2010/12/9

六波羅蜜寺仏像と六波羅探題 図書紹介など  図書紹介

綾部の文化財を守る会の来年秋の研修旅行予備調査「仮題:建仁寺と六波羅蜜寺の国宝と文化財を訪ねて」に村上会長、泉副会長、四方事務局長に同行しました。建仁寺で京都散策愛好会:渉外担当の田中雅章様と合流してご案内いただきました。

田中雅章様には今秋の研修旅行「南禅寺と智積院の国宝と文化財を訪ねて」においても1号車のガイドとしてお世話になった方です。建仁寺、六波羅蜜寺ともに大型観光バス2台の駐車場がなく、参加者一行の乗降の場所から見学先の交通路調査、記念写真撮影場所などの課題が解決出来ました。

来秋に行うこの研修旅行のために、お世話になる京都交通観光バスの行程スケジュールが出来ており、午後から六波羅蜜寺に行きました。
ここでは国宝秘仏のご開帳が行われており、「十一面観世音菩薩立像」などたくさんの仏像を田中雅章様の解説を聞きながら拝観できました。
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有名な「空也上人像」と「夢見地蔵像」など沢山の国宝・重文を宝物館で拝観しました。勿論写真撮影は禁止でしたが、地元の書店でこの2躯の重文が載っている図書を見つけましたので紹介します。

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一度は見ておきたい仏像100選 全図像 著者:瓜生 中 発行所:(株)静山社
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空也上人 六波羅密寺 重文
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地蔵菩薩(夢見地蔵) 六波羅密寺 重文

またガイドいただいた田中雅章様に「六波羅探題」のことをお尋ねし、丁寧に教えていただきました。
WIKIPEDIAを借りて、私の忘備録としてここに採録します。

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。
概要
承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。
そこで、朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まりである。
探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。また、その下には引付、評定衆などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。
六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などのトラブルを処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。更に文永の役翌年の建治元年(1275年)には六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。
一方で、権限に伴う実際の強制力は十分とは言えなかった面もあった。時には有力寺社への処分を行った担当官吏が、当時力をつけていた僧兵の圧力により流刑などの処分を受けるという事態も起きており、例として寛喜元年(1229年)に不法を働いていた延暦寺傘下の日吉社の神人が、探題北方北条時氏の配下三善為清の制止命令を無視し為清の部下に斬られた件がある。これについて延暦寺が幕府に抗議をし、六波羅探題は為清主従に過失がなかった証拠を提示したが、幕府は延暦寺との対立を避けて為清を流刑にしている。
また、幕府から直接派遣された“東使”と称される特使が朝廷との直接交渉や探題への指揮の権限を与えられる事例もあり、その権限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言ってよい。そのため、その事情をよく知る者の中には六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われる。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利高氏(尊氏)や佐々木道誉・赤松円心らは京を攻めた。これによって当時の探題であった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は消滅した。その跡地は現在京都市立六原小学校になり、近隣には六波羅蜜寺が存在する。




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