに関連する話です。ラーマーヤナとは、ラーマについての物語を記した巨大な叙事詩です。さて、ある男が毎晩ラーマとシータ、その他あらゆることを生徒たちに説いて聞かせました。朝早く、5時になって、一人の生徒が目を覚ましました。彼は一晩中先生のそばに座っていたのですが、起きてこう言いました。「ラーマとシータの関係って、どういうのでしたっけ?」。彼はそこに座っていました。が、注意深く聴いてはいませんでした。眠っていたのです。翌朝になって彼は尋ねました。「ラーマとシータの関係は?」と。

自分を明け渡すことに二の足を踏む人もいます。彼らはもしサレンダーしたら何かが起きてしまうと思うのでしょう。

でも、ここは聖地中の聖地です。いったい幾世代に渡って、この地の歴史が続いてきたことでしょう。ここには強いバイブレーションがあります。すごくポジティブなエネルギーに満ちています。そうなっているのは、あらゆるスワミ(出家者)たちがグルに自分を明け渡し、自身のサーダナ(修習)を行なってきたからです。もしそうでなければ、これほどのエネルギーに満ちてはいなかったでしょう。ウッタラカシは特別な場所です。これまでじつに数多くのヨーギがここでたくさんのサーダナを行なってきました。だからこそ、特別な場所になっているのです。

これで満足ですか? OKですね。どうもありがとう。

では、また明日会いましょう。

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2016/10/4

シャラートのことば(♯1)  

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シャラートは2015年10月にヒマラヤのウッタラカシでヨーガ・リトリートを行ないました。このリトリートは、エディ・スターンとロバート・モーゼスによって設立された組織「ナマルーパ」が主催したものです。この組織は「ナマルーパ・ヤートラ」と名づけられたインド聖地への巡礼の旅(ヤートラ)を企画し、実行してきましたが、今回はシャラートを特別講師として招いたというわけです。

さて、このリトリート中にシャラートは三日連続のカンファレンスを行ない、アシュターンガ・ヨーガのプラクティスに関する重要なメッセージを生徒たちに伝えました。その内容がナマルーパの機関誌に紹介されていましたので、翻訳してみなさんに紹介します。

カンファレンス初日のテーマは「パランパラ」。ウッタラカシはクリシュナマチャリヤゆかりの地。アシュターンガ・ヨーガの由来について語るには絶好の場所です。講演の冒頭部分では、このヒマラヤの聖地を初めて訪れたシャラートの精神的な高揚感が伝わってきます。




パラマグル、R.シャラート・ジョイス

北インド、ヒマラヤ、ウッタラカシ、タポヴァン・クティにおけるカンファレンス

〈初日〉

Om ajunana timirandhasya jnananjana
shalakhaya chakshurunmilitam yena
tasmai sri gurave namah

これは私にとって初のウッタラカンドです。ここに来たのは今回が最初なんです。皆さんの多くにとってもそうでしょう。インドのこの地方は非常に特別な場所ですね。ヒンドゥ教徒にとっては聖地であり、人々は山ほどの儀式をするためにここを訪れます。これまで数多くの聖者、サドゥ(修行者)、ヨーギたちがここへ来て、たくさんのタパス(苦行)を行ないました。そのためにここはすごく特別な場所になっているんです。とりわけヨーガの練習生にとっては特別な場所です。

ご存知の通り、私たちが練習しているのはアシュターンガ・ヨーガですが、それの由来もインドのこの地方にあるのです。クリシュナマチャリヤはこの地域を訪れ、ここでラーマ・モハン・ブラマチャリと呼ばれるヨーギを見つけました。ラーマ・モハン・ブラマチャリはかつてこの地域のどこかに住んでいました。しかし、今はその場所を誰も知りません。彼のことについてはクリシュナマチャリヤに聞くしかありませんが、私はそれを私の祖父、シュリ・K・パタビジョイスから聞きました。私たちが行っているこのプラクティスは古くから伝わるものです。それは「パランパラ」によって、「グル−シスヤ」のパランパラによって、つまり師(グル)から弟子(シスヤ)へと、伝えられてきたものです。一人の生徒が先生になると、今度は彼がグルとなり、その知識を彼の生徒たちに伝えます。このようにヨーガの知識は世代から世代へと受け渡されてきました。その知識を私たちはアシュターンガ・ヨーガという形で手にしていますが、それはおそらく300年前から伝えられてきたもので、いったいどれだけ多くの世代に渡ってこの知識が受け継がれてきたのかは不明です。

クリシュナマチャリヤがこの地を訪れたとき、彼はすでに立派なサンスクリット学者でした。彼は多くのヴェーダを研究し、8つの学位を持っていました。1つの学位を取るのにも12年はかかります。彼が持っていた学位は8つです。1つ1つの学位を取るのに12年ずつかけたわけではありません。1つの学位を取ればもう1つを取るのはより容易になります。そのようにして彼は8つの学位を取りました。そして今度は実践の経験を積みたいと思いました。すでにあらゆる書物の知識を持ち、理論を知っていましたが、彼はさらに実践経験を欲したのです。なぜなら、実践経験なくしては、ヨーガの何たるかを知ることはできないからです。ヨーガは自己内部の経験です。誰でも本を読んで「ヨーガとは心の動きを死滅させることである」と言うことはできるでしょう。しかし、どのようにしてそれを経験するのでしょうか。グルの教えを通してのみ、それはやって来ます。練達の師(マスター)だけが、どうやってその経験をしたらよいのかを教えることができます。それができるのは練達の師だけです。だから彼は練達の師を探しました。彼にすべての技術を教え込み、ヨーガについてより明晰な理解を得させてくれるような師を。彼はグルを捜しに行きました。すると、ある人が彼に、ラーマ・モハン・ブラマチャリに会いに行けと教えてくれました。「お前を教えられるのは彼だけだ」と。それで彼は行って、その人を見つけました。ラーマ・モハン・ブラマチャリは彼と話そうとはしませんでした。クリシュナマチャリヤが真面目な生徒であるかどうかを確かめたかったのです。今日では、例えばマイソールのシャラでも、あなたは申込書を作って提出しさえすれば、まず受け入れられるでしょう。しかし、当時は申込書なんてありません。グルがあなたを受け入れてくれた場合だけ、あなたはグルの教えを受けることができるのです。ラーマ・モハン・ブラマチャリはクリシュナマチャリヤに言いました。「ダメだ。帰りなさい。お前には学ぶことなどできはしない」と。しかし、クリシュナマチャリヤはとても意志堅固な人でした。彼は二日間そこに座ってみせると言いました。二日後にラーマ・モハン・ブラマチャリはやって来て、ようやく彼に話しかけました。クリシュナマチャリヤはサンスクリットで受け答えしました。ラーマ・モハン・ブラマチャリは感銘を受けました。彼はクリシュナマチャリヤに「お前はどのくらい長くここに居続けることができるか?」と訊ねました。クリシュナマチャリヤは答えました「先生がおっしゃるだけの間、私はここに居続けましょう。永遠にと言われれば、そういたします」と。彼は8年間ラーマ・モハン・ブラマチャリに師事しました。そんなわけで、このアシュターンガのメソッドはクリシュナマチャリヤのおかげで伝えられたのです。もし彼の存在がなかったら、このメソッドは私たちのもとになく、私たちがこのプラクティスを享受することはなかったでしょう。

さて、どうして「アシュターンガ・ヨーガ」と言うのでしょうか。皆さん全員が知っている通り、それは8つのステップを意味します。「ヤマ」「ニヤマ」「アーサナ」「プラーナーヤーマ」「プラティヤーハーラ」「ダーラナ」「ディヤーナ」「サマーディ」。これらは8つの枝(limbs)、ないしはステップです。しかし、教典(シャーストラ)にはこうあります。まずはアーサナをせよ(ヤマ、ニヤマの前に)と。

Hathasya pratamangatvadasanam purvamuchyate
kuryattadasanam sthairyamarogyam changalaghavam
(Hatayoga Pradipika, 1.16)

*訳者注:原文には1.16とあるが、これは1.17の間違いではないかと思われる。ちなみに、1.17の経文を佐保田先生はこう訳されている。
「アーサナはハタ・ヨーガの第一部門であるから、最初に説くことにする。身心の強健と無病、手足の軽快等を得るためには、アーサナを行なうのがよい。」


まず最初に体を安定させ、心を安定させなければなりません。より高い次元にある他の枝に進めるのはそれからです。体が安定し、心が安定していなければ、どうやってプラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマーディについて考えることができるでしょう。できるはずがありません。体と心に安定性をもたらすために、まずはアーサナをやらねばならないということなのです。その場合、アーサナは呼吸のテクニックを伴って行ないます。私たちが行なっている「ヴィンヤサ・クラマ」と呼ばれるものです(訳者注:「クラマ」とは「順番」という意味)。

この点がとても重要です。ヴィンヤサ・クラマを行なうと、体が全体的に純化され、すべての内的組織が純化され、より強靭になります。体は安定し、心もより集中した状態になります。心の集中のためには「ドリシュティ」(訳者注:視線を定められた一点に固定すること)を用います。アーサナをとっているあいだ、特定の場所に視線を定めなければなりません。そのことによって集中が高まります。アーサナをマスターしたら、やっと他の枝に進むことができます。これこそがクリシュナマチャリヤが教示したアシュターンガ・ヨーガのメソッドです。後に彼はそのメソッドをグルジ(パタビジョイス)に手渡しました。グルジは彼のグルの教えを受け継ぐ者。これがパランパラということです。

ヤマ、ニヤマを欠けば、アシュターンガ・ヨーガは十全なものになりません。なので、私たちはヤマ、ニヤマについて考えなければなりません。「アヒムサ」「サティヤ」「アスティーヤ」「ブラフマチャリヤ」「アパリグラハ」「シャウチャ」「サントーシャ」「タパス」「スワディヤーヤ」「イシュヴァラプラニダーナ」。これについては別の日に議論しましょう。今日はこのプラクティスの由来――皆さんの多くはすでにご存知のことでしたね――について少し話しました。

それでは皆さん、来てくださってありがとう。ロバートとエディにお礼を言います。去年の九月、エディが私に言ったんです。「ナマルーパ・ヤートラ」という企画があって、そのヤートラ(巡礼の旅)では4〜5日間のヨーガ・クラスを行なうことができます。そういうことを私たちはやるべきじゃないですかと。私は今までここへ来たことがありませんでしたから、この地で小規模のクラスを持てることは、とても素晴らしい機会でした。

これから四日のあいだ、私たちは何度も顔を合わせるでしょう。では、練習を続けましょう(Keep practicing)。

では、また明日。

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2016/3/9

マサラ・ヨガ  

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 今年2月にコンドルズのアジアツアーでシンガポールを訪れたとき、僕はThe Yoga Shala"という現地のスタジオのマイソールクラスに参加することができた。そのスタジオの入り口の掲示板には、とても興味深い記事のコピーが貼ってあった。

 その記事はアシュタンガ・ヨガの練習の原則を丁寧に説明し、僕に日ごろの練習の意味を再確認させてくれるものだった。初めて訪れた異国のスタジオで、偶然にも、こんな天啓のような文章出会えたことを有り難いと思い、それを忘れないために記事を写真に写し取り、帰国してから日本語に訳してみた。

 自分の練習のあり方やその意味について、僕と同じように、時には迷ったり悩んだりすることもある人にとって参考になる文章だと思う。時間があれば読んでみてほしい。

 翻訳を終えて、改めてこの記事を書いたJean Byrneという人物についてネットで調べてみた。この人は女性で、アシュタンガ・ヨガのオーソライズド・ティーチャー(Level 2)で、オーストラリアのパースに自分のヨガスタジオを持ち、そこで多くの生徒を指導している。この文章は彼女が経営するスタジオ“The Yoga space”のホームページ内のブログとして、つい最近、書かれたものである(2016年2月8日付の記事)。原文を読みたい方はそちらを参照されたい。

http://www.yogaspace.com.au/



マサラ・ヨガ:混合なのか、混乱なのか?


Jean Byrne

インドではあらゆるものがごった混ぜの「マサラ」(食物の風味を高めるためのスパイス・ミックス)になってしまいます。しかし、ヨガの伝統に関してはそれほど「マサラ」的ではありません。そこにあるのは、むしろ逆の状態、「パランパラ」なのです。

「パランパラ」とは、先生から弟子へと、世代を越えて、直接的に知識が受け渡されることです。西洋でヨガがブームとなるにつれて「パランパラ」は失われてゆき、「マサラ」へとなびく気分が恒常的に存在しています。ヨガ教師たちは、伝統とのつながりに留まろうと望みつつも、つねにより良いものを探し求め、世界で最も尊敬を集めるヨガのグルたちの教えを基に、そこから「マサラ」を創り出しています。革新や創造性という美名の下、そういうことをしても何ら問題はないとみなされます。グルたちの教えに別の新しい名称をつけてもよい。その教えを魅惑的なものに作り変えてもよい。どうせ大した混乱は生まれないだろう、と。たしかに、創造性を発揮するための余地は生活のあらゆる面に見出すことができます。しかし、現実に起きていること、私たちが目にする光景は、次のようなものです。ヨガ教師たちはある種のヨガのスタイルの知名度と評判をちゃっかり利用し、それらを混ぜ合わせた「マサラ」(混合物)を創り出しておいて、しかもこの「マサラ」を新しいものとは呼ばないのです。そもそもこれらのヨガ体系を教えるための正式資格を持ってもいない教師たちには理解できないのでしょう。彼らは自分なりの「マサラ」を創ることによって、自分が混ぜ合わせている伝統の最も大切な部分から逸脱してしまっているということを。

最もよくあるのは、アシュタンガ・ヨガとアイアンガー・ヨガの混ぜ合わせです。

パタビジョイス(私にとってのヨガの師)の業績は、アシュタンガ・ヨガを普及させたことです。他方、アイガンガー氏は、世界で最も影響力を持つヨガスタイルの一つ、アイアンガー・ヨガを創始しました。二人ともクリシュナマチャリヤの弟子ですが、彼らが教えたのはかなり違った形式のヨガでした。どうしてそんなことになったのでしょうか。おそらく多くの人が述べているように、クリシュナマチャリヤは資質の異なる二人の弟子に対し、異なる指導を施し、異なる知識の宝石を与えたのでしょう。彼はビンヤサの技法をジョイスに分け与え、それがアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガの品質保証印(特徴)となりました。アイアンガー氏も若い頃にはビンヤサ・システムを練習していましたが(youtubeで見ることができます!)、彼は師の下を離れた後、数十年かけて、自分自身の練習法および教授法の体系を、私たちが現在アイアンガー・ヨガとして知っている形へと磨き上げていきました。

どちらの体系も有効に作用します。私はそれを実際に見てきました。どちらの体系においても、教師となる者は長い歳月を費やして練習します。彼らは単なる「200時間研修」の卒業生ではありません。アイアンガーとアシュタンガの体系は、彼らにとって生涯をかけて練習するものなのです。

しかし、今日私たちが目にするのは、あまりに多くの人々がそれらの体系を混ぜ合わせている光景です。誰もそんなことは頼んでいないのに。

アイアンガー・ヨガは高度な技術を要するヨガであり、教師となる者は非常によく訓練されています。アイアンガー・ヨガの伝統の中で教師となるには、身体とその動きのパターンについて何年にも渡って研究しなければなりません。アシュタンガの教師となれる者(つまり、マイソールのKPJAYIによって正式資格を与えられた教師)は、熱心にインドのマイソールまで旅をし、そこでビンヤサ・システムの練習に自分の魂と体と心のすべてを投じます。そうして彼らは、アシュタンガ・ヨガの本質は単なるビンヤサ・システムではなく、その核心においては、バクティ的な練習(献身的な練習)であることを理解するのです。

二つの体系を混ぜ合わせるならば、私たちはアイアンガーとジョイスが何十年にも渡る研鑽を通して見出したヨガの豊かな成果を経験することはできません。その代わりに私たちが得るものは体系の雑多な寄せ集めであり、結局は(最初はそうでなくても)自分の生徒を混乱に陥れてしまうでしょう。

私にとっては、アシュタンガ・ヨガが心の中心を占める練習法です。この練習法の美しさは、それが静寂の内に行なわれること、そしてアライメントが「内的」なものだということにあります。呼吸と動きとドリシュティをそろえる(アラインする)という意味においてアライメントは「内的」なのです。アシュタンガの体系の中で、外的なアライメントに注意を向けると、体の姿勢はこうあるべき、このポーズの取り方はこうでなければ、といった自己流の考えを身体に押しつけることになります。現実には、ポーズの取り方は人によってそれぞれ違ってくるはずです。

今日、ヨガ指導の場面で問題となるのは、ヨガ教師たちがアライメントや解剖学や体の機能に関して自分が豊富な知識を持っていると信じ込んでいることです。それは自信過剰というものでしょう。解剖学や理学療法の学位を取得した人ならいざ知らず、そうでなければ、私たちは表面的な知識を弄んでいるにすぎません。厳密な学術研究を通した深い知識が欠けているために、教師たちは過度に単純化されたアライメントに関するヒントを生徒に与え、ポーズをとる際にこれが正しいやり方でこれは間違ったやり方だなどと、決めつけるような言い方をしてしまうのです。

アライメントに焦点を当てる考え方は、しばしばアイアンガー・ヨガを典拠にしてそこから導き出されたものだと主張されます。たしかにアイアンガー・ヨガはアライメントを大事にします。しかし、アイアンガー・ヨガで教えられるアライメントは(私が経験したかぎりでは)、深い意味において「経験主義的」なものです。アイガンガー・ヨガを練習する生徒たちは、ポーズを保持し、動きを行なう中で、自分の身体とその動きに関する〈経験〉の内部へとより深く集中していくように促されます。そこでは過度に単純化されたアライメントに関するヒントなど必要ありません。なぜなら、アイアンガー・ヨガの教師になる人たちは、ひたむきで、しっかりした指導の下での研究を、自己自身を教師としながら何年も続けていくからです。

アシュタンガ・ヨガでは解剖学に注意を傾けることはまずありません。私は教師として、人生の様々な段階、様々な状況にある人々を教えていますが、ヨガの練習の範囲内では、彼らに対してどうやって自分のやり方を上手く調節し、働きかけていけばよいのかが分かります。そういう知識は指導経験を積み重ねることで得られるものです。ほとんどの場合、私は生徒にあるポーズの取り方を強制することはありません。それよりも私が嬉しいと感じるのは、生徒があるポーズに取り組み、その人自身の適切な時期にそのポーズを理解してくれることです。ヨガは「本質的に危険」なものではありません。生徒は〈経験〉を通して学ぶ能力を持っています。もし私たちヨガ教師が、ほんの数回参加しただけの解剖学ワークショップやアイアンガーのクラスで仕入れた「アライメント」に関する貧弱な知識を振り回し、生徒の身体を無理矢理しかるべきかたちへと修正するようなことをすれば、私たちは生徒から一つのヨガの体系を十全に経験する機会を奪ってしまうことになるでしょう。

私に言わせれば、そうしたことはすべて信頼の欠落の表われです。私はアシュタンガの体系を信頼しています。私はその体系が有効であることを知っています。私は私の師であるシャラート・ジョイスを信頼しています。そこにあるのは「バクティ」です。「バクティ」とは、練習に自分を捧げること、この素晴らしいヨガの伝統を伝えてくれたグルジとシャラートに自分を捧げることです。私はこの伝統が有効であることを疑いません。それゆえ、西洋的な運動還元主義という被せ物を、私の指導のやり方に付け加える必要を認めないのです。解剖学と肉体のアライメントに集中し続けるとき、私たちはいつも動きの中にあることの〈経験〉から疎外されてしまいます。二元性が入り込み、私たちは身体をまだ準備ができていない状態にまで持っていこうとします。そうなると怪我をする可能性が出てきます。それだけでなく、自己への愛、すなわち今の自分の状態を受け入れる心を失ってしまいます。つまりは、信頼というものが欠落するのです。

本来、アイアンガーとアシュタンガは混ぜ合わせるものではありません。グルジならば、「先生が多すぎると混乱する」と言うでしょう。資格のある先生の下で一つの体系に取り組み、それを忠実にやり通し、深いところまで進みなさい。幸いなことに、ジータ&プラシャント・アイアンガー、そしてシャラート・ジョイスの指導を通して、私たちは今でもアシュタンガ・ヨガのような体系的ヨガの十全なる豊饒さを発見することができます。私たちは今でもこれらの指導者たちから学ぶことができるのです。これらのシステムを正しく学ぶのに遅すぎるということはありません! 先生を見つけ、熱心に研究し、そしてインドへ(プネーでも、マイソールでもよいから)行きなさい。私たちはこれまで何度となく見てきました。マイソールへ行こうと思った人が、わざわざ源泉から学ぶ必要はないと言われたりして、その気持ちをくじかれてしまうのを。でも結局、その人は十年後にマイソールへ行きます。そして自身がアシュタンガ・ヨガのパランパラ(伝統)の一部となった途端にすべてが一変します。かつてためらいを覚えていた人が、マイソールでの経験に高い価値があることを認めるようになります。別の人は、これまで自分が取り逃がしてきたものは何だったのか、ヨガの先生が自分を〈経験すること〉から遠ざけてきた知られざる理由が何だったのかをはっきりと理解します。さらに言うと、マイソールであれプネーであれ、源泉へと赴くことは、今日まで伝えられてきた練習に対して心からの感謝を表わす行為なのです。感謝することで、私たちは人として豊かになることができます。だから自己よりも大いなるものに自己を明け渡しなさい。謙虚でありなさい。一つのヨガ体系を信頼して練習しなさい。そのときに奇跡は起こるでしょう。

ナマステ




*訳者注記
@本文第二段落の「先生から生徒へ」の部分は、原文では「生徒から先生へ」になっていたが、それでは意味が通じないので、訳者の判断で直した。

A本文最後の段落に出てくる「ジータ&プルシャント・アイアンガー」は、BKSアイアンガーの娘と息子。二人は師である父の教えを受け継ぎ、その教えを後の世代に伝えている。


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