2010/6/1

羽柴秀吉が明智光秀と天下分け目の山崎合戦の地・大山崎町歴史資料館を見る!  文化財研修記

要衝の地・石清水八幡宮から羽柴越前守(福井県の守)秀吉が明智光秀と天下分けめの山崎合戦の地、大山崎町資料館を訪ねました。明智日向守惟任(こてとう、九州の名門の名前)光秀は、羽柴秀吉と黒田官兵衛の謀略とも噂になる所謂、「本能寺の変」で織田信長公を本能寺で焼失させ、嫡子・信忠は二条城にて滅亡させられました。織田家の重臣・柴田勝家は北陸で上杉景勝との戦いで明智光秀の謀反を打ち滅ぼす機会がありませんでした。一方明智光秀は近隣の諸大名や長女の娘婿・織田信澄、次女ガラシャの婿・細川忠興、三女は大和の筒井順慶の息子・定次に嫁いでおり当然味方の確認を十分にすべき所を怠って、重臣・溝尾勝兵衛に今の長岡京市の勝竜寺城を守らせ、自分は近江の居城・坂本城へ帰り、織田信長公の壮大華麗な安土城を攻めた。又、遠方の大大名や朝廷へ多額の銀を贈呈するなど近隣の諸大名・親戚との連絡は蜜に出来ていなかった。一方、羽柴秀吉は信長直参の堀尾茂助を味方に引き込み、当時対陣していた高松城(水攻めで有名)の清水宗治を毛利一族の交渉相手・安国寺恵瑣(あんこくじえけい、後、豊臣秀吉に仕え5万石の大名となる)を得て切腹させ、堤防を決壊し、毛利の後追い攻めを防ぎ、所謂「中国大返し」で居城・姫路城へ戻り、近隣の大名達,中川瀬兵衛、高山右近、池田信輝を味方に付け、更には四国攻めの準備の織田信孝・丹羽長秀軍をも後添えとして引き込んだ。天正10年(1582)6月13日天下分け目の天王山(標高270・4メートル)の取り合いでほぼ勝負が決まった。男山八幡から山崎駅までの幅は約10町(1キロメートル)で川原の広い淀川があるのだから陸路はせいぜい7・800メートルの幅です。男山の更に向こう側にある「洞ヶ峠」には筒井順慶が形勢観望中。従って大阪側から向かって左側、街道を見下ろす形でそびえたっている天王山の占領が勝敗の鍵となる。羽柴秀吉はよく其れを理解していたので元山男の堀尾茂助に命じ鉄砲隊を登らせた、一方明智光秀もその事にきずき松田太郎左衛門に命じて同じく鉄砲隊を登らせたがほんの少し、堀尾隊の一部が先に頂上に登りじゅ17・18人位の少人数だが喚声を上げ、鉄砲を発射、岩をも押し転がした為、松田隊はほぼ壊滅した。次回は勝竜寺城址を訪れます!

1.大山崎歴史資料館(入場料20円)
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2.2階の資料館入口
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3.ボランテアガイドの案内で見学する
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4.洛外図屏風「承応三年(1654)〜万治二年(1659)」のもの
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5.現在の大山崎町のイラストマップ
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