永い年月を経て再会したクーゲ家はアナリーザとその子供2人そして父親の4人暮らしであった。父親は私に出会った第一声で「おお私の日本の息子」と言い涙を流した。まず出会いにトロッケンドイツワインで乾杯しようと言い栓を抜いた。このワインの美味しかったこと、それ以後私はトロッケンの虜になった。その後わたしにとってドイツワインはトロッケンである。
再開したクーゲ家のお父さん。記念に写真を下さいました。
一家4人とゲハートと私の6人である。アナリーザの長女は7才、長男は6才でアナリーザの幼い時にそっくりである。昔の神戸鈴蘭台のクーゲ家のリビングルームには暖炉があり冬は何時も薪を燃やしていた。そしてここにもあった。父親は暖炉を指差して懐かしいだろうと言った。子供達は暖炉のそばに座り楽しそうにゲームをしている。私達も昔そうであった。
父親、ゲハート、アナリーザでドイツに渡ってからの話が始まった。アナリーザは云った。ドイツに移住後、父の足の病気が悪化し身障者となり仕事をすることが出来なくなったこと。その後長女ローズはパンアメリカン航空に勤め米国の富豪の息子と結婚し米国に移住した。そして母親は離婚して米国に一緒に移住してしまった。ゲハートもフランス人と結婚したが直ぐに離婚してしまい一人暮らしであることなど、昔の幸せ一杯のクーゲ家とは全く異なっていた。
父親はドイツに移住後、私に対してアナリーザは数年間何回も手紙を出したが何故返事をくれなかったのかと質問した。しかし私は全く受け取っていないのだ。多分アナリーザと交際しては困ると思っていた養父母が捨てたのであろうと思った。父親は当時アナリーザと私は深く付きあっているものだと思っていたようである。
手紙を何回出しても返信が来ない状況で父親がドイツ人の大型船の船長を紹介して結婚させたそうだ。しかし亭主が酒乱で2人の年子が生まれた直後に離婚をしてしまったそうである。本当に悲しい話ばかりであった。
私は昔の当時の話をした。当時は物作りに熱中し女性にはあまり興味が無い奥手であったようである。父親は物作りの好きな私を息子のように思っていたという。アナリーザにしつこく手紙を出させたのも父親の奨めもあったようである。ある時神戸の国際学校の同級生から私がフランス人と結婚したと言う手紙が届いたそうである。
これは大変な誤報である。しかし私の家内は純粋の日本人でありながら若いときには日本人に見えない外国人の顔つきであった。それでこの誤報がとどいたのであろう。父親は私の養父が外国人女性との付き合いを極端に嫌っていたのに何故結婚相手がフランス人なのだと思ったそうである。それで直ぐにドイツ人の男性と結婚させるようにしたと云った。
私はそのとき初めてそんな感情があったのかと思ったが既に永年の年月が経っていた。何しろ話は夕食後夜遅くまで続いた。私はこの時期になると毎年フランクフルト・メッセに参加するため来るので必ず毎年ここまで来ると約束し別れた。
その後私の娘も家内も当地を訪れたが1987年に父親が他界した。アナリーザは父が亡くなる前には何時も私のことを話していたと連絡してきた。そして私は本当にさびしくなったと伝えてきた。その翌年私は家内を連れてアナリーザの家を訪問した。
2001年春に突然アナリーザは昔の国際学校のドイツ人の同級生と日本へ行くので私の家を訪問すると伝えてきた。私は歓迎の連絡をしたのだがその直後に乳癌を患い秋に他界した。その友人から私に悲報を連絡してきた。
そして、アナリーザの長男長女とも医者になり立派な社会人になったと報告してきた。一時代が過ぎたのである。
写真は3度目に森岡の娘ミマと訪問した時のものである。
当時はドイツは東西に別れこの北海沿岸の町は海が凍結すると歩いて東側の人たちが亡命してくる拠点となっていたようである。厳寒期は−40°にもなるのだ。
