2012/10/23

時代祭 丹波弓箭組  文化財研修記

 10月22日(月)、京都の時代祭(京都三大祭の一つ、約2千人の行列)を、夫婦で見学してきた。京都丹波に住む者にとって興味深い面がある。 先頭を行くのは山国隊。最後尾を行くのは丹波弓箭組(南桑田弓箭組、船井弓箭組)である。 御所の敷地中で見学をした後、人混みをかき分け丹波弓箭組を追いかけた。ようやく、烏丸丸太町の交差点で捉まえ、最後尾の船井弓箭組の一人に声を掛けた。「私は園部の者です」と返事があった。「和知の片山さんは、居られますか?」「この少し前に居るはずです」とやり取りをし、船井弓箭組の前の南桑弓箭組に声をかけた。(警備の警察官に「歩道から下りないでください」と注意されながら…)。「馬路の人は居ますか?」「私らは馬路の者です」「中川さん、人見さんですか?」「そうですよ」と、会話がつながった。「我がまち馬路」に「明治27年平安遷都千百年を記念して時代祭が始まると、桑田・船井両郡の「弓射仲間」の有志の人たちは、「弓箭組」として奉賛会の行列に参加し現在にいたっている。」と記されている。

 まず、先頭をピーヒャラドンドンドンと進む鼓笛隊は、丹波・北桑田郡山国(京都市右京区京北町)の維新勤皇隊・山国隊である。この隊は東征軍に属し、東へ転戦して7名の戦病死者を出した。上野で彰義隊とも戦っている。


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    2012年(平成24年) 時代祭  10月22日(月)

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時代祭の山国隊  大正10年から、市内の朱雀学区が奉仕・代行

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本場の山国隊 山国神社を出発 14日(日)山国さきがけフェスタ

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本場の山国隊  鼓笛隊(小太鼓・横笛・大太鼓)、鉄砲隊が続く

 時代祭の最後尾は、丹波弓箭組で、服装は地味である。



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丹波弓箭組   南桑弓箭組 南桑田郡馬路村など(亀岡市)

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南桑弓箭組  南桑田郡馬路村など(亀岡市) 丹波弓箭組本拠地


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烏丸丸太町の交差点  馬路の中川さん、人見さん

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船井弓箭組  船井郡園部町(南丹市)、和知(京丹波町)など
 和知から綾部へ転居された片山さんが参加されている
「綾部町史」に「何鹿郡よりは佐賀村私市の芦田総左衛門、芦田新三郎、大志万善左衛門、大志万俊平などが(丹波弓箭組に)加わった。」と記述されているが、何鹿弓箭組の隊列はない。

 丹波弓箭組とは、明治維新の折に、西園寺公望を総督とする山陰鎮撫隊に属した、丹波の地侍、郷士、農民(兵)の事である。京都、馬路(亀岡市)、園部、篠山、福知山、宮津、峰山、豊岡、鳥取、米子、松江(松平20万石、始祖は徳川家康の孫)、出雲大社(参拝)、津山、姫路、兵庫、大阪と進軍し、京都に戻っている。鎮撫隊は、京都を薩・長の兵約300人で出立し、馬路に集まった南丹(口丹波)の弓箭連中250人を加え550人で山陰道を進軍。「鳥取から松江へ向かったときには、兵卒、人夫の合計は三千五百名の多数になっていた。官軍だといっても、実は政府独自の軍隊ではない。郷士階級の参加によってふくれあがり、勢いづけられていた」(青木一夫「謎の丹波路」)。

(註)「我がまち馬路」(平成23年 馬路町自治会発行)より
 檄を飛ばし、丹波弓箭連中を糾合したのは馬路村の郷士であった。江戸時代の馬路村の領主は、旗本・8千石の杉浦氏で、領地は関東と丹波10ケ村6千石に分かれていた。江戸と京都に屋敷を持ち、馬路村に代官所を設けて丹波一円の村々を支配した。 村高1520石9斗3升の大きな村であった。江戸中期においては平均して人口1200人余、棟数は300軒前後で推移していた。「土地所有者である高持ち百姓」に対して2倍の「水飲百姓(小作人)」がいた。嘉永6年(1852年)6月、ペリーの率いる黒船があらわれ、幕府は海防を強化し、江戸湾周辺防備の持ち場を各藩や旗本に割り当てた。馬路村や池尻村からも多くの人たちが江戸へ出発していった。馬路は朝廷にとって大切な「制外」の地と論じ、勤皇を主張する人たちも生まれていった。しかし、領主の杉浦氏を無視した行動は許されず、何人かが捕縛されて、厳しい取り調べの中で、2名が亡くなっている。

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