2008/10/29
南知多・豊浜のまるは食堂旅館創業者の相川うめさん逝去 世相・社会
中日新聞などでも報道されましたが、愛知県南知多町豊浜で“まるは食堂旅館”を創業された相川うめさんが去る10月26日、脳梗塞のため、美浜町内の病院で亡くなられました。享年98で、最期までひたむきに生きられて天寿を全うされたと思います。ここに慎んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
うめさんは終戦直後から大勢のご子息さんなどを育てながら、豊浜地区を拠点にして新鮮な魚介類を行商し、時には名鉄河和線や常滑線などで担ぎ屋の伯母さんも務められて、名古屋方面にも“遠征”されたのでしょうね。まだ当時の南知多町内は交通も不便で、マイカーもあまり普及しておらず、さぞや大変だったのでしょう。名鉄は、知多新線こそまだ建設計画の段階でしたが、河和線や常滑線は単線区間が多かったものの、AL車が特急や急行として頻繁に運用され、こうした行商人を大勢運んでいたとみられます。
そして1950年には現在のまるは食堂本店本館付近に鮮魚店を創設!!豊浜付近もそろそろ知多乗合によってバス路線網が整備され始め、名鉄電車でも先代の3850系や3900系などの旧性能ながらも観光輸送向けのロマンスカー(OR車)がデビューして、新鵜沼〜河和間の特急や急行が大幅増発。現在の特別車のルーツとも言える座席確保列車も夏季には臨時運転されていたようで、海水浴を楽しんだ後、きっと、まるは鮮魚店にも大勢の観光客が訪れるようになったのでしょう。そして、高性能なSR車の時代に移り、59年春には全国初の大衆冷房ロマンスカー5500系が就役。今の一部特別車特急のダイヤ構成が確立し、観光客向けの活魚料理旅館“まるは”が本格的に開業したものと思われます。
当時は、まだまだ南知多と言うよりも名古屋でも一般庶民の暮らしは貧しかったのですが、ようやく戦後の落ち着きも取り戻して、将来に希望が持てるようになった時期でした。
うめさんは豊浜商工会とも常に連携し、ご自身のまるは料理旅館の経営ばかりでなく、南知多地域全体の産業・観光振興にも努められ、61年以降に名鉄河和線にも赤いパノラマカー7000系や7500系が一般特急や急行にも入り始めた頃からは、揺るぎない立場に就かれたとみても良いでしょう。しかし、そういう身になっても決して偉ぶることなく、息子たちの実務をひた向きに助け、晩年近くまで接客に務めておられました。
やがて80年代に入り、知多半島・南知多有料道路や名鉄知多新線が全通し、名鉄でも赤いパノラマカーに代わり、高性能通勤車の6000系、そして今の赤、銀色の3R車や現在の2代目5000系(←将来は2200系や1700・2330系も?)がむしろ主役になって、南知多も単なるリゾート観光地だけでなく、名古屋方面への通勤通学圏になりました。
ちなみに私自身と、まるは食堂とは既に30年ぐらいの付き合いがあります。学生時代に父母とマイカーで訪れて、本店本館で2500円ぐらいのフルコース料理を賞味したのが始まりでしたね。
そして比較的最近では、2004年7月に当時、北京から岐阜に仕事で居留しておられた青い兎さんを、私自身が、まるは食堂本店別館(豊浜荒磯)に車でご案内しました。当日、たまたま別館におられた相川うめさんと一緒にスナップ写真を撮影してあげたことも……。青い兎さんも、生まれ故郷の北京市内では決して見られない広い海と活魚料理メニュー、そして、うめさんのやり手ぶりに驚かれていました。
それより以前のことですが、2002年に別の知人と夜間に車で本店別館を訪れた時、まだ脳梗塞の兆候も全くなく大変お元気で笑顔の接客をしておられた相川うめさんに、私たちは普段の食生活習慣について随分と手厳しい小言を言われた思い出があります。もう私自身も散々でしたわ……。「長生きをしたかったら四つ足を食べたら絶対に駄目!!」「もっと魚介類や野菜を食べること!!」「太り過ぎ、飲んべえ(酔い潰れ)は駄目!!」「悪いことをすれば、必ず、それなりの報いが来るよ!!」。四つ足とは、鶏肉以外の豚肉や牛肉などを指します。あのオカルト的な女流占星術師よりも、なかなか説得力がありましたねぇ……。しかし、どうも意志の弱い私自身は、いまひとつですわ……。
それに贅沢や無駄遣いを極端に嫌う典型的な昔風のお婆さんだけあってか、夜も更けて、客が帰った後の空き座敷付近の照明をこまめに消灯していたのも印象的でした。
そして2005年には中部国際空港や名古屋・栄の三越ラシックにも出店しましたが、当初は、本来のまるは食堂らしさがなくなる……という理由で反対しておられたとか……。息子さんの説得で何とか納得されたようでしたが、その頃から、どうやら少しずつ脳梗塞の症状が表れていたらしく、2006年4月に再度、本店別館を訪れた時は、かなり痩せ衰え、また年齢もご自身で分からないほど意識朦朧の状態になっていたご様子でした。これが結局は、うめさんと私自身の最後の対面になりました。そして昨年12月からは、病院で寝たきりだったとか……。
料理旅館以外にも、公衆浴場“うめの湯”を手掛け、そして“潮風の一本道”という小説のモデルにもなった相川うめさん、本当に長い間ありがとう。いろいろと大変お世話になりました。合掌。
うめさんは天国に旅立たれ豊浜沖の広大な海を照らす永遠の星にはなりましたが、その精神や遺訓は忘れることなく、まるは食堂旅館グループの今後のより一層のご発展も祈ります。
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うめさんは終戦直後から大勢のご子息さんなどを育てながら、豊浜地区を拠点にして新鮮な魚介類を行商し、時には名鉄河和線や常滑線などで担ぎ屋の伯母さんも務められて、名古屋方面にも“遠征”されたのでしょうね。まだ当時の南知多町内は交通も不便で、マイカーもあまり普及しておらず、さぞや大変だったのでしょう。名鉄は、知多新線こそまだ建設計画の段階でしたが、河和線や常滑線は単線区間が多かったものの、AL車が特急や急行として頻繁に運用され、こうした行商人を大勢運んでいたとみられます。
そして1950年には現在のまるは食堂本店本館付近に鮮魚店を創設!!豊浜付近もそろそろ知多乗合によってバス路線網が整備され始め、名鉄電車でも先代の3850系や3900系などの旧性能ながらも観光輸送向けのロマンスカー(OR車)がデビューして、新鵜沼〜河和間の特急や急行が大幅増発。現在の特別車のルーツとも言える座席確保列車も夏季には臨時運転されていたようで、海水浴を楽しんだ後、きっと、まるは鮮魚店にも大勢の観光客が訪れるようになったのでしょう。そして、高性能なSR車の時代に移り、59年春には全国初の大衆冷房ロマンスカー5500系が就役。今の一部特別車特急のダイヤ構成が確立し、観光客向けの活魚料理旅館“まるは”が本格的に開業したものと思われます。
当時は、まだまだ南知多と言うよりも名古屋でも一般庶民の暮らしは貧しかったのですが、ようやく戦後の落ち着きも取り戻して、将来に希望が持てるようになった時期でした。
うめさんは豊浜商工会とも常に連携し、ご自身のまるは料理旅館の経営ばかりでなく、南知多地域全体の産業・観光振興にも努められ、61年以降に名鉄河和線にも赤いパノラマカー7000系や7500系が一般特急や急行にも入り始めた頃からは、揺るぎない立場に就かれたとみても良いでしょう。しかし、そういう身になっても決して偉ぶることなく、息子たちの実務をひた向きに助け、晩年近くまで接客に務めておられました。
やがて80年代に入り、知多半島・南知多有料道路や名鉄知多新線が全通し、名鉄でも赤いパノラマカーに代わり、高性能通勤車の6000系、そして今の赤、銀色の3R車や現在の2代目5000系(←将来は2200系や1700・2330系も?)がむしろ主役になって、南知多も単なるリゾート観光地だけでなく、名古屋方面への通勤通学圏になりました。
ちなみに私自身と、まるは食堂とは既に30年ぐらいの付き合いがあります。学生時代に父母とマイカーで訪れて、本店本館で2500円ぐらいのフルコース料理を賞味したのが始まりでしたね。
そして比較的最近では、2004年7月に当時、北京から岐阜に仕事で居留しておられた青い兎さんを、私自身が、まるは食堂本店別館(豊浜荒磯)に車でご案内しました。当日、たまたま別館におられた相川うめさんと一緒にスナップ写真を撮影してあげたことも……。青い兎さんも、生まれ故郷の北京市内では決して見られない広い海と活魚料理メニュー、そして、うめさんのやり手ぶりに驚かれていました。
それより以前のことですが、2002年に別の知人と夜間に車で本店別館を訪れた時、まだ脳梗塞の兆候も全くなく大変お元気で笑顔の接客をしておられた相川うめさんに、私たちは普段の食生活習慣について随分と手厳しい小言を言われた思い出があります。もう私自身も散々でしたわ……。「長生きをしたかったら四つ足を食べたら絶対に駄目!!」「もっと魚介類や野菜を食べること!!」「太り過ぎ、飲んべえ(酔い潰れ)は駄目!!」「悪いことをすれば、必ず、それなりの報いが来るよ!!」。四つ足とは、鶏肉以外の豚肉や牛肉などを指します。あのオカルト的な女流占星術師よりも、なかなか説得力がありましたねぇ……。しかし、どうも意志の弱い私自身は、いまひとつですわ……。
それに贅沢や無駄遣いを極端に嫌う典型的な昔風のお婆さんだけあってか、夜も更けて、客が帰った後の空き座敷付近の照明をこまめに消灯していたのも印象的でした。
そして2005年には中部国際空港や名古屋・栄の三越ラシックにも出店しましたが、当初は、本来のまるは食堂らしさがなくなる……という理由で反対しておられたとか……。息子さんの説得で何とか納得されたようでしたが、その頃から、どうやら少しずつ脳梗塞の症状が表れていたらしく、2006年4月に再度、本店別館を訪れた時は、かなり痩せ衰え、また年齢もご自身で分からないほど意識朦朧の状態になっていたご様子でした。これが結局は、うめさんと私自身の最後の対面になりました。そして昨年12月からは、病院で寝たきりだったとか……。
料理旅館以外にも、公衆浴場“うめの湯”を手掛け、そして“潮風の一本道”という小説のモデルにもなった相川うめさん、本当に長い間ありがとう。いろいろと大変お世話になりました。合掌。
うめさんは天国に旅立たれ豊浜沖の広大な海を照らす永遠の星にはなりましたが、その精神や遺訓は忘れることなく、まるは食堂旅館グループの今後のより一層のご発展も祈ります。
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