2006/10/31

綾部市(何鹿郡)吉美地区の道標・石碑  綾部の文化財

京都府綾部市(何鹿郡いかるがぐん)有岡町田坂16に吉美(きみ)小学校がある。6年生全員で女子15、男子4名の19名に「郊外学習・吉美の歴史探訪」の一環として綾部史談会副会長の川端二三三郎先生に「吉美地区の道標・石碑」の案内の要請があり、小生が吉美在住の唯一会員なので大変未熟であるが案内を引き受けた。特に満志里(ましり)の回国石は全然読めず、川端先生に二度にわたり事前に読んで頂き、昭和59年発行の「吉美村誌第2巻」の説明が間違っていることが判明した。内容は、「奉納 天下泰平大乗妙典六十六部 覚法智心禅(者?埋もれて読めず。) 日月清明 寛政八辰五月十日(1796年)播州三木郡行野原(村?埋もれて読めず。) (側面に施主 木下清二郎(里町のひと)」であったが「村誌」は寛永戌辰五月吉日(1630年)と書いてあった。見学順序09:40小学校出発すぐ下の三叉路に1.「右高倉神社、左小呂(おろ)星原(ほしばら)間に道」之は明治又は大正時代と思慮する、ここから里町に向かっていくすぐ途中の右手に旧道があったと、同行の吉美ロール隊々長で吉美老人会連合会長の四方安夫氏が説明2.里町「かのこばし」とひらかな表示の橋、小生は「鹿の子橋」と聞いた事があるが、会長は漢字は知らんとのこと、ここの道標は「真ん中上に奉納、右に梅迫・舞鶴、左に高倉神社、更に左に明治四十二年七月辰四十二歳男」の表示。
3.吉美農協JA前、4.吉美JA前横、5.満志利(ましり)6.里宮高倉神社(休憩)7.追加で平和記念碑をまわり、12時に小学校に戻る

1.吉美小学校下の三叉路の道標
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2.里町の「かのこばし」前の道標
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3.吉美JA前の道標「右宇免ざこ(現在の梅迫)、真ん中下に「道」の崩し文字が入っている、左志かむかふた(現在の志賀郷・向田町しがさと・むこうだちょうのこと)男の大人は吉美ロール隊員
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4.吉美JA前の道、左側に「塞之神神社」現社殿は1929年四方律蔵氏(現、吉美郵便局長・四方正和・吉美っ子応援団長のお祖父さん)の寄進・建立のもので、2005年元吉美地区連合自治会長・瀬崎祐次氏の寄進の石碑がある。4回目の移転のものです。昔は村の災いを防ぐ為、村の道の辻に祀られ「道祖神(さいのかみ)」とも呼ばれている。
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5.満志利(ましり)の回国記念碑は上記にて説明済み。白髪頭の大人が小生
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6.里宮高倉神社(正面で祭神は以仁王)左、日吉神社(祭神は大山命)、源頼政は高倉宮以仁王を担ぎ、平家打倒の戦いを挑み、宇治の平等院で死んだのは確実だが、高倉宮以仁王は鎧兜を他の人がつ付け、宇治にて死亡。綾部に領地をもつ、十二士達がこの里町へつれて逃げてきたが、矢傷で高倉宮以仁王ここでは死亡。一時ここに埋葬されていたが今の高倉町に移動・鎮座された。そこで年に一度秋祭りにここへ、お旅されるのが秋祭り。
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祭りの詳細は下記をクリック願います。
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/takakura/takakura.htm

7.平和記念碑・忠魂碑・淨圓坊新種傳播紀功碑(じょうえんぼうしんしゅでんぱんきこうひ)
明治四十五年六月京都府知事正三位勲三等 大森鐘一 能勢正敏謹書の有岡村の淨圓坊が一人で全国を回り、土佐国から多収穫種の米の種を持ち帰り、それを広め収穫量を増やした功績を讃える碑の説明をされる吉美老人会連合会長・吉美ロール隊々長と背中を向けておられるのが担任の先生。
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