2009/7/16

由良川の流れに沿って・・並松史  図書紹介

緑の文化財「綾部の古木名木100選」の由良川並松町川岸:クロマツ、並松の由来となったの紹介資料(後日、四方續夫事務局長が記事アップ予定)
さらに、先の「由良川井堰中興の祖 近藤勝由頌徳碑」および「綾部井堰堰堤工事などの記念塔」の関係資料として、この「並松史」を求めたところ、早速にも四方續夫事務局長より届けていただいた。
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並松町自治会編A4版60ページ、並松史編集委員会(四方真人、朝日達郎、余田修、上西信行、四方源太郎)の手になる冊子である。

上記の近藤勝由、綾部井堰に関係する記述を以下に引用させていただく。頌徳碑の碑文についての解読はまた別の資料をさがすこととする。

☆由良川の井堰
 並松には綾部井堰がある。井堰は灌漑用として田畑で利用する水を確保するために築かれた。「伝承によると、綾部井堰は平重盛が綾部を領していたときに築いたということであり・・」と『綾部市史』には記されているが、いつ頃からのものであるかの確かな史料はない。寛永11年(1634)に九鬼隆季が綾部に入ったときの絵地図には、すでに綾部井堰が記されている。
 綾部史談会の山崎巌会長によると、史談会の歴代会長によって、この点については異なる見解があるそうだ。重盛による築造というのは村上祐二さんの説であり、その後、梅原三郎さんは『大規模な土木工事には、この地域をまとめる大きな権力が必要だ」と見ていて、室町・戦国時代の頃ではないかと考えておられたという。
 山崎さんは江戸時代後期に福知山藩士が書いた『丹波志』の「何鹿郡の部」に、「綾部井堰は明智氏によって作られた」という記述があることを根拠に、明智光秀が築造したのではないかとの説を支持しておられる。ただ、光秀は2年程しか丹波を治めていなかったので、その短期間に綾部井堰のような大事業ができたのかという疑問もあり、今のところ築造時期は不明とのことであった。
 堰の杭や桁に使用する材木は、須知山口井根山(大師山)と田野村宮ノ奥のニケ所を井堰御留山として、藩の許可を得て切り出していた。井根山の名は、井堰の杭に由来している。

 綾部藩は、天田井堰の復修や上流と下流の農民による水をめぐる紛争に手を焼いていた。慶応2年(1866)の大洪水で綾部井堰の下流にある天田井堰が大破したため、綾部藩の代官近藤勝由は、藩主九鬼隆備に二つの井堰を一つにすることを提案し、中筋村の大庄屋羽室嘉右衛門の協力を得て、慶応3年3月にエ事を完成させ、これにより、現在の綾部用水の基礎ができた。
 明治17年にも、近藤(当時は士族)は綾部井堰を急斜式(登り堰)に改造する工事を行った。この近藤の功績を顕彰する碑が並松町の市民センター横に建てられている。
 後に、昭和28年の台風13号によって、江戸時代からのこの綾部井堰は跡形もなく流失した。これは灌漑や水道に大きな影響を与えたため、早急な復旧が求められ、綾部市が建設省から1億円余りの災害復旧費を受けて、29年2月から工事を開始し、35年に完了した。
 古い綾部井堰は、由良川を斜めに横断していたので、28年の水害では味方地区に大きな被害を与えた。そのため、現在のものは水流と直角になるように設計されている。現在の井堰は、長さ212.3m、幅45m、落差2mの当時としては近代的な堰堤であった。



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