森岡が、なぜブルーコメッツやベンチャーズそしてアメリカで有名なジャズオルガニストのジミー・スミスと知り合ったのか?
それは関西で一人の大物興行師との出会いが1965年(昭和40年)にあったからである。
その出会いの5年前にさかのぼる。
戦後復興期に神戸新聞会館が興行部を持ち文化的な活動を開始した。
当時、神戸新聞会館は世界の一流アーティストを招いて神戸の音楽文化を高めて行ったのである。大学時代の音楽仲間は世界的なアーティストの公演で大いに刺激されたのである。
ハモンド奏者の小曽根実氏その他大勢の神戸の音楽家仲間はコンサートに出向き外国の一流アーティストの演奏を聴き感動し何とか自分達も腕を磨きたいと一生懸命頑張っている時代があった。
森岡は楽器演奏だけでなくコーラスにも関心があった。
学生時代、地元の鈴蘭台混声合唱団に所属していたからであった。
大学4年のある日、神戸で一番の繁華街、元町通りを歩いているときのことである。浅黒い肌の男性がメキシカンハット・ソンブレロ姿でサンドイッチマン見たいにビラを配っていた。
それは当時有名なメキシコのコーラスグループ、トリオロスパンチョスの宣伝ビラであった。その人物の姿がいかにも印象的であった。
パンフレットを受け取るとニコッとして「これは聴く値打ちがあるよ」と言ってくれた。その強烈な印象は、その後も記憶から無くならなかった。
その後、森岡は社会人になり物語にあるように1962年(昭和37年)年末にエレキギター製造メーカー、テスコ株式会社の支援を受けテスコの関西進出の準備を開始した。まだエレキブームの始まる前であったので数年間はエレキギターの啓蒙運動に明け暮れた。
当初はエレキギターの大ブームなど予測もしていなかったのである。
1965年(昭和40年)頃から神戸国際学校のハイスクールの生徒がエレキを買うようになり彼らがベンチャーズの話を盛んにした。
そのうちに森岡が経営していたテスコの直営店神戸ミナト楽器のスタジオを彼らが貸して欲しいと申し込んできた。当時練習スタジオを持っているような楽器店は何処にも無かった。
予約を受け付けたのだが、練習が始まった途端に張り裂けそうな爆音的演奏である。当時の常識として大音響の音楽は考えていなかったのである。
当時の防音設備では全く効果はなく店内外に割れんばかりに響き渡り練習開始数分後に隣近所から苦情が来て練習は中止となった。
そのとき森岡はテケテケと始まる音楽が不思議に感じた。
彼らは何処で演奏しても、うるさいと嫌われていると言った。
そして数ヶ月後に栗山君と名乗る甲南大学の後輩が店を訪ねてきた。
彼との出会いでベンチャーズが当時の若者に与えている影響の大きさを知るようになった。彼は国際学校の生徒達と同じ様に大音響とテケテケを連発したい為に練習場所を探していたのだ。
森岡は自分の大学時代を振り返ってジャズを演奏すると道楽息子だの不良だなどと言われた事を思い出した。そこで考えたのが、これからの若者のニーズに合う物なら練習が出来る防音設備が整ったスタジオを提供しようと直ぐに実行に移した。そして近所のビルの一室を借りて完全に近い防音設備を施し若者達を受け入れた。
すると大変である。連日テケテケテケテケ。
ベンチャーズのLPレコードを聞きながら若者達を歓喜させている原因は何なのだろうかと研究を始めた。
この基礎研究が無ければ、その後に偉大な興行師との出会いのチャンスは無かったのである。
当時楽器業界では、このような音楽が大ブームを起すなど誰も考えていなかった時代であった。とにかくテスコ本社宛に高出力のアンプを開発するように進言した。そしてテスコは開発に成功した。
そして高出力アンプの商品名をチェックメイトと名付けた。
エレキブームの夜明け寸前であった。森岡は栗山君に会社の宣伝に貢献するような素晴らしいグループを作ろうと相談を持ちかけた。
最初は、うるさい音楽だと思って聴いていたベンチャーズサウンドも聴きなれてくると音楽性の豊かさを強く感じた。彼ら4人グループは青春を練習に全力投球して素晴らしい演奏をしだした。
このグループ(チエックメイツ)の事は後にエピソードに掲載したい。
そのころから森岡は神戸でエレキバンド合戦なるものを企画し第一回のアマチュアバンドコンサートを催すことにした。
テレビなどのエレキ合戦が開始される以前であった。
まだベンチャーズスタイルのプロバンドは関西になかった。
最後(トリ)の特別ゲストの演奏は栗山君ひきいるチェックメイツであった。
イベントの経験の無い森岡は、興行の世界ではズブの素人である。
それをチケットの発売からステージでの演出まで怖いもの知らずでやってみた。
既に関西テスコ株式会社のスタッフは20人を越していた。
そのメンバーで収容人員3000人の神戸国際会館でのコンサート全てを仕切らなければならないのだ。スタッフは皆素人であるが進行の手順などを打ち合わせて当日を迎えた。現代のようにチケットピアなどというものは無い時代で出演バンドのメンバーに券を販売させる程度であった。
森岡はこの会場にお客様が半分入ったら大成功であると思っていた。
そして当日を迎えた。全スタッフに役割分担を確認し進行を託して開演10分ほど前からステージに近い客席の端に座っていた。
突然目の前に一人の紳士がニヤッと笑って「あんた森岡さん?」と話し掛けてきた。「そうです」と返事するとまた笑った。
どこかで見たことがある顔と声だと思い、相手の名前を知らないと失礼になると思い一瞬考えたのだが直ぐに思い出せなかった。
すると彼は「たいしたもんだ。ホールの外にダフ屋が出ているよ」と言った。
当時は入場者が多いと予測されるコンサートにはダフ屋という闇で券を売る
販売人が何処からか券を集めて当日券を場外で売るのである。
それは、このコンサートが大人気で魅力があることの証明でもあった。
そして開演の幕が上がりラジオ関西の電話リクエストで当時有名な斉藤アナウンサーの司会でコンサートが始まった。
彼は黙って客席の状況を見ていた。緞帳の幕が上がって司会が話し出すと「素人がやるとまず最初に時間どおりに幕は上がらないよ」と言った。
そのときこの人は何年か前にパンフレット貰ったあの人か?
今はスーツとネクタイ姿である。しかし名前が解らない。
コンサートは大成功した。翌日、神戸新聞会館興行部の責任者で畠山と言う方から会いたいと連絡が入った。あの声と一緒であった。
そして彼(畠山喜好氏)との出合いは森岡の人生を大きく変えたのである。
翌日、出会うなり一挙に人生観等おおいに話しあった。
そして畠山氏の気さくな人柄を森岡は読み取った。彼の信念は招へいしたアーティスト対し興行師が失礼の無いように会場を満席にしなくてはならない。
これが自分の本分であり時には自ら繁華街でビラ配りをやるのだと言った。
昔、元町でビラを配っていたかと聞くと、それは俺だよっと笑った。
畠山氏の笑いは本当に人の心をなごませる笑いだと思った。
当時は興行の殆どが暴力団組織が仕切っている中で、彼だけは特別な存在で組関係とのトラブルは一切なかった。その後は両者で公私共に色々な友情関係が始まった。そのため有名アーティストの神戸公演の時には畠山氏の紹介でブルーコメッツを初めとする第一線のスターとの出会いが出来たのである。
神戸の興行の神様(畠山氏)はアリスを初めとしてキムヨンジャ氏 舟木一夫氏 桑名正博氏等多くのアーティストを世に送り出している。
そしてカーメンキャバレロ氏また往年の歌手ディクミネ氏や高峰三枝子氏は畠山氏が企画した公演が最後のステージになった事も印象的である。
森岡にとって尊敬する恩人であり先輩であり親友でもある。
私的事ではあるが畠山氏の令夫人は森岡の学生時代、近所に居住していた色白の美しいお嬢様であった。大学時代に一回だけ大勢の仲間とハイキングを楽しんだこともある。その後、畠山氏の奥様であると知ったときに彼の人間味溢れる微笑みで彼女を誘ったのかなと思うようになった。
畠山氏は1978年(昭和53年)に神戸新聞会館興行部長を退職と同時に
ハタケヤマアートデレクション創立された。そして長年大きなイベントを数多く手がけ活躍されていたが2004年(平成16年)5月に他界された。
この世界でやって来れたのは神戸新聞会館や神戸新聞社また多くの皆様のお力添え頂いた話をよく聞かして頂いた。
神戸、いや日本でも最後の偉大な興行師と言われた人物に対し謹んで御冥福をお祈りします。
次回は当時大人気だったベンチャーズを畠山氏に紹介して頂いた話を掲載します。
ハタケヤマアートデレクションの許可を頂きアリスの谷村新司氏と撮影された写真を掲載します。