森岡は学生時代から持ち運びの出来るキーボードを作りたい夢があったことは以前の物語の中に書いたが1973年(昭和48年)当時アンプ内蔵までは考えていなかった。
暮れに近いある日、唐氏が当時米国でヒットしていた小さなミニギターアンプをどこかで仕入れて来た。
これに小型のキーボードを接続してみたら20平方メートル(約6坪)位の部屋ならば結構楽しめる。
丁度クリスマスイブだったので、それを取り囲んで食事と共に一杯やりだした。
結構楽しい。そして唐氏はそのアンプを置いて帰った。翌日分解してみたらトランジスタの簡単なアンプだ。
当時パワーアンプをモールドしたパーツ製品が発売されたばかりであった。
年末にメーカーから取り寄せて正月休に持ち運び出来る一番軽量のキーボードに組み込んでみた。
なかなか良い。まだどこのメーカーも生産していない。すぐにサンプルをもって前記のオセアニアの旅に出た。
さて帰国後すぐにこの製品を量産化して生産に取り掛かった。
それまでは全面的に輸出商社に頼っていたが、国内販売の方が利益率が高いので国内に流通させようと思った。ところがである。4年程度国内に目を向けていない間にR社がシェアを伸ばし
新しく取引をしようとしても商業上の圧力を掛け当社(ヒルウッド社)の製品を仕入れないように手回しをしていった。
いくら魅力ある新製品でも取り扱うとR社の製品を販売出来なくなると卸業者は露骨に言った。
折角世界で初めて生産したポータブルキーボードも相手にされないのである。
その状態が1年以上続いたある日ある同業者で懇意にしている社長さんが「森岡さん販売に相当苦戦しているようだがR社のMr.TKが事あるごとにヒルウッド社が国内の営業が出来ないよう圧力を
駆けている」また露骨に「森岡は大嫌いだ」と言い回っていると聞かされた。
この影響で苦戦している最中の1974年(昭和49年)の春に「李栄津」という台湾の人が国際電話で突然連絡してきた。
電話で開口一番「森岡さんは以前ファーストマ楽器製造株式会社を経営されていましたね。
是非お会いして話をしたい」と言って来た。電話で色々話をしている間に台湾市場に活路を見出せそうなので同年6月23日3泊4日の出張予定で初めて台湾に出かけた。
その時すでに製品化していたポータブルキーボードを一台持参した。
空港内でパスポートコントールを無事通過したが税関検査で問題が起きた。
手持ちのポータブルキーボードを見た役人は、これは個人所有か?それとも商業見本なのか?と問われた。
税金を掛けられたくないので個人所有だと言い張った。役人は「これは音が出るのか」と聞いた。
「出る」と森岡は答えると「個人の所有物であれば演奏出来るはずだ」と言った。森岡は「勿論出来る」と答えた。
役人の日本語は非常に上手なのには驚いた。その役人は「少しだけで良いからここで弾いてみろ」と言った。
森岡は「この楽器は電源が無いと鳴らない」と答えた。
そうすると「向うの取り調べ室に電源があるから移動しよう」と言い出した。
あくまでも個人の所有物かどうかを確かめたいのだ。
直ぐに電源に接続して弾いたら彼は「日本の曲でこの歌は知っているか」と聞かれた。
役人は「俺は川原の枯れススキ」と口ずさんだ。
船頭小唄である。森岡はメロディーを知っていたので伴奏をつけて弾いたら周りにいた役人までが拍手をしてくれて無事税関を通過した。
そしてゲートを通過して表に出たら「歓迎 森岡先生」と書かれた大きな看板を掲げて出迎えの人が待っていた。李栄津氏(後の台湾楽器公会の理事長)と初めての出会いであった。
李氏は「遠い台湾までご足労頂き有り難うございます」と素晴らしい日本語で出迎えて下さった。
到着したのが遅かったので夕食をしようと直ぐにホテルに向かった。
当時の台北の国際空港は松山空港と言って市内から20分位の距離にあった。
空港を出ると市内までの殆どが畑で牛の匂いがする田舎の町といった感じで途中は真っ暗であった。
ホテルのレストランで簡単な食事を取りその夜は直ぐに寝た。翌日李氏が迎えに来て下さって早速見本のキーボードを持って彼の事務所に向かった。ケースを開けると「この楽器は税関でいくら関税を
払わされましたか」と聞かれたので無税だと昨夜の事を話をしたらビックリした表情をされた。
台湾は通常定価の50パーセントの関税を掛けられるそうだ。
彼は「森岡先生のことは全て知っていますので直ぐに台湾に対しての輸出の総代理権を欲しい」と願い出てきた。何故そんなに詳しい情報を知っているのかと質問すると日本の楽器情報
専門誌ミュージックトレード社の編集長であった檜山氏と懇意でありすべて彼から聞いているとの事であった。
そして台北市内の李氏の案内で取引先数件を見学した。
結構良い取引先を持っていることも確認出来た。また紹介者が森岡の尊敬して信頼している檜山氏であったことと、台湾市場は予期していなかったので多少でも取引が増えれば良いと思い台湾での
総代理権を了承した。その日の夕食には豪華な四川料理店に社員一同と親族の大勢が集まり大歓迎会を開いて下さった。
台湾の人が30人集まると日本人が100人集まったぐらいの賑やかさになり歓迎会は活気があり陽気でほがらかで始終カンペイ・カンペイ(乾杯)と酒を酌み交わした。
翌日は台湾のヤマハの総代理店、河合の総代理店など大手楽器のショールーム等に挨拶に周った。
その後、李氏は取引はしていないが面白いインチキピアノ店があるから見に行こうと言い案内してくれた。
店の看板には横文字でヤマハのロゴ書体でYAMADA PIANOと大きく掲げられていた。
HとDが一字違うだけだ。中に入ってビックリしたのはピアノはブランドが着いてない製品ばかりである。
お客が来ると「お客様どこのブランドにしましょうか」と聞く。お客がヤマハと希望すると数日のうちにヤマハのロゴをシールした製品が買主の家に届けられるとの事であった。
森岡は数台のピアノを試奏してみたが全てひどい製品であった。
現在、日本にも森岡の開発したモズライト・ファーストマンの本物偽物係争の同類項みたいな話はあるが、台湾では当時平気で商標無視のビジネスが横行していた。
そして帰国後予想外の大きな注文が入った。
台湾にはヒルウッド製品の販売を阻害するR社の手廻しが無かった。
直ぐに台湾向けにポータブル電子ピアノの輸出を開始した。
ヒルウッド製品が現地に到着した3ヶ月後に製品のPRの為に一週間の予定で再度台湾に来て欲しいという要請が李氏からあった。そして来られるまでにシンセサイザーを含む全製品のサンプルを出荷して
欲しいと連絡があり直ぐに出荷した。
そして台湾に出張して9月18日台北空港に降り立った。空港外に出た途端に気温の高さにはビックリした。
日本の残暑なんてものではない。直ぐに前回と同じホテルに駆け込み翌日からのスケジュールの打ち合わせをした。このホテルは当時台北にある国際ホテルとしては唯一の大型ホテルであった。
翌日は、そのホテルの大広間に大型のヤマハ.エレクトーンが設置してありその上にシンセサイザーを
置いてデモストレーションを行う手はずが整えてあった。ようするにマルチキーボード演奏である。
2日目は台中、3日目は台南、4日目は高雄、5日目は台東の5都市を周るキャラバンのスケジュールであった。
移動は全部貸し切りのバスで台湾を一周した。初日の演奏には台北のプロミュージシャンと称する人々が数百名参加した。
森岡が演奏する前に前座が演奏していたが演奏のデタラメとひどさに仰天した。
そして森岡が紹介されて演奏すると場内は一瞬静かになり演奏が終わっても拍手がない。
数曲演奏しても同じく拍手がない。そのうちに李氏が立ち上がり質問を受けた。
森岡は中国語は全くわからない。李氏の通訳で初めての質問が来た。
このエレクトーンとシンセサイザーをどのように操作したら、豪華で素晴らしい自動演奏が出来るのかとの質問であった。当時は自動演奏はリズムとコードのパターンしかなかった。
演奏した手元が見えない為、全部自動演奏しているとお客様が勘違いしたのだ。
当時の台湾政府は外貨の流出を防ぐ為に外国人アーティストを有料で招く事を禁止した鎖国状況であった。
お客様は森岡の演奏をレコードを掛けているような錯覚におちいり拍手がなかったのである。
李氏は数名のミュージシャンに対して側に見にくるように言った。
すると3人が見に来た。そして皆さんに「これは本当に演奏しているのだ」と中国語で話したようである。
ここでやっと拍手を頂いた。
翌日は台中に移動してデモを開始したら昨日そばに見に来た3人が一番最前列に陣取っていた。
その翌日もそして最後の日まで付いて周った。
その中の一人、李天地氏(愛称ACHI)が、台湾でその後ミリオンセラーで大ヒットさせるとは夢にも思わなかった。
彼と3人の仲間は連日午前中にホテルの森岡の部屋にヒルウッドのポータブルキーボードを持って来てあれこれ教えて欲しいと言ってきた。当時の台湾はジャズやポップスを独学で勉強出来る情報が皆無だった。
彼らを指導することによりキーボードの需要を増やせると感じた。
森岡はこの短い旅の間に最小限重要な部分のみを彼らに教えた。
まずジャズの雰囲気を出す為のバックビート、シンコペーション、ブルーノーツであった。
コードに対して数パターンのフレーズを叩き込んだ。最後の夜は李氏が彼らも呼んで豪華な晩餐会を開いて下さり翌日帰国した。そして台湾への輸出は順調になりだした。
翌月になって李氏から11月に李(ACHI)と仲間が一週間ぐらい指導を受けたいので是非とも台北に来て欲しいと連絡が入った。すでに大切なお客様なので直ぐに特別な指導に応じた。
その時、台北市内のレストランやホテルの各所で過日彼らに指導した演奏方法と全く同じフレーズで仲間のミュージシャン達が演奏していたのにはビックリした。口コミで伝授していたのであった。
そしてこれが台湾ポップス誕生であった。
李栄津氏は2003年(平成15年)他界されたが、最後まで森岡の良き友人であった。
また李天地氏もその後台湾でヒット曲の作曲家になった。
一方国内ではR社に対して無駄な抵抗をしても得はないので米国で楽器業界以外の大手流通業界と日本の教育産業をリードしていたG社に販売をすすめた。
1975年(昭和50年)暮れにやっと販売網を楽器業界外で作ったが、この2年間の遠回りは経営的に非常にマイナスであった。一応を軌道に載せて販売を開始したが両社とも楽器専門販売業者では
なく製品出荷後のアフターフォローが大変であった。
G社の全国53都道府県北海道から沖縄までくまなく販売指導に周るとんでもない労力を払う結果になった。
森岡が全部販売に携らなければ売れないのだ。
しかし1977年(昭和52年)音楽専門誌「音楽の友」が、このキーボードを取り上げて下さった。
すると徐々に国内からもR社に隠れて仕入れる業者が出だした。
世界初アンブ内蔵のヒルウッド社製の電子ピアノ。