大学時代は演奏活動と楽器製作に夢中になっていた。
しかし、卒業と同時に家業を継ぐため山之内製薬に就職した。入社日から経理の勉強とコンピューターを操作する勉強をさせられそうな雰囲気になってきた。当時のコンピューターは、まだ真空管式が殆どで一般的な経理事務(給料計算、納品書請求書、仕入れ支払い明細等)のみ使用出来る状態にも関わらず、8畳の部屋程度の大きさの代物で、それを森岡がオペレーターを数名指導して動かすことになる。
このままでは趣味の音楽なんて全く考えられない世界になる事は明白であった。
一週間ほど会社に通勤した週末のある日、新聞を見ると求人欄に河合楽器製作所が管理職人事募集という欄を見つけた。衝動的に受けてみようと思い、家を飛び出しその日のうちに東海道線に乗って上京した。
そして銀座の外れにあった河合楽器製作所東京支店を訪問した。
1階はピアノのショールーム2階はオフィスになっていたが、ショールームには数名の若い女性がいて、そこに一人ハーフのような顔つきの女性がいた。そして彼女が人事部に取り次いでくれた。この女性が将来、妻になるなどまったく思ってもみなかった。
人事部の課長が、ショールームに入ってきて面接を開始したが、管理職の募集にしては、若すぎるので相談に乗ってもらえる様子ではなかった。その課長は開口一番、君は楽器というものがどういうものかわかっているか。
河合に合格したら、どんな仕事が出来ると思うかね?と通り一遍の質問を始めた。
「ハイ、電子オルガンの設計及びピアノとハモンドオルガンの演奏が出来ます。また英会話も出来ますとまくし立てたが、ヘーという顔を課長はした。では、ここで一曲弾いて見なさい」と言われ、一番高価なフルコンサートのピアノの前に座り早弾きで音を出したが気に入る調律ではなかった。
これでは良い音が出せない。もっと調律をコンサート用にしないと良い音がしないと言ったところさっき調律したばかりだと声が返ってきた。
しかし、森岡の素早い指の動きが気になったのか「調律士を呼ぶから好きなように調律してもらいなさい」と言ったので、調律士に2時間もかけて派手に聞こえるような調律をしてもらった。
調律士は言った「高音部をこんなに高めにして低音部をこんなに低めにして大丈夫か」不思議そうに調律した。
調律が出来課長が入ってきた。「君、これで文句は無いね」と言った。そこで最初に派手に演奏し、次にはムードのあるジャズナンバーを弾いた。課長は、「よろしい、少し待って下さい」と丁寧な言葉になったので、シメタと一瞬思った。そうしたら、約10分後に幹部と思われる人々がドヤドヤと入って来た。
課長は「皆さん当社のピアノは、こんな音が出る、まあ聞いて下さい」と言って演奏するように指示をした。数曲演奏したが、その度に大変な拍手をしてくれた。当時は、河合はクラシックの演奏家ばかりを養成していてジャズやポップスの演奏者はいなかったので、その全く変わった演奏方法に度肝を抜いた感じになったのである。その課長は河合に就職する前には米軍基地に勤務していたらしく若干英語が喋れたようで
一気に英語で話し掛けてきたので、返事を英語で返すと皆キョトンとした様子であった。
そして「今日は、これで終わりにしましょう」森岡は採用してもらえるのかしてもらえないのかが気になったので問いかけると「履歴書は貰ったから後日連絡する」と言われ仕方なく、その日の夜行列車で神戸に向かった。
そしてそれから一ヶ月何の音沙汰も無く体がだるいなどと仮病を使って家にこもっていたある日、養父が頭から湯気を出す勢いでやってきて「オイ河合楽器製作所に就職試験を受けに行ったのだって、何を考えているのだ。会社をサボっているのも、そのせいだろう。明日から会社に出ろ」と言った。
とうとうばれたか、履歴書の父親の職業欄に小さく山之内製薬勤務とだけ書いたのに....小さいも大きいも字は一緒である。ところが翌朝、例の課長から電話連絡があり「親父さんは許して下さったか?
まさか山之内製薬の社長の息子とは夢にも思わなかったが、河合楽器の社長がどうしても採用するように言っているので困っている」と連絡してきた。
そこで「河合楽器の社長さんが親父に直接連絡をしてくれたらOKの可能性もあるのではないか」と話して一旦電話を切った。翌日、養父は河合楽器社長と直接会い、話は成立して数年間他人の飯を食って仕事の修行をしてこいとあっさりOKを出してくれた。そして(株)河合楽器製作所に就職をした。