楽器店に防音スタジオを併設する事は当時流行の先端だった若いエレキギター
音楽愛好家に大いに歓迎され店は連日の繁盛となった。
学校の授業が終わった午後は連日スタジオは予約で満杯になった。
エレキギターはスタジオのある店で買わないと予約が取りにくいとの噂が広がり売上も急激に伸びだした。
日本で初めての試みは他の同業楽器店は誰も気付いていなかった。
その上、電気楽器のリペア(修理)も店内で開始した。
当時はメーカーに送り返すため関西での修理に最低でも10日は掛かった。
それが当日又は翌日には修理完了になるので神戸のみならず京都、大阪、姫路のお客様まで販売と修理のエリアになった。
しかし関西でテスコ直営の小売店舗が繁盛すると妬みもあり楽器の卸商と小売業者が一斉に批判を開始した。
なにしろ卸商の取引高より売上が多くなると大阪の楽器卸組合まで問題になり総攻撃を受けた。
一方それに対抗する色々な手を考えた。
まずテスコ株式会社のブランドイメージを上げる方法としてテスコの電気楽器を啓蒙する為のデモストレーターを育成しようと考えた。
そして封建的な考え方の卸商の販売ルートを排除し関西にテスコの卸部門を併設することに決めた。
その時期に森岡の大学の後輩である栗山君と言う学生が4人グループで週に3日程度スタジオを利用していた。
彼らの練習は熱心であり徐々に楽器を揃えだしたのだが学生の身分で高額なアンプなどは買える状況ではなかった。
森岡は学生時代にまだ普及していなかったヤマハエレクトーンのデモ演奏を引き受けたことがありミュージシャンに高額な楽器を提供するメリットを知っていた。
そこで彼らにスタジオの使用料免除、全てのテスコ製品の無償提供と引き換えにデモストレーターとして特訓を受けイベント等に出演する約束を交わした。彼らは大いに喜んだ。
そして、テスコの高出力ギターアンプの商品名(チェックメイト25)を引用しバンド名をチェックメイツと命名した。
日本で初めてのベンチャーズスタイルのデモバンドの出現であった。
彼らは連日森岡から猛特訓を受け練習に明け暮れた。
目標はベンチャーズとの演奏技術の格差を無くすことである。
またステージに立つにはステージマナーも重要である。
デモバンドである以上はテクニックにおいても周りのアマチュアバンドの模範にならねばならない。
彼らは演奏の向上に若さをぶつけ全力投球した。
そしてプロバンドとして恥ずかしくない技量に仕上がった。
メンバーはリードギター栗山君(テリー)、サイドギター小泉君(チー坊)、ベース片岡君(リラ) ドラム、アベーラ君(カロ)であった。
いつのまにか4人はステージに立つと本物のベンチャーズの動きとそっくりな動きをするようになりだした。
一方テスコの卸業務の拠点を大阪で開始し阪神間の夙川にリペア(修理)とテスコ本社外での新製品開発をする為のセンターを開設した。
そして神戸での店舗(ミナト楽器)様式を取り入れた小売店舗を関西圏に展開しだした。
まず大阪店、京都店、九州福岡店、広島店と急激に展開しはじめた。
チェックメイツは、この展開にあわせてステージも数多くこなして頭角を表しだした。とにかくまだ子供に見えるくらいの若者がプロ並の演奏をしていた。そんなとき関西テレビのクリスマス番組に出演の声が掛かった。
テスコはテスコードと言う商品名の移動が簡易な小型電子オルガンの製品開発に成功し森岡はそれを携えてチェックメイツのキーボードの担当としてテレビに出演をしたこともあった。
これが1963年(昭和38年)日本で初めて結成されたプロのベンチャーズスタイルバンドであった。
左からドラム、アベーラ(カロ)、サイドギター小泉(チー坊)
リードギター栗山(テリー)ベース片岡(リラ)
チェックメイツが充実しだした頃ベンチャーズが来日したのであった。
1965年(昭和40年)の関西公演の時、既に親交を熱くしていた神戸新聞会館興行部長の畠山氏がベンチャーズを紹介してあげると連絡してきた。当時ベンチャーズは何らかの繋がりでテスコの唯一対抗のメーカーグヤトーンのアンプを使用していたため急激に人気が上昇しつつあった。これをテスコのアンプに入れ替えたかった。
関西公演の初日は神戸国際会館大ホール、翌日は大阪フェスティバルホールであった。畠山氏に森岡は連れられて楽屋を訪れた。
そしてエレキの王様ノーキー・エドワーズ氏を紹介して下さった。
畠山氏はこれで俺の役目は終わった。後は好きなようにしたら良いとニコッとして引き上げて行った。
そこで同席していた司会者のフィリピン人のビング・コンセプション氏と話をした。彼は当時ベンチャーズの専属司会をしていた。
最初は世間話をしていたが、出来るだけ彼に近かづき翌日の大阪公演はテスコのアンプを使用してもらうように策を考えていた。
色々と話しているうちに彼が当時としては珍しかったFM付きトランジスタラジオが欲しいことが判った。
彼に良ければ明日ラジオをプレゼントすると話すと非常に嬉しそうに両手を広げて喜んだ。
そこで両者は一挙に話が弾み関西公演でもっと出力の大きいアンプを使ってはどうかと持ちかけた。彼は大出力のアンプは使いたいが移動するのが大変だと言った。本番のステージまで一時間以上あったのでノーキー氏に一度試してみるなら直ぐに店から運搬させてくるがどうかと聴いて欲しいと言った。彼はその話を取り次ぎ一回試してみようと言った。森岡はシメタと思った。
店に電話をして直ぐに一台だけ持ち込んだ。
ノーキー氏は直ぐに試奏して嬉しそうな顔つきで今直ぐにステージのアンプを幕開けまでに入れ替えるように係りの人に指示した。
作戦大成功であった。
ステージ終了後ノーキー氏は非常に満足したと言ったので明日のフェスティバルホールでの公演はメンバー全員にテスコのアンプを搬入しても良いかと聞くと二つ返事でOKしてくれた。
翌日プレゼントのFM付きトランジスタラジオを持参してチェックメイツのメンバーと一緒に楽屋を訪問した。
一方テスコのスタッフがステージに当時最高出力のアンプをセットアップした。アンプが一挙にテスコに変わったので関西でのテスコ製品の人気は高まった。
有名アーティストにモニターなってもらう事の重要性を痛感した。
公演後ベンチャーズのメンバーに夕食を誘った。
彼らは気軽にOKを出してくれた。
1965年(昭和40年)当時のベンチャーズと言えば大スターの頂点にいた。ドン・ウィルソン氏だけは別の事情で食事に出られないが他の3名は一緒に出て来ると言った。
チェックメイツのメンバーで最年少のドラム担当のエルコレ・アベーラ君の父親が阪急の宝塚でイタリアンレストラン(アモーレアベーラ)を経営していたのでその場所を借り切ることにした。
一般のレストランで万一ファンなどに見つかると一大事である。
彼らは一足先にレストランの中に楽器をセットアップしていた。
一方森岡は会場からベンチャーズの三人のメンバーを連れ出さなくてはならないがホールの外部には大勢の追っかけがサインを求め帰らないで待ち伏せている。
畠山氏は追っかけを逃れる方法を笑い話で教えてくれていた。
そしてその一例を実行した。とにかく建物の出口全部にファンが群がっている。
森岡とメンバー三人はホールの地下駐車場の車に乗り込んだ。
しかし駐車場の入り口は多くの警備員が侵入を警戒してにらめっこしている。
そこで作戦を開始した。テスコの数人のスタッフが大声で正面玄関にノーキーがいると叫んだ。
一瞬で大騒ぎになり正面玄関にファンが殺到した。
その早さと言ったらなかった。その隙にまんまと抜け出したのである。
無事イタリアンレストラン・アベーラに到着した。
神様のようなベンチャーズのメンバーが目の前に同席して一緒に食事を始めた。チエックメイツのメンバーの感激は頂点に達していた。
そして全員で楽しい食事になった。当初メンバーは緊張していたが時間がたつにつれリラックスして、そのうちにチェックメイツが演奏をしだした。ベンチャーズのメンバーはビックリした。
あどけなさが残っている若者が、これだけの演奏が出来るのは素晴らしいとチエックメイツを絶賛してくれ夜遅くまで皆で楽しんだ。
これを機会にベンチャーズと親しくなった。
左下 ボブ・ボーグル氏 中上 アベーラ君 右下 メル・テーラー氏
右上 アベーラ君の母上 ていさん

左から アベーラ 栗山 小泉 森岡 片岡
メルテーラー氏とチェックメイツのアベーラ(カロ)君
夜遅くベンチャーズのメンバーをホテルに送り翌朝一番に畠山氏に電話入れお礼を述べた。
畠山氏は紹介して良かったと心から喜んで下さった。
一方チェックメイツの噂は一挙に広まり人気も高まっていった。
特に栗山君のリードギターの演奏はノーキーそのものであった。
彼の指は一般人より太くがっしりしていた。当時日本にライトゲージのギター弦がほとんどなくスタンダードゲージの弦を平気でチョーキングして音程を正確に吊り上げる技は見事であった。
彼のステージは押しのきくものであった。
それに対しサイドギターの小泉君とベースの片岡君は地道にリードギターをサポートし素晴らしいアンサンブルとなっていった。
アベーラ君は、憧れのメルテーラー氏とのめぐり合い以後、相当腕を上げてきた。
本来ならば日本を代表するバンドになるはずであった。
しかし、そのさなかに彼らを不幸のどん底に陥れる大事件が起きた。
次のエピソードに掲載します。
テスコの倒産とメンバーの交通事故死