◆教育勅語の「これを中外に施してもとらず」とは?
皇室について誠実な意見発表を続けている斎藤吉久さんのサイトに、佐藤雉鳴氏の主張をひいて、次のようにあります。
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ところが、「これを中外に施してもとらず」という教育勅語の言葉は、誤用どころか、たいていは「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきたのでした。
佐藤氏によれば、「中外」は「皇室と国民」という意味のはずなのに、『勅語衍義(えんぎ)』(井上哲治郎。明治24年)以来、草案作成者の意図が伝わらず、ことごとく誤解され続けてきたというのです。
だとすると、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと、まるでキリスト教の亜流のように、「国家神道」なるものをアメリカが誤解したことを、笑ってすませることはできないことになります。
日本人自身が教育勅語を誤解し続けていることになるからです。それはすなわち、日本人が近代化の結果として、日本の宗教伝統や天皇という存在について、正しい理解を失っているということです。アメリカ人がキリスト教の色眼鏡で日本を見ているというより、日本人がキリスト教化しているからです。
佐藤氏の論考が「人形町サロン」の研究ノートで公開されていますので、ご関心のある方はぜひご一読ください。
http://www.japancm.com/sekitei/note/2007/note39.html
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じつはオロモルフも、教育勅語の現代訳を自分なりにつくろうとしたとき、この言葉の翻訳に悩みました。
ですから、「皇室と国民」という解釈には同感したくなります。
しかし、教育勅語が発布された直後から「日本でも外国でも」――という解釈の本がたくさん出ており、それに対して政府も宮内庁も関係者も抗議していないのですから、簡単に「ああそうか」とも言えません。
私の持っている明治から昭和にかけての何冊かの本を読み比べますと、はじめのうちは「日本にいる日本人も外国に行った日本人も」というニュアンスだったのが、昭和に入って「日本人も外国人も」というニュアンスに移行しているようにも思えます。