2010/6/4

天下分け目の山崎合戦の明智光秀の城と細川忠興と妻ガラシャの愛の城・勝竜寺城  文化財研修記

JR京都・大阪間の京都よりの長岡京駅から南500メートル行くと勝竜寺城(しょうりょううじじょう)跡公園がある。この城は南北朝時代暦応2年(1339)に足利方の細川頼春が始めて築城したと言われている。その後、織田信長が入京し、京都近辺を順次制圧し、この勝竜寺城は細川幽斎に預けられた。織田信長は明智光秀の長女・玉(たま・洗礼後ガラシャと名付けられた)を大変可愛がっていたので幽斎の嫡男・細川忠興と婚姻を勧め天正6年(1578)新暦9月には結婚し、2年間の短い間ですが忠興・ガラシャが新婚生活をした城で有名です。その後、細川幽斎は今の京都府舞鶴市の田辺城、忠興は丹後の宮津城を預けられた。しかし、皮肉な事に明知光秀が謀反で織田信長を殺し、幽斎・忠興を味方に付けようとしたが、先見の明のあった幽斎は羽柴秀吉に味方し、明智光秀に決して味方しようとはしなかった。忠興は妻・ガラシャを子供達から引き離し丹後半島の山の中に幽閉した。明智光秀は勝竜寺城を占領し、山崎合戦ではこの城を拠点としたが、守れないので近江の居城・坂本城へ帰ろうとした途中で討ち死にし、羽柴秀吉が天下をとった。後、石田光成は徳川家康が武闘派の大名達を率いて上杉景勝打倒に行っている間に、毛利輝元を西軍の大将として、武闘派大名の妻子を大阪城へ集め牽制しようとしたが細川忠興の妻・ガラシャはキリシタンは自殺を認めないので留守居役に槍で殺されるようにして捕虜とならなかった。長岡京市は1993年に古城跡、1995年に掘を発掘して、10年掛けて城を整備した。そしてガラシャとの縁を元に毎年11月第二日曜日には行列巡航、楽市楽座等一大イベントを実施している。

1.勝竜寺跡公園の南堀と再建された城門
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2.城内への橋
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3.城内の展示室
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4.沼田丸への道
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5.沼田丸跡
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6.北門跡
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7.本丸井戸跡
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8.本丸跡庭園
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9.ガラシャおもかげの水(飲めます)
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10.細川忠興と妻ガラシャ像
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