2012/9/1

長岡京市の文化財・史址を見る!.(最終回)細川忠興と妻・ガラシャの愛の城「勝龍寺城址」特別展!7.  文化財研修記

この城は、歴応2年(1339)に細川頼春(よりはる)が京都へ進出して来る南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にありました。応仁・文明の乱(1467〜)では西岡地方における西軍(畠山義就、よしなり)の拠点となり、戦国時代になると、永禄11年(1568)に織田信長が上洛して西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ、堅固な城に改修しました。
 天正10年(1582)の山崎の合戦で明智光秀が本拠としましたが、落城しました。ところが、この城は天正6年(1578)に明知光秀の三女の玉(のちの細川ガラシャ)が織田信長の仲立ちで16歳で長男忠興のもとに輿入れしたところで、歴史とロマンを秘めた城として全国に知られています。
 城の中心は本丸と沼田丸に分れ、外郭施設には城の北側を守るための土塁や空掘跡が神足神社(こうたりじんじゃ)周辺にまで今でも残されています。2012年6月2度目の訪問を綾部市文化協会の研修旅行で訪れて再度見た記事を掲載します。特別展として「勝龍寺城の時代と細川ガラシャ」を催していましたので細川ガラシャを中心として見てみます。

1.細川藤孝居城時代の勝龍寺城(復原想定図)
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2.本丸横にある「新婚の細川忠興と妻・玉(細川ガラシャ)像」
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3.細川忠興や妻玉(ガラシャ)幽斉について熱心に説明される長岡京市ボランテアガイドさんです!
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4.パネル展(東京の(財)永青文庫よりのものです。細川忠興・妻玉(ガラシャ画像)
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5.パネル展 2.
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6.同上 3.
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7.同上 4. お玉の嫁入り行列図
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8.同上 5. ガラシャ画像
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9.お玉が夫・忠興のため自ら織った露払い(雨具)だそうです!忠興はお玉を愛していたのでしょうね!だからの弥栄町(丹後半島)山奥に隠した!小生3月に車で行きかけて積雪のため引き換えしてまだ、味土野に行けてません!3月に行かれたmerryさんと運転の御主人に敬意を表します。
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10.長岡京市のガラシャ祭りは11月中旬の日曜日に盛大な行列で行われます。
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11.細川ガラシャの生涯
■永禄6年(1563)明智光秀の娘と」して産まれる。
■元亀2年(1571)近江坂本城に移る。
■天正6年(1578)勝龍寺城で忠興に嫁ぐ。
■天正8年(1580)丹後宮津に移る。
■天正10年(1582)山崎の合戦の後、父光秀死去。
            奥丹後の山地、味土野(みどの、今の弥栄町)
            に幽閉される。
■天正12年(1584)幽閉をとかれ宮津に戻る。
■天正15年(1587)入信してガラシャの洗礼名
■慶長5年(1600)関ヶ原の合戦
           細川大阪屋敷にて最後を遂げる。
■慶長6年(1601)大阪にてガラシャの教会葬
辞世の句:散りぬへきときしりてこそ世の中の 
                 花も花なられ人も人なれ
12.明知光秀は土岐源氏の一族です。下記をクリックして明知光秀出生の明知長山城址を見て下さい」。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1394.html

13.織田信長は福井県丹生郡越前町織田の神官一族から派生して、美濃国へ派遣された一族の末裔です!下記をクリックして、織田信長の先祖を見て下さい。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/752.html

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