2012/7/7

かめおか光秀物語・ききょうの里2 篠葉神社  文化財研修記

「時は今なり桔梗の旗あげ 丹波かめおか光秀物語 ききょうの里」
明智光秀公の首塚のある谷性寺を参拝したあと、石段を降りるとすぐ隣に篠葉神社があった

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谷性寺の石垣横に篠葉神社の石柱、深い森の奥に篠葉神社が見える

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参道横に篠葉神社・鎮座1100年祭、社殿再建350年祭の記念碑

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大鳥居と燈篭、狛犬、舞殿と本殿が並ぶ

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本殿の前に夏越の祭りに使われた茅輪があった

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茅輪神事 茅輪(ちのわ)のくぐり方

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秋葉神社 燈篭

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明7月7日の七夕祭に用いられるのか沢山の七夕短冊が飾られている

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その奥から横の鳥居をくぐり境内を出ると広い花園が広がっていた

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境内横の道路に沿って紫陽花が咲き、白い花の群生(ハンゲショウ)が見事
注:ハンゲショウの花名は、ふじもと様のブログから借用しました

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広い花庭園を見渡していると雨が降り出した 雨宿り場所がある様子

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雨宿りに急ぎながら見事な紫陽花を撮る

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差しかけ小屋の雨宿り場所に着くと5人ほど入っていられた、
降る雨の中、傘をさして桔梗の中にしゃがみ花を接写しておられる

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手前から白の桔梗、青の桔梗、紫陽花、黄色の花と帯状に咲いている

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雨が上がりかけたので駐車場に戻ろうとするが、ぐるっと庭園内を回って青い水車が黄色花に埋もれて見える、庭園に入ったところに出てしまった

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道路を戻っていくと最初の庭園の出口が見つかり入ると藤棚のトンネルがあった

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見事な藤棚で大きな藤豆がたくさんぶら下がっている

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藤棚トンネルの入り口と順路方向(自分は逆回りしている)

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受付入り口から入園すると最初に見る見事な紫陽花園

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紫陽花園の片隅で動いている水車

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ききょうの里案内図:紫陽花園→藤トンネル→道路→桔梗園→道路
→谷性寺→道路→篠葉神社→広い桔梗園一周→駐車場 が順路

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かめおか光秀物語 丹波平定と亀山城の築城 明智光秀公尊像(谷性寺蔵)
(文章の解読は下記しました)

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受付と郷土産品販売所 桔梗も売られている

帰路は小雨の中を湯の花温泉方面から出て国道9号線を走り、行きにもトイレ休憩で寄った道の駅:丹波マーケスで昼食をして、店内のスーパーで買い物をして帰った。綾部は晴れていた。

ルポの番外編「明智光秀の桔梗紋 旗揚げに思うhttp://nbcayabe.exblog.jp/17742730/もご覧ください。

データ:上記の「かめおか光秀物語 丹波平定と亀山城の築城」
 明智光秀は織田信長の家臣としては異色の武将で、もとは足利義明に仕えていたが、その経歴を見込まれ信長に仕えるようになった。光秀は信長の期待に応え、近江坂本城、丹波亀山城主となり、知将としての実力をいかんなく発揮。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とともに最有力家臣の1人として活躍した。

 特に、天正3年(1575)から信長の命を受けて着手した丹波攻略は、近畿で最後まで反信長勢力が抵抗した地域で、光秀による同6年(1578)頃からの丹波亀山城の築城・整備で一気に進展し、同7年(1575)に完了した。

 翌年の天正8年(1580)、光秀は信長から丹波を領国として与えられ、2年後の天正10年(1582)本能寺の変、その後の羽柴秀吉との山崎の戦いで生涯を閉じる。

 また光秀は丹波亀山城主と城下町の基盤整備を行うが、これは近世亀山の発展の基礎となり、現在における亀岡のまちづくりのルーツでもある。さらに「亀山」という地名は、光秀の時代の史料から見られるため、光秀による命名の可能性が高い。

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