阿津賀志山防塁跡(福島県国見町石母田〜西大枝)は、福島盆地の北端に位置する「阿津賀志山」の山腹を始点に阿武隈川旧河道に至る全長約3kmの国史跡指定の防塁跡である。
阿津賀志山の麓は、古代の東山道、中世の奥の大道、近世の奥州街道が通る交通の要地であったが、今でも東北本線、東北自動車道、国道4号線が通り交通の要地であることには変わりがない。
阿津賀志山防塁は阿武隈川の支流滑川に沿うように築かれていて、発掘調査により、幅11.2〜13m、深さ1〜3mの二重堀とそれと平行する三重の土塁からなる構造であったことがわかっている。
福島大学名誉教授故小林清治氏によると、防塁の築造には延べ約40万人が必要で、周辺の伊達、信夫、刈田の三郡から5千人を駆り出したとしても80日はかかる計算とのこと。
文治五年(1189)八月八日、奥州藤原氏の軍勢と源頼朝の軍勢が、ここ阿津賀志山防塁を挟んで激戦を繰り広げた。
源頼朝軍は国見宿(福島県国見町藤田)の現在「源宗山」として名前が残る丘に本陣を置いたという。
一方、奥州藤原軍は四代当主藤原泰衡の異母兄西木戸国衡を守将として阿津賀志山防塁の北方大木戸付近に本陣を置き、阿津賀志山防塁には金剛別当秀綱を配した。
総大将藤原泰衡自身は後方の国分原鞭楯(宮城県仙台市榴岡)に陣を構えたという。
戦闘開始から4時間、源頼朝軍の攻撃に抗することが出来なくなった金剛別当秀綱は本陣大木戸へと退く。
阿津賀志山防塁の陥落によって、翌々日には大木戸の守将西木戸国衡ばかりか、国分原鞭楯に陣を構えた総大将藤原泰衡までもが北へと敗走した。
西木戸国衡は柴田郡大高山(宮城県大河原市)で討ち取られ、藤原泰衡は平泉の屋形に自ら火を放ち、出羽国(秋田県)の郎党河田次郎を頼って落ちるが、河田次郎に裏切られ討たれたという。
また「義経の腰掛松」と呼ばれる老木が阿津賀志山の麓の国見町石母田にあり、若き日の源義経が奥州平泉へ下る際に腰掛けた松と言われていて、国見町では毎年九月に「義経まつり」が開催されている。
ー以上、武者たちの舞台・上巻(福島民報社)よりー
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