世の中様々な価値観があるし、何十億万人のそれぞれ違ったリアルタイムな生(ナマ)の人生があり、どれが正解でどれが間違っているなどとは決して言えない。言えるワケがない! しかし、そうだからこそ逆に、人間の歴史の中で社会的なルール(規則)が生まれたとも言える。お互いの身を守る為に…。そのルールも本来的には普遍的なものではなく時代々々によって変化するのは歴史が証明している。
私は何が言いたいのかっちゅうと…。個人と社会という永遠のテーマがある訳だが、最終的には、結果論、強者の理論、勝てば官軍、弱肉強食、等々に行きついてしまう。だが待てよ? そうじゃないところでの人間の歴史もあったはずで、そこのところは、重なるが「人間性」という実に曖昧な、しかし一番身近においては説得力のある感性のなせる技とも言うべき世界があるのではと思う。それは何かを平明に言うと…、「人の為になること」だと私は思う。
生きているという事、そのエランヴィタール(生命の躍動)を体感する時は、「感動」する時である。そこには他者との交流があり、それによって自分というものの存在が相対性の中で立ち上がる。相対的とはいうものの、その「感動」の本質は他と比べてどうだという次元を超えたもののはずだ。
「感動」の普遍性とは何ぞや…。私は時々バカみたいに意識し考えてしまう。イチローの内野ゴロ、マンションのお掃除おばちゃんとの挨拶、子供たちの屈託のない笑顔、幼な友達との久しぶりの邂逅、自分の職務を必死に頑張っている人、逆境の中から出た切実な言葉。等々…。それに接した時の感動の本質とは、決して比べられるものではない。近代文明が生み出した人間社会の画一化、効率化などという文化的弊害をものともしない潜在的能力を我々は本来持っているのだ。
話を戻すと、「人間性」…。説明しなくても直観で感じ取るその人の「人柄」? つまりは、その人の生き様!?
抽象的で、かつ支離滅裂なブログで申し訳ないですが…、そんな「人間性」を思う今日この頃でした。何だか馬鹿みたいに最近はそれを思います。 あえて言うならば…、結果として(?)人の為になるような、そんな夢中になる人生を邁進してみたいな!と思う今日この頃なのでありました。はい。

1