2009/9/16

丹波の古刹・カヤ葺の山寺・岩王寺の萩祭り、筆供養で賑わう  綾部の文化財

カヤ葺の山寺で有名な神宮山・岩王子の萩まつり・筆供養の賑わいを謝罪してきました。
石の王子
 嵯峨天皇は弘法大師・橘逸勢とともに日本三筆の1人で、岩王寺(石王子)石で出来た硯石を大変好まれ、御愛用されていました。
 『丹波の国石王子山に硯石あり、黒色にして白筋あり、その筋陽樹の如く、すすきの如く、或は竹の画に似たり、甚だ上品の硯なり。本朝硝石諸州に出づといえども、文字ケ関・石王寺に及ぶものなし。
 伝え言う嵯峨天皇の勅に石の王子なるべしとて石王子と名づけ給うと。今の世当山に入ることを禁ず。甚だ得がたく稀にあり、価貴し』 (右雲根志「玉石調査研究書」より)と伝えられるように、往時には硯に作る岩王子石を岩王寺の奥より産し、その名は天下に広く知られ、この石で作った硯を愛用している書家も多い。(現在、掘る事は出来ません。)

寺号の由来と寺歴
 嵯峨天皇より約百年後、天暦三年(949)都の聖、空也上人がこの地を訪れて石王子石の出る傍らの台地に自ら一寺を建てられたとき、天皇のお言葉をそのまま寺名とされたものであるが、そのとき石よりも同質の岩の方が「ガン」としているので、文字は「岩王寺」と書かれたが、発音は嵯峨天皇のお言葉をそのままに「シャクオウジ」と言い伝えて今に至るまで変わることがない。

 盛時には寺僧百人、寺領七百石あり、山陰随一の聖地にして、参詣の人々が後を絶たなかった。その後衰退したが、建武元年(1334)足利尊氏、戦勝祈願に専念したので、その功により、田地2町歩を寄進された。しかし秀吉天下を平定するや、寺領をことごとく失う。寺領落失以後江戸時代より今日に至る。
クリックすると元のサイズで表示します
長い参道奥に石柱標識が立ち、石段を登ると仁王門
クリックすると元のサイズで表示します
咲き乱れる赤萩とカヤ葺の仁王門
仁王門
 人里から約四百米の坂を登った山の中腹に仁王門がある。この門は茅葺きで、中には金剛力士像二体が安置してあリ人煙を絶して静寂の佳境にある。
現在この仁王門は、江戸時代の物で建築物として、府の登録文化財である。
クリックすると元のサイズで表示します
仁王像(阿像)
クリックすると元のサイズで表示します
仁王像(吽像)
クリックすると元のサイズで表示します
並ぶ仁王門と本堂
クリックすると元のサイズで表示します
手前:仁王門 奥:本堂
クリックすると元のサイズで表示します
カヤ葺の本堂
本堂
 仁王門を抜けると正面に本堂がある。この本堂も仁王門と同様茅葺きで、本尊薬師如来と日光・月光菩薩その左右に十二神将が安置され、本尊とともに如意輪観世音菩薩も祀られている。然しながら、本尊は秘佛である。また、この本堂も江戸時代のものであり、仁王門と同様、建築物として府の登録文化財である。

クリックすると元のサイズで表示します
萩の植え込まれた花迷路と鎮守堂 左に古木:サンシュユ
鎮守堂・庫裡
 本堂の右側には、鎮守堂があり、熊野太権現が祀られている。また本堂の裏には庫裡があり、持仏に大日如来・弘法大師・空也上人が安置してある。持仏前には龍虎の襖絵があり、貴重なものとして評価されている。鎮守堂・庫裡ともに江戸時代のものである。
クリックすると元のサイズで表示します
特別一般公開の「龍虎の襖絵」龍図
クリックすると元のサイズで表示します
虎の襖絵

枯れ山水の庭
 庫裡の前庭は、岩王寺石を適所に配した枯れ山水の小庭で、職業的庭師の作庭でな<、江戸末期頃の当時住職の指図によって作られたもので、格調あるものとして高<評価されている。またこの庭は、茅葺きの本堂や庫裡ともよ<調和して、まことに優雅である。
クリックすると元のサイズで表示します
カヤ葺の本堂と枯山水の庭
名石の いほりに おわす み仏の 慈悲あまねし 聖の山に
クリックすると元のサイズで表示します
岩王子縁起

萩まつり・筆供養の寸景
クリックすると元のサイズで表示します
賑わうお茶席
クリックすると元のサイズで表示します
和琴の演奏を聴きながらお手前をいただく
クリックすると元のサイズで表示します
萩祭りに用意されたお茶饅頭「かやぶきの山寺」美味いまんじゅうでした
クリックすると元のサイズで表示します
本堂に移動される住職と役僧の方々
クリックすると元のサイズで表示します
本堂で行われた筆供養の法要



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ