2009/8/2

綾部用水ー綾部井堰の変せんといまー  図書紹介

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企画/発行 21世紀農業農村整備企画会議中丹ブロック
(窓口 京都府中丹土地改良事務所 Tel 0773-42-3265)平成15(2003)年3月発行
A4版25ページのパンフレット冊子

先に写真を紹介した並松河畔の「近藤勝由翁頌徳碑」について、碑文の解説に関わる参考資料の提供を文化財を守る会の四方續夫事務局長に依頼したところ、この書籍を届けていただいた

近藤勝由の事績
 近藤勝由氏は文政10(1827)年、綾部:藩に生まれる。性剛直にして苟くも意思を枉ざるの風で、土木技術に関してはその最も長所にして、経済の途にも通じ、嘉永元年綾部藩代官見習いとなり、土木を兼ね司り部内の土木につくせしも尠からずして、なかんづく天田堰を綾部堰に合併したる功績の如きは其の最も顕著なるものである。
 綾部、天田両堰は、共に由良川の流域にあって灌漑反別一は130余町歩、一は170町歩に渉る大堰にして、しかるに往々洪水に際しては堰を破壊され、其復旧維持のため村民の苦しむこと多大であったところ慶応2年8月大洪水あり、天田堰ついに流出し、その復築容易にならず、村民の憂苦困憊非常なるものであった。この時氏は天田堰を廃し綾部堰に合併せんとし、藩主に献策して嘉納せられた。 然れども当時衆皆その成功を疑ひ異論百出するに至たが、氏之に動せず日夜鋭意計画し、時の大庄屋羽室嘉右衛門氏等と相謀り、2月28日起工、部民を使役、日夜これを督励して延裏より大島村に至る長さ8町余、草莱を拓き岩石を砕き、苦心惨憺この難工事を短日にして天田堰なる井溝に連続、遂に目的を達した、維時3月8日なり、ここに綾部堰の一大水路を以て延長2里余に亘る元両堰の区域全部に潅漑せしのみならず、将来の維持費を減じて経費多大の利益を得せしめたものである。
 尚又明治17年8月大洪水があり、由良川筋に築造せる井堰及樋閘等破壊され、衆議之れが復旧工事の施行を氏に嘱託するや、是また3旬の短日にて竣成された。
 而も其工事の困難なりし事、前日の比にあらざるという、ここに於て明治25年組合員等氏の功績を不朽に伝んとし、元何鹿郡長宮崎清風氏に撰文を嘱し、之れを碑石に刻み綾部堰の西岸に建立せり。

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4.綾部井堰の恩人 −近藤勝由―
 綾部井堰といえば、近藤勝由を連想するほど、綾部井堰の父というべき人物である。
 勝由が綾部きっての井堰通となったのは、生来土木が好きな上に、江戸在勤時代(18歳〜20歳)関東地方に発達した大型河川治水事業の実態を見、熱心に研究を積んだ結果であった。
 勝由は、嘉永元(1848)年22歳の時、土木技術の実力を認められ、代官見習いとして初めて井堰修理に携わり、嘉永6 (1853)年には代官に抜擢され、以来井堰に関する権威者として、改修改築に手腕を発揮し、その名声は近藩にも知れ渡っていた。勝由は藩用で京都へしばしば出向いたが、途中、南桑田郡の馬路、河原林などでは大堰川の井堰修復について、地元庄屋から指導を求められ、工法等について終始指導助言を与えていたという。
 綾部井堰の水路を天田井堰水路につなぎ、現在の綾部用水の基礎を開いたことは、勝由がいなければできなかったといわれる。
 江戸末期の慶応2 (1866)年2度の洪水が綾部藩領を襲った。川沿いの田畑がほぽ全滅し、綾部、天田井堰も損害を受け、復旧の目処が立たなかった。
 勝由はこのとき40歳、「綾部水路と天田水路をつなぎ、永久的に水を送れるようにするほかに解決策はない」として九鬼藩主に水路連結工事の開始を願い出た。
 両水路を結ぶには、約900mにも及ぶ溝を新たに掘る必要がある。人手と費用を出す農民の負担が大きすぎ、天田水路沿いの農民たちは近藤宅に押し掛け、「困難にして無謀」と訴えたが、勝由は「私財をなげうってでも行う」と説得、地元の大庄屋6代目羽室嘉右衛門(郡是創案者波多野鶴吉の父)の協力を得て、慶応3 (1867)年2月28日に工事に取りかかった。冬場の大工事は困難が予想されたが、勝由は昼夜を問わず現場に立ち農民たちを督励し、3月8日、わずか10日足らずで工事を完了させた。
(※1684年河村瑞軒が大阪安治川長さ1、600間、幅50間を20日間で開削していることからも、10日程での完成は可能である。また、娘きんの思い出の中に1、200人の話がでてくるが、1、200人が工事に要した人足数と推測される。)
 維新後勝由は京都府役人を務めたが、明治13年54歳の時、綾部郵便局長見習いに就任した。
 明治に入り度々の洪水のため綾部井堰は破損がちで水上がりが悪く、ことに明治16年は干天が続き、75日開削が降らず大干ばつとなったことや翌17(1884)年の洪水により井堰の堰体や樋門が大被害を受けたとき、この修理ができるものがなく、井組において堰体の根本改築を計画、当時郵便局長見習いであった近藤勝由に依頼して、この大工事を敢行することになった。乞われて現職のまま井堰復旧に奉仕したことは異色のことである。
 勝由は綾部井堰が水上がりが悪い横堰(推定約230m)であったことから、改築に当たり登堰(推定約500m)に改め、井口から川向こうの味方村笠原神社の下手へ斜めに堰体を築くことにした。それとともに井口の樋門も大改造を加え用水不足を一挙に解決しようとしたものである。
 工事内容の詳細は分からないが、普請手控帳によって大工事であったことが知られる。切留工事 人足11、140人、飯米約335石。水門工事 人足11、166人、飯米約333石。等、また堰体の構造は杭を打ち並べ木の枠を組んで石詰めにする工法で、いわゆる洗堰構造で莫大な資材と労力を費やしたが、わずか3旬(30日)にして完成した。
 明治17年に改築された登堰の様子は明治26年の地形図で垣間見ることができる。
 登堰のすぐ下流には大きな砂州が広がっており、洪水での危険性は増している。逆に、水上がりは大変良かったと考えられる。

 旧綾部藩領の沃野を養う農民の命水ともいうべき綾部井堰を終生掛けて護持した勝由への感謝は、勝由の生前明治25年8月、時の郡長宮崎清風の撰書になる「延裏新溝之記」の碑文に表現され、長く並松の一本木(樋門の近く)に建てられていたが、その後綾部市役所前庭に移されている。また、昭和10年水利組合によって熊野神社境内に建立された「近藤勝由頌徳碑」には、「延裏新溝之記」の碑文がそのまま記されている。熊野神社が移転したため、現在は市民センターの南東側に位置する。
 頌徳碑は、勝由が世を去った後、「延裏新溝之記」碑石が並松付近の開拓や道路拡張のため草地に放置され顧みる者もない有様であったため、改めて建立されたものである。勝由は明治34 (1901)年9月75歳で没している。
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綾部市役所前の石碑「延裏新溝之記」
近藤勝由の経歴
文政10 (1827)年 綾部藩士の子として生まれる
弘化元(1844)年 江戸勤番を命ぜられる
嘉永元(1848)年 代官見習役に任ぜられる
嘉永6 (1853)年 代官に任ぜられる(27歳)
慶応3 (1867)年 2月延裏新溝献策
明治元(1868)年 中小姓に任ぜられる
明治5 (1872)年 九州代官所金穀取調役
明治7 (1874)年 京都府へ出仕を命ぜられる
明治8 (1875)年 綾部県庁詰、金穀出納役
明治13(1880)年 綾部郵便局長見習いに就任
明治17 (1884)年 8月綾部井堰を登堰に改造
明治19 (1886)年 綾部郵便局長に就任
明治21 (1888)年 綾部郵便局長退職
明治34 (1901)年 9月没(75歳)
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同市役所前石碑の碑文 「延裏新溝之記」一部
2.綾部井堰の創設時期
 綾部の平野部には、由良川を堰止めて用水をとる大きな井堰が約4kmの間に3か所設けられていた。綾部井堰、栗村井堰と天田井堰である。
 天田井堰は、慶応3(1867)年に延裏新溝が造られ、天田井堰の水路に綾部井堰の水路をつなぐことによって廃止され、現在綾部井堰と栗村井堰がある。
 これら三井堰がどの時代に築かれたかは明らかでない。伝承によると、綾部井堰は12世紀に平重盛が綾部を領していたときに築いたというものや、綾部・栗村・天田井堰とも明智光秀が丹波を支配していたときに造ったという記録(「丹波志」)がある。
 これまでの一般的な潅漑の歴史から見て、古代国家の権力の強かったころには大きな土木工事が行われ、讃媛(香川県)の満濃池(701年ごら)や河内(大阪府狭山市)の狭山池(616年ごろ)などが築かれているが、中世荘園制の時代にはこれらがすたれ、近世のはじめのころになって再び大きな水利潅漑の施設が築かれたとされている。
 しかしながら、由良川の本流を塞き止めて堰をつくるには、大きな政治権力が必要であるとともに、その用水を受け、井堰の管理にあたる村々の惣村的な結集がなければならないと考えられ、共同体としての村落が成立するのは中世末期で、そのころに何鹿郡の中西部を支配していた大きな勢力は考えにくいとされている。
 天田井堰では、寛永17 (1640)年以降の資料によると、井堰についてたびたび村々に紛争が起こり、京都奉行所へ訴え出ている。この紛争解決のあとで、井組の村々の庄屋、年寄、百姓総代が署名して証文を取り加わしているが、そのあとには、「取扱人」(立会人)として近隣の大庄屋が署名している。これは、用水問題の解決には慣習的なものがあり、領主の裁断だけでは治まらないことを示している。用水慣行が中世に始まったことを考えると、綾部・天田・栗村の井堰は中世末か近世初めころに初めて築かれたとも考えられるのである。
 なお、由良川から取水ができない地域で安場川、荒倉川の水を利用できるところは溜池を築き川の水を溜めた。その他、並松の重ね橋のたもとから田野川の水を引いて並松から一本木を経て川糸通りを流れ、綾中、青野方面を潅漑する上井溝があった。これは相当古い水路とみられている。

3.綾部井堰と天田井堰
 旧綾部井堰は、ほぼ現在の位置に築かれていた井堰であり、受益地は青野・町分・井兪・岡・延・大嶋の材々であった。
 寛永11 (1634)年、九鬼隆季が綾部に入部し、下市場に藩邸を築いたときの絵図には、既にこの井堰の水路が記されている。
 天保(1830)ごろに記された藩の記録には次のように記されている。井堰長240間、味方より川除新堰25間享保19年春出来。井堰掛り井組並びに人足、青野23人、町分14人、井倉16人、岡14人、延24人、大嶋24人、計115人。堰繕杭桁、桁500本、杭5、000木。
 井堰は杭木洗堰で、形は登堰であったから堰長が長い。井堰掛り人足は年々出役する人数が定められていた。堰の杭・桁は、井根山(大師山)と須知山の2か所を井堰御留山としており、藩の許可を得て切り出して用いた。井根山というのは、昔から山の木を井堰構築用に用いたので、その名が付いたと伝えられている。また、井根山は明治のころまで杭材料の栗や松の木が多く生えていた。栗材は堅く、松は水に強い材木である。
 慶応2 (1866)年の大洪水で最下流にあった天田井堰が大破し、綾部藩士近藤勝由代官は、第十代藩主九鬼隆備に両井堰の統合を献策し、大庄屋羽室嘉右衛門の協力を得て延裏に新溝を堀ることにし、延町大将軍より天田井堰の井口のある大島町稲荷神社裏まで長さ8町余(約900m)幅4間の水路で、慶応3 (1867)年2月に着工、3月に工事を完成させ、両井堰の水路は一本化された。これにより綾部用水の基礎ができあがった。この水路が大島水路であり、通称堀川と呼ばれている。
 ※単位1町=108m、1間=1.818m、1尺=0.303m
 天田井堰は、もと高津村字天田井にあったが、水上げが悪いため、寛永17 (1640)年それより500間(約900m)川上の大島村稲荷神社(稲荷神社は由良川改修などのため福田神社境内に移転している)の北に移され、新堰から旧堰の水路までの幅8間、長さ500間の新溝を堀って水を通した。この溝は「五百聞堀」と呼ばれた。
 その後も、天田井堰はたびたび洪水で堰が切れた。正徳4 (1714)年の洪水で大島村の田畑が削り取られ、享保20 (1735)年には土手井口ともに崩れ田畑がおびただしく削り取られたため、井□を200間川下の稲荷神社の土手へ下げて280間の登堰を築いた。
しかし、宝暦13 (1763)年の洪水で再び田地が削り取られたのである。

 当時の天田井堰も杭木洗堰で、川を横切って2列に杭を打ち、その中に石を詰めた構造で漏水が多く、用水路へ多くの水を導くことができなかった。そのため、堰を登堰にしないと水上がりが悪く、下流は水不足で困るが、登堰にすると洪水の時に大嶋村の河岸が削り取られるため大嶋村が迷惑するということで、井堰の構造が紛争の焦点となっていた。宝暦14 (1764)年の大嶋村井堰絵図では、井堰の変遷や大嶋村河岸に水制とともに大きな渦が画かれ、流れの激しさが表されている。
 ※「水制」とは、河川の水の勢いを和らげたり、水の流れを変えるため、河岸から河の中央に向けて設ける工作物。



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