2018/4/16

山岳ガイド 故木村道成さんを偲んで  

平成30年4月8日午後、突然の訃報だった。
妻が木村さんが亡くなったと涙を流しながら言っていたが、
一瞬、そんなに具合が悪いことでもあったのかと思ったが、
大好きだったシーカヤックにのり、西伊豆で遭難してしまった。
こんなことになるなら、行かないでと伝えたかったが、
今はこれが運命、天命を全うしたと納得せざるを得ない。

生きている間は恥ずかしくて、こんなことも書く気にもなれないが、
私にとって頼れる兄貴のような存在だった木村さんを偲んで、
ここに木村道成さんとの思い出を記しておきたい。
時系列で記しています。

(出会い)
私が知り合ったのは大学の先輩のヒダさんの誘いで木村さんの家に遊びに行ったのが最初だった。
確か22歳か23歳の晩秋か初冬くらいの寒い時期だった。97年か98年ころ。木村さんの家にギターをもってライブをした。
長男はたぶん小学校6年、娘さんは小学校2年か3年くらいだった。
あの日のライブは木村さんがMDで録音していて、十数年後に聞かせてもらった記憶がある。

(山親爺)
木村さんを題材にした私のオリジナルのギター曲。
おそらく木村さんの会う前に、みんなからすごい気合の入った山の親爺がいると聞いていて、
そんなイメージで作った記憶がある。私のギターも紆余曲折があり、オープンチューニングで作ったこの曲を十年以上弾いていないこともあったが、ここ数年、パーシャルカポで編曲し直し、アレンジも変えたりして、最近またお気に入りの一曲。
木村さんには生前に、木村さんをイメージした曲とは言っていなかったけど、
山親爺は彼も気に入っているようだった。告別式でも演奏させていただいた。

(きのこ採り)
キノコ採りするからと東京から木村家に遊びにいった。
当時はチベット旅行から帰国して間もない、すこしぼーっとした感じの原村のタクさんやナベ、ヒダさんなどが、一緒に木村家で飲んでいた気がする。庭で木村さんが近所の若いお父さんと手を組みあい、よくわからない力比べをしていた。
夜中の3時ころに就寝したが、朝の6時に起こされた。二日酔いと寝不足でひどかったが、木村さんは「快調、快調」ときのこ採りの準備をしていた。
木村さんのすごさを思い知った。キノコ採りは奈川の野麦峠のふもとの牧場に行ったと思う。イグチや木の上のヤナギモタセを採った。
木村家でキノコ汁を作った。非常に美味だった。とくにヤナギモタセのサクサクとした食感に感動した。以来、あの感動が忘れられず、現在も信州人となり、キノコ採りに狂っている。

(引っ越し)
大学を卒業して、信州に引っ越そうと迷っていた時、木村さんがこの日なら、俺のトラックで運んでやるよと言ってもらい、じゃあ信州に行っちまうかと仕事もなかったけど、引っ越しの日を決めた。2001年の4月の初旬に東京の杉並の代田橋の狭苦しいアパートに1トン車で乗り付けてくれた。中央道はアクセルをふかして70kmで飛ばした。
岡谷のトンネルを抜けて、松本平に差し掛かり、雪化粧を纏った北アルプスがつらつらと見えたとき、これで東京時代は終わり。今日から信州人なんだと感じた。

(風呂改装)
家の風呂がボロボロで、元大工だった木村さんと改装した。
といっても、掘っ建て小屋のような風呂だったが、以前よりも明るくなり、風呂が楽しみとなった。

(鉱泉ライブ)
2001年10月に私やナベが率いていた森象というバンドで木村さんが支配人をしていた赤岳鉱泉でライブをした。
私と妻はこのライブがきっかけで知り合った。この時は原村のタクさんや大学時代の友人と阿弥陀岳に翌日登った。
下山して、ナベやアーさん、そして木村さんと乗鞍岳にドライブして登頂した。乗鞍のてっぺんで、森象の曲をやった。
私は便所サンダルで登った。ドライブの時、標高2000mの結構冷える気候の中、かっこいいオープンカーをみて、木村さんが、「かっこつけるには、やせ我慢が必要なんだよ」と名言を言った。

(沖縄)
息子と小屋番のヒロキと4人で沖縄に連れて行ってもらった。
奥さんの実家の瀬底の散策もよかった。近くの浜辺で貝拾いをした。ハリセンボンを料理してもらった。
首里城は時間がなく、走って見た。
民謡酒場で三線を弾いた。私のオリジナルの沖縄っぽい曲やてぃんさぐぬ花など好評だった。

(赤岳鉱泉)
木村さんが支配人だった鉱泉に、2002年春から秋まで働いた。
大工仕事の木村さんは別人で人が変わったように厳しかったが、
仕事が終わるといつもの木村さんに戻った。
初夏のころだったか、急性の腰痛でヘリで山小屋から緊急搬送された。
腰痛がきっかけなのか、人間関係がきっかけなのか忘れてしまったが、
夏ころに木村さんは山小屋を辞めた。その後、プロの山岳ガイドとして歩み始めた。

(結婚式)
東京で結婚式をした折り、木村さんにてぃんさぐぬ花を演奏してもらった。

(木村家でギター)
結婚後は独身のころに比べると会う回数が減ったが、
気が向くと木村家でギターをやったりした。
何回やったかは記憶にないが、年に2,3回くらいだったか。
特に木村さんが下山して、音楽の好きなガイド仲間やお客さんが来たりすると、
よく呼んでくれた。
いつも私のギターソロを聞かせたり、木村さんの好きな
ボブデュランの風に吹かれて、イマジンや、拓郎の人生を語らずなど、
木村さんが弾き語り、私がサイドギターでリフを入れた入りしていつも遊んだ。

とくにここ数年は、私も転職し、ギター熱が再燃したことや
木村家が建て替えて、素敵な家になったこともあり、良く呼んでもらったような気がする。
2018年1月7日に音楽の好きなガイド仲間が来るから、来いよと呼ばれて、
木村家に向かっている時に、「一日間違えた。今日はやめよう」と言われたが、
車で向かっていたので、強引に行った。奥さんも完全にごちそうを並べて、準備万端のところでの、一日間違えが発覚したらしかったが、奥さんと三人で三線やギターを2時間ほど楽しんだ。
これが、木村さんとの最後の時間となってしまった。全然そうなると思わなかったが、それでも、あの時間を木村夫婦としっぽりと共有できたことは、良い時間だったなと思う。
結局、翌日にガイド仲間が来るからとまた誘ってくれたが、平日で仕事もあり、断ってしまった。

山の木村さんは良く知らない。私とはオフの時にギターを弾く仲だった。
性格も全然違ったけど、だから、気楽に話ができる間柄が長く気楽に付き合えた理由だと思う。

それと、木村さんは強がりな性格だったが、言い過ぎて気弱になったり、根はどちらかといえば、やさしい繊細な性格だと思うけど、それを隠すために、山で心身を鍛え、木村道成という人物を形成していったのではないかと思う。

最後に、どんな風に遭難したのか、だれも知らない。
4月5日の翌日の4月6日は春の嵐で松本もひどい強風だった。
海が時化ていたのかも、よくわからない。
だけど、苦しく、冷たかったことでしょう。
若い頃は命を顧みず山に挑み山の仲間を何人もなくした、だけど、
自分は家族ができ、死ねないと思い、そういう山はやめたと言っていた。
そういう意味では登山家として61歳は良く生きたんじゃないかとも思う一方で、
まだまだ若さとパワーがみなぎっていたので、沢山の夢があったと思います。
私ももっと一緒にギターをやりたかった。
風の強い日はなんとなく木村さんを思い出します。

どうぞ、安らかにお眠りください。












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