2008/5/17

国指定史跡・山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡  文化財研修記

過日、綾部郷土史講座のメンバーで京都市山科区・伏見区・宇治市へ一日コースで見学した部分で未発表の所を掲載します。京都市山科区には平成14年(2002)「山科本願寺(やましなほんがんじ)・寺内町(じないちょう)遺跡の一部が「山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡(やましなほんがんじなんでんあとつきやましなほんがんじどるいあと)」の名称で国史跡に指定されたが、今回の指定は全体で約39ヘクタールの内の1.4ヘクタール(全体のわずか4%)のみである。山科は古代から、京都と東国を結ぶ交通の要(かなめ)であり、独自の歴史・文化を育んできた。浄土真宗本願寺第8世の蓮如上人は東山にあった京都大谷本願寺が寛正6年(1465)に比叡山延暦寺衆徒に破却されたので、それ以後は近江の国の堅田(かただ)、大津付近で活発に布教活動を行い、文明3年(1474)には越前の国吉崎に移り、堂宇を多数建てるとともに、布教活動を更に強化し、加賀の富樫一族を滅ぼした。更に文明10年(1478)には山科に移り、文明12年(1480)には山科本願寺御影堂(真宗のみ、ごえいどうと呼ぶ)建てその周りには「寺内町(じないちょう)が形成され、当時の資料には「富貴に及び、栄華を誇る。寺中広大無辺にして荘厳、さながら仏国のごとし云々。在家叉洛中に異ならざるなり」と述べられた戦国屈指の環濠城塞都市であった。蓮如は此処で亡くな第3郭には「蓮如上人墓所」があるが、時間が無く之は叉後日紹介したい。
蓮如は夫人が亡くなる度四度結婚をし、13男、14女をもうけた。延徳元年(1489)職を実如に譲り、明応8年(1499)に南殿にて亡くなった。天文元年(1532)近江六角勢と京都の日蓮宗徒が合力し、山科本願寺を攻撃・放火した。天文2年(1533)に大坂摂津の石山(今の大坂城)に本願寺を移した。山科本願寺の栄華は蓮如が築いてからわずか52年間であった。

山科中央公園の「山科地区の案内板」山科本願寺の土塁跡も掲載されている。
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山科本願寺の土塁地図「南殿」は一番右上で「蓮如上人墓所」もある。現在地
地図13番へ上がる。(左下の黒い部分)
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山科本願寺土塁跡の石碑「山科中央公園内のもの」
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土塁 1.
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土塁 2.
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土塁の上からJR方面、木々の間に京都薬科大学が見える。
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