2017/8/30

越後を見る!4.家康公6男松平忠輝公の為に建てられた天下普請の城・高田城!  文化財研修記

慶長19年(1614)徳川家康の6男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、慶長19年(1614)に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩と共に、加賀前田藩を丁度挟むような形で押さえ込む配置となり、幕府にとって重要な位置づけとされていたが、泰平の世が続き、前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなった。

1.高田城内への極楽橋を見る!
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2.下記をクリックして、「動画」で高田城の濠や極楽橋と輪郭式平城の三重櫓を見て下さい!
https://youtu.be/_XfBQ3cXz0o

3.高田城案内図
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4.極楽橋を渡る!蓮のシーズンです!
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5.同上
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6.本丸跡
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7.城郭図
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8.見事な輪郭式平城の三重櫓(平時のための築城で天守閣の役目を果たしていた!)
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9.同上
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10.西堀橋を渡るとそこは、高田の蓮祭り会場だった!
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11.同上
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12.同上
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