2006/12/23

宇治逍遥7:宇治平等院付近最終編  綾部の文化財

お茶の渡来=宇治茶=丹波何鹿郡上林郷(たんばいかるがぐんかんばやしごう現京都府綾部市の上林地区)の関係。延歴二年(805)天台宗のみならず日本へ初めてお茶の種を、中国唐の国より持ち帰った最澄は比叡山延暦寺はお茶に適しないので、滋賀県側の坂本の里の坊に日本で始めての茶園(お茶は薬)を開いた。現在もこの坂本に日本最古の茶園がある。その後、お茶は広まり特に、鎌倉時代では栂尾(とがのお)が知られ、闘茶では「本茶」とされた。宇治茶は栂尾の明恵(みょうえ)上人が開いたといわれている。一方同時期に丹波何鹿郡上林郷の豪族上林家にもお茶が伝わり、今は大畠町、私市町の茶が「綾部茶」として有名だが、当時は口上林に多数の茶園が有り、上林家が支配していた。この上林家の久重は永禄年間(1558−70)に宇治に移り、4人の息子、上林久茂、上林味ト、上林春松、そして上林竹庵達は宇治茶業界を代表する茶師となった。特に天正年間(1573−92)豊臣秀吉は茶頭取りとして、朱印状を与え他郷が宇治茶と詐称する事を禁じ、宇治茶の品質と流通を維持した。江戸時代においても同様に徳川家に茶頭取りとして、待遇したが、特に4男は徳川家康に仕え、三河土呂郷に100石の知行を受け、三河茶(現在の静岡茶の元)の栽培に寄与したと云う。後、宇治に帰り、上林竹庵と称し、茶業に精勤したが、関ヶ原の戦いの折、家康の恩義に報い、伏見城を鳥居元忠と共に守り、戦死した。
三代将軍家光の代には、将軍御用の「お茶壷道中」を持っておこなった。明治維新後、宇治茶師の各家は転・廃業したが、春松家は唯一宇治茶師の後裔として現在も茶業を営んでいる。

宇治・上林記念館
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向かって左側でお茶の販売・右側は記念館
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お茶造りの道具1.
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お茶造りの道具2.
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この像は上林竹庵の百年忌に創られ平等院に祀られていたもの。
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「茶壷道中」の壷(ルソン壷)と駕籠
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