テスコは問屋を通す昔からの販売網からメーカー直販網を打ち出した。
またベンチャーズブームに乗ったことと全国直販網拡大で一挙にビジネスは大きく展開した。
北は北海道から南は福岡まで10支店を一挙に開設し売上も一挙に伸びた。その時期に前述のMrTKは売上も伸びてきたので一度招待したいといって来た。確かに売上も伸びていたので、それに応じたところ
協和楽器大阪営業所の森之内所長と言う人物が同席した。
Mr TKは売上も伸びて来たので、この問屋さんとも仲良くして欲しいと言った。「解りました」と快く返事したが翌日からは、その問屋に対して独占販売権を与える意味だったことがわかった。
「この裏切り者」さすが松田社長は良く人物を見抜いていたなと思った。
その後この人物が業界内で色々画策して森岡の楽器業界での人生を妨害するとは夢にも思わなかった。テスコの業績は益々好調が続いた。松田社長はテスコ福岡支店を開設したとき現地まで飛行機で
飛んで来て「君達はすごい、君達のおかげで今のテスコは大変な力を持つことになった。
ところで現在埼玉県の上尾市に広大な土地を買収し新工場建設を企画している。
月産5000本の世界一のエレキギター生産を計画している。いよいよ君達と一緒に上場企業を目指して頑張ろう」等と激励してくれた。急成長のやまなかった数年であったので、その夢はかなえられると思った。
製品開発、全国の販売網確立、自分のエネルギーを最大限発揮出来る状況であった。
当時は一般人が持てないようなスーパーカーを個人で所有し養父の経済力に頼らず家庭を築き長女も生まれ幸福の絶頂であった。山之内本家敷地内に近代的な新築の家を計画した。
本来ならば製薬業を引き継がなくてはならないのに養父母は森岡の活躍に応援するようになってきた。
そしてその家を建築中に次女が誕生した。一方テスコの新本社工場建設が着工し松田社長は、森岡を度々現場に呼びこれだけの規模の工場を持つエレキギターメーカーは世界にないのだと誇らしげに語った。
そして当時の本社役員の3名に変わって次は森岡がナンバー2になるような発言をしだした。
確かに社内での実績は格段の差をつけて大きかったようだ。
しかし先輩の中には面白くない人もいた。これが日本の会社組織だ。一方エレキブームは当時流行のモンキーダンスと共に青少年を不良化すると教育委員会が発言したことと青少年がエレキ欲しさに窃盗事件を起こす
などの社会問題が発生した。そして1966年(昭和41年)全国の学校に対しエレキ禁止令が発動された。
急成長していたテスコは、その翌月から売上半減どころか0に近くなった。
本社の資金繰りは、たったの3ヶ月程度で逼迫して来た。急激な工場設備の投資、莫大な在庫と今までと打って変わった情勢になった。それまでは本社営業部の社員は、やり手の営業マンとは注文に対して如何に断りを
上手にこなすかが大切だと豪語していたのが、一挙に頼みまくって売らなくてはならなくなった。
テスコの崩壊は直ぐにやって来た。社内では常務取締役技術部長の松本氏が松田社長と意見の衝突があり橋本営業部長は、なすすべもなくなっていた。
しかし森岡の販売網のみは政策転換でエレキに頼らず管弦楽器その他あらゆるものを仕入れ販売する現在の総合楽器の取り扱いに営業方針を切り替え被害を少なくした。
松本氏は社長の考えを聞かず崩壊に備えて河合に出向きテスコの身売りを頼み込んだ。
しかし会社は売上が止まっても大変な黒字であった。まもなく一挙に営業が停止したテスコに対して過酷な判断をしたのがメインバンクの協和銀行であった。
松本氏は捨て身で倒産だけは避けたいと河合楽器本社と協和銀行に交渉に通う日々が続いた。
一方松田社長は森岡を本社に呼びこの会社の再建に取り組んで欲しいと懇願した。当然現在があるのは松田社長なので最後まで着いて行くことに決めた。
しかし、この状況を知った業界は森岡の行動を非常に注意しだした。某最大手の楽器メーカーは常務取締役Mr HKが自ら面会を求め当社に来たらそれなりの役職を与えるとの有り難い言葉まで頂いた。
その後この人物はその企業の社長の座についた。一方前述のMr TKも、この度上場会社のS商会のバックで大きな新工場を建設したので新築祝いに参加して欲しい。以前に裏切った時のことを忘れたように接近して
来た。新築パーティーに参加しただけで、その会社に移籍することに関しては拒否をした。
その年末には松本氏の交渉でテスコは河合の資本参加に入ることになった。
身の振り方を考える時期になった。