2018/2/15

京丹波を見る!2−3.臨済宗の古刹・龍興寺!  文化財研修記

竜興寺(りょうこうじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、南丹市八木町に位置しています。JR山陰線八木駅より徒歩数分のところです。開山は義天玄詔(1393−1462)で、開基は応仁の乱で悪名高い細川勝元(1430−73)でご本尊は釈迦如来です。この竜興寺は京都市右京区の竜安寺、亀岡市の竜潭寺とともに「京都三竜寺」と称されています。 竜興寺の開山は義天玄詔です。以降、初期妙心寺派祖師の基本的伝記である『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝によって記述してみます。 義天玄詔は土佐国(現高知県)出身で、俗姓は蘇我氏。大化の改新の契機となった政変である乙巳の変(645)で殺害された蘇我入鹿の後裔と伝えられる。『正法山誌』第6巻、古今紀談には、軍記物語『曾我物語』で有名な曾我兄弟の五郎時宗(時致)の孫とする。それによると曾我兄弟が父の仇(工藤祐経)を討ち取った際に、助成は戦死し、時宗(時致)は生捕りにされて由比浜で斬られようとしたところ、源頼朝がその義勇を惜しんで死一等をゆるし、曾我兄弟を助成した箱根別当にあたえて土佐に配流したという。その曾我時宗(時致)の子孫が義天玄詔なのであるという。しかし実際には建久4年(1193)5月29日に工藤祐経の子犬房丸に引き渡されて斬首されており、土佐国の配流は確認できない。義天玄詔は寛正3年(1462)に70歳で示寂していることから逆算すると、1393年誕生ということになる。父は生まれた子を「王法師」と名付けた。現在からみると奇妙な名であるが、昔日本では小児を名づけて○△法師と名付ける習慣があった。応永14年(1407)、15歳の時に土佐国天忠寺の義山和尚によって剃髪し、応永17年(1410)18歳で得度し、海を渡って京に上った。なお義天玄詔の法諱である玄詔は、当初は明詔であったが後に玄承と改め、晩年に自ら玄詔としたが、混乱を避けるため特に明記しない限り「義天玄詔」とする。 建仁寺に掛搭し、同寺の開山塔である護国院にあって侍客(住持の内客を掌る)となり、やがて侍香に転じた。建仁寺に孤芳阿菊が住山したとき、蔵主となり、結制秉払した。この時に細川満元は法筵にのぞんで楽聞していたが、義天玄詔をみて周囲に「わが州のさいわいなり」と称賛したという。この孤芳阿菊は古芳阿菊ともいい、夢想疎石の法嗣龍湫周沢(1308〜88)の弟子であり、華徳院に住しており、建仁寺第107世住持となったという(『扶桑五山記』4、建仁寺住持位次)。義天玄詔はこの時まで五山派に属していたことが窺える。 その後、義天玄詔は南禅寺福聚院の舂夫宗宿のもとで学んだが、2年後に去った。舂夫宗宿は不昧子と号し、無因宗因に印信を受けた。筑前国の崇福寺に住み、南禅寺の福聚院に戻っており(『延宝伝灯録』巻第28、筑前州崇福舂夫宗宿禅師伝)は、ここではじめて関山派の法を学んだのである。

1.竜興寺の標柱と山門を見る!牡丹はつぼみです!
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2.名高い竜興寺の梅林!まだつぼみです!
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3.山門
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4.見事な梅林と境内
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5.見事な鐘楼(南丹市指定文化財)
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6.本堂への参道
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7.見事な本堂
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8.見事な本堂前の庭園
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8.鐘楼を振り返って見る!
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9、鐘楼の駒札
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