当時の河合電子オルガンの開発は本社で行っていただけで実際に生産するラインの早期設置は技術的に不可能であった。そこでハワイアンギターやアンプ等の電気楽器を生産しているテスコに目をつけ和泉課長と
共に訪問した。同時期にテスコも電子オルガンを作ろうとして発振回路の設計までは出来ていたがオルガンの仕様や形状をどうするかが不明で色々と模索している状況であった。その方面の知識があった森岡が加わることに
なったので開発は予定より急ピッチで進むことになった。連日テスコに通うことになりう4ヶ月でほぼ新製品の量産試作は完成した。そしてテスコは河合の電子オルガンの下請工場になっていった。
当時テスコの役員は松田社長、松本常務、橋本営業部長の三役で構成され技術は松本常務が担当していた。
この松本氏との出会いが、その後の森岡の電子楽器業界に参入の大きな原因となった。
当時の電子楽器開発者は高度の技術はあっても演奏が出来る者が業界にいなかった。
その点、両方出来るので技術者として先輩格の松本氏と組んだことによりテスコの電子オルガン、電子楽器の開発は急激に業界で頭角を表した。ここで松本氏のエピソードについて少し触れる事にする。
松本氏の技術が後半のベンチャーズにつながるハイパワーのアンプ設計に大いに役立ったからである。
彼の話では戦争中に旧日本軍の音響研究所で巨大な音のするアンプと録音機の開発に当たっていた。
戦車や大砲の音を録音して大音量で流し規模の大きな軍隊がいるよう敵を威嚇する作戦に使用したものである。今の時代では滑稽だが、当時としては真面目に考えていたようである。ゆえに楽器のアンプを作るときの出力を
上げるには相当の技術力があり、森岡の音質追求面との合作でギターアンプの性能はどんどん上がった。
こうなると河合から出向しているものの河合の社員かテスコの社員か解らなくなってしまった。
それだけでなく河合本社技術部に関係なく電子オルガンを開発したことにより本社の人間は生意気だと噂を耳にするようになった。大手企業ではよくある「出る杭は打たれる」である。
また事業部内でも目立つと同僚から良い目で見られない。ある日、和泉課長が君は電子楽器だけでなく全て知っているのでこの度大阪に商品事業部の出張所を作るから、そこの所長として行って欲しいと言われた。
森岡はあまり急な話であったが育った神戸に戻れるまた養母も帰って来るよう再三言われていたので電子オルガンの開発から離れる事になるが一つの仕事を終えた満足感もあり引き受けた。
そこで養父母に彼女の事を話し結婚の許しを得て一足先に関西に転勤する事にした。
養父の会社の社長室に報告に行った。養父は良い区切りだから薬の仕事に復帰してはどうなのかと切り出したが、折角管理職を与えられたので、もう少し頑張りたいと言うと、まあそれも経験かなと言ってくれた。
そして結婚相手は、どんな女性かと問われたので河合のカタログの表紙に載っていた彼女の写真を見せた。
養父は又青い目か?お前に余り相応しくないと言い出した。顔つきは外人みたいだが、純粋な日本人で家系も非常に良いと説得に当たった。一時間ぐらい色々と説得した結果、じゃあ結婚後は鈴蘭台の山之内の本宅の
離れに住むことを条件に許可してくれた。
それは自宅に引き戻しておかないと永遠に山之内には帰らないことを予測してのことだと思った。
河合に勤めて約一年経過し24才で大阪の出張所長とは異例の昇進であったが、それからは大阪支店の別の部門の管理職からは、とんでもないやっかみを買うことになり苦労をした。
ありもしない噂やデマに苦労し、半年を経過したある日テスコの松田社長が「元気にしていますか」と直接コンタクトを取ってきた。「またいっしょに仕事が出来たらね」と意味ありげであった。
その年末、養母に挨拶するため彼女は鈴蘭台を訪問した。養母も同じくまた外人さんと不機嫌な顔をしていたが同居人が増えることで非常に歓迎の意を表した。翌年4月東京にて実父母養父母そろって事業部長の藤牧氏の媒酌で
結婚式を挙げた。大阪支店に転勤してしまった為、社内の同僚に案内状を出すまでは誰も知らず全員二人のポーカーフェイスに呆れていた。その年の秋までに出張所の営業を立ち上げようと頑張ったが、前述の社内妨害で
あまりしっくり行かず年末に退職届を出し独立を考えた。年末近くになり神戸の三宮の夜の繁華街に楽器店によさそうな場所を見つけた。
しかし開業するには資金が要る。養父母にはそれはいえないので考えている最中に突然テスコの松田社長が神戸まで来られた。松田氏は退社したことをいち早く知り「何もかもほったらかして来たが、
今後どうするのか、噂では山之内の後継者だから楽器業界には帰ってこないだろうという噂も聞いているが
テスコにとっては君がどうしても必要だ」と言われた。森岡は既に店を持とうとしていると言って現場を見せたところ全額出資をしてあげるから必要資金を申し出なさいと言ってくれた。
但し、君は電子オルガンをテスコで生産出来るようにしたので既に業界では名が知れているので一年間は自分の資金でやっているような顔をしていて欲しいと言われた。そして神戸にミナト楽器が誕生した。
当時楽器の流通は全て地域の卸業者により行われていたが、ミナト楽器のみはテスコ製品は直接低価格で豊富に入り展示した。その上、当時どこの楽器店も修理が出来ないので長時間かけてメーカーに返送して作業をして
いたので不便であった。しかしミナトだけは短時間で完全な修理が可能と言う事で京都や姫路まで多くのお客様が殺到した。その頃から神戸でもテケテケとベンチャーズブームが巻き起こった。
そこでテスコの宣伝モニターバンドとしてチェックメーツとスペクトラムと言う2グループを結成させ宣伝活動に入った。この両バンドの名前はテスコの商品名であった。業界では急速にギターとアンプが品不足となり商品の
取り合いが始まった。しかし卸業者にあまり製品が回ってこないのにミナト楽器は豊富に製品が回転しているのはおかしいと業界が不思議に思いだし色々と噂になった。
そして1965年(昭和40年)のベンチャーズの大ブームで来日公演を迎えた。ところが関西公演に彼らは対抗馬のG社のアンプを使用していた。知人で関西で有名な興行師であった神戸新聞会館興行部長の畠山氏に
頼んで公演前に会場を訪問し、厚かましくも当時最大のアンプを持参し試奏をしてもらった。
こちらはG社の倍もある出力であった。そして直ぐにノーキー・エドワーズ氏のOKが出た。
それまでは若者達の間ではベンチャースが使用しているG社が一番だとの評判であったが、彼らがテスコに変更した途端やっぱG社は駄目なんだと言う評判が一挙に広まった。
そこでモニターの大切さをしみじみと感じた。この一件でミナト楽器はテスコ直結であることが露見してしまったがその頃には機が熟して、いよいよテスコ大阪支店を開設、森岡は若干26才で常務取締役に就任し、技術研究所
を芦屋と夙川の境付近に設立した。そして色々な電子電気楽器の開発に取り組みだした。
しかし、余りの品不足で連日本社に対して製品を供給してもらうため矢の催促をするのが、主な仕事になりかけていた。
ある日ある人物 MrTKが訪問して来た。彼は自分がギターアンプの試作を終え量産の用意が出来たので良ければテスコの流通経路に便乗販売させて欲しいと申し込んできた。直ちに試奏し初心者向けには大丈夫と
判断しOKを出した。これが、その後ACと言う会社に発展して行った。
しかしテスコ大阪支店が小売楽器店に直接卸し業務を開始した時には同業卸業者はサバイバル戦争を開始したので、業界の汚い面をいやと言うほど見せ付けられた。特に新しいものに対する老舗の嫌がらせには閉口した。
ある日松田社長からMrTKの個人調査をした結果、彼は数年前に大阪でK無線という会社を大型倒産させ最近まで港で沖仲士をしていた模様で、そのような人物と付き合うのは危険だと連絡して来た。
しかし彼は誠実そうに見え私の技術改良などの細かな注文も直ぐに応じてくれたので余り気にしてはいなかったが、その後ひどい目に合う結果になり、やはり松田社長はよく人を見ていたなと思った。
その苦い結果は一生忘れることが出来ない。
それはテスコはメーカーであるため仕入れ価格が低価格である。MrTK氏が持ち込んだ商品がテスコの販売網で知名度が上がってから他の卸業者の販売網に移行させて行く作戦だった。