さて、こんな一文がありました。
「事実、下手に仏壇をまつったり、お墓を作ったりすると、先祖供養の気持ちが無になってしまうばかりか、逆効果となって、命を落とす人すらいます。」
「先祖のご加護が100万人力、10億人力ならば、同時に怒りも100万人力、10億人力なのです。」
「ぜひ本書で、正しい先祖供養のやり方を学び取っていただきたいと思います。」
(大殺界の乗りきり方 細木数子 祥伝社)
これ申し訳無いですが、私に言わせれば嘘だと思います。
人間って一つの行為や、考え方に対して、
そんなにみんな満場一致で、
怒ったり喜んだりするわけでも、無いと思うのですよ。
100万人、10億人が供養や、祀り方についての行為で、
一致団結して、全員同じように反応するって、
私なら考えられません。
視点が10億もあったら、全部同じになるわけ無いです。
もしこのお話しが本当なら、まず
生きている10億人を前にして、
同じやり方、行為、行動で喜ばせたり、
怒らせたりが、可能だと言うように聞こえます。
もっと具体的に言うなら、
「この先祖供養のやり方が正しい!」の主張で、
10億人が同意・賛同してくれると、
言っているように聞こえます。
あっという間に世界は平和になれそうですが、
実際の世の中では、残念ながら、
いくらでもトラブル・行き違いは起こります。
良かれと思ってした行為も、
あまり喜んでもらえなかったり、
反対に、やりすぎたかなと思っても、
誰もが同じように、怒り狂うわけでも無いです。
現世の10億人相手でさえ、
同じ反応を10億倍なんてまず無理です。
まして先祖をどんどん遡っていけば、
時代も宗教観も、全然違う10億人です。
うちの父と母の二人でさえ、
先祖供養に対しての考えや行動は違います。
うちの先祖なら、十人集まらないうちから、
同じ行為について、ご加護するかしないか、
祟るか祟らないかについて、モメると思いますよ。
じゃあ何で、生きている人を差し置いてまで、
まずご先祖なんでしょう?
先祖供養のやり方が、正しいと断言できたり、
間違っていれば命を落とすと、なぜ言えるのでしょう?
もしこれが、生きている人への接し方なら、
違うと言う事なら、確かめられます。
「本の通りに接したのに、喜ばなかった、
お礼をくれなかった。」
でも亡くなられて、この世にいない方なら、
誰も違うとは言えません。
生きてる人は反論しても、ご先祖様はペラペラしゃべりません。
生きてる人に危害を加えられれば、証拠を見つける事は出来ても、
祟りじゃないと言う、証拠は無いです。
ご加護じゃないと言う、証拠も無いです。
誰かに感謝する事。
ありがとうの気持ちを持つ事、形に表す事。
こう言う事を悪いとは、もちろん思いません。
ただそれをことさら、亡くなられた人にだけ…で、
しかも実利実害が理由で、賞罰セットでおどかしながら、
「しないと命を落す。」「すれば加護がある。」
だからやりなさい。そしてそのための
「正しいやり方はこうだ。」
つまり、気持ちがあっても、
やり方で気に入らなければ、
祟ったり命をとられるわけですよね。そして
「正しいと称する、特定のやり方のみで」
ぼんぼん、ご加護をくれると。
なるほど、それなら自分にとっては
「効果」「逆効果」と言う感覚になるでしょうが、
私ならまったく納得いかないです。
私が先祖の立場なら、そう言う考え方はしないですから。
気持ちがあれば、それでうれしいですし、
祟りやご加護目当てでやられても、あまりうれしく無いですがな。
