2008/1/3

初詣の宇治平等院で源三位頼政公の墓を訪れる  文化財研修記

宇治平等院と宇治上神社を初詣に訪れました。綾部の文化財を守る会では平成13年の文化財研修先だったそうです。平等院では高倉宮以仁王の伝承と関わりのある
源三位 頼政の墓を見てきました。
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源三位 頼政 平清盛の横暴を憤り、高倉宮以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の義兵を挙ぐ。治承四年(1180)5月26日 頼政 三井寺の僧兵と共に宇治に在り、平知盛 大軍を率いて宇治に迫る。頼政衆寡敵せず大敗す。 源三位 頼政の墓
源三位 頼政 平清盛の横暴を憤り、高倉宮以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の義兵を挙ぐ。治承四年(1180)5月26日 頼政 三井寺の僧兵と共に宇治に在り、平知盛 大軍を率いて宇治に迫る。頼政衆寡敵せず大敗す。頼政 平等院内に於いて自刃す。時に頼政76才の老齢なり。
辞世
埋もれ木の 花さくことも なかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける
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追記:綾部市高倉町には、上記の治承の乱に破れ、12名の義士と共に落ちのびた高倉宮以仁王を祀る高倉神社があります
高倉神社由縁略記
治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。
逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉美郷里村で薨御し給ふ。
翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。
 降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享三年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治四十年再建を計画、同四十三年八月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和五十三年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された(HPより)

高倉宮以仁王を「天一さん」と崇めて伝統民俗文化財の「ヒヤソ踊り」が行われています
土用の丑のお祭りでは綾部で最大の祭りであり、前夜に宵宮祭が始まり、当日9時には「本殿祭」の神事が催行され、又10時には「十二士講神社祭」が催行された。平家打倒に源氏政とともに挙兵されたが宇治平等院にて、氏政やその子供やほとんどの武士が殺されが、以仁王は身代わりに自分の甲冑を着せ、この綾部の吉美の里町まで逃れてきた。それはこの吉美地区に領土をもつ武士たち12名が同行引率して来たからであり、以仁王は腹に受けた矢傷で、非常に苦しみ亡くなった。その折、今後、私は皆を腹痛から守ろう、そして「五葉の笹の葉」は五臓を意味し、それは「心・肺・肝・脾・腎」であり、笹の葉にはこの五臓を活性化する成分を含んでおり、健康飲料としてお茶代わりに飲むと良い諭旨(文:四方續夫氏)



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