2012/7/7

かめおか光秀物語・ききょうの里1 谷性寺  文化財研修記

昨5日(木)ふじもと様ご夫妻が来訪され、私達も登ったことのある亀岡半国山山麓の「桔梗の寺の花」が綺麗だと紹介していただいた。足が不自由な家内はあまり歩かずに見られる花庭園に目がなく、早速翌日の5日(金)綾部市健康プラザ・スイムが休日なので出かけることとなった。
生協の配達が10時前に終了し車を出す。かなり激しい降雨の中を丹波町から京都縦貫道に乗る。千代川ICで下りる頃には雨が止んだ。湯の花温泉とは反対の園部瑠璃渓に通じる方向から目的地の「ききょうの里」に入った

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ききょう色の旗のぼりが沿道に並んでいた。足が悪いので谷性寺の近くで家内を降ろそうとしたが駐車場入り口で下りてしまった。車を駐車場奥に止め横道から出て先に行った家内を追うと、人が走ってきて呼び止められ引き返す

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駐車場入り口の建物が入場券売り場だった。コピーした割引券を渡し、入場料400円x2人を支払う。ここが入り口の由。家内が谷性寺に先に行ったので後で入場すると断り、寺に向かう(ききょう里の配置が判っていない)

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紫陽花の咲く先に谷性寺が見える

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家内は寺へ向かわず「順路」と書かれた右手を上がっていく。ききょう園があり大きな水車が置かれ花で飾られていた

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一面にききょうが植えられネットが架けられている

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青、白の桔梗が植えられた間に紅い鶏頭が咲いている
桔梗園をでると

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清瀧山谷性寺(せいりょうざん・こくしょうじ)の案内
本尊 不動明王(明智光秀公崇敬)、明智光秀公首塚、光秀公尊像、七重石塔(光秀公の無量顕彰と慰霊)、明智山門(輪法紋、桔梗紋)

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真言宗大覚寺派 近畿楽寿観音霊場第25番札所 亀岡の自然100選(谷性寺、篠葉神社一帯)

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本堂前の仁王像

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本堂前の仁王像

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明智光秀公首塚(右側)

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楽寿観音像 布袋像

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鐘楼

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小さな朱の鳥居、宮と燈篭

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ガマが置かれた庭園

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境内に咲く桔梗が綺麗

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七重石塔、明智山門、本堂

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明智山門、七重石塔

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明智山門の説明板(桔梗紋の説明部分を下記に記録しました)

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境内に咲く八重咲きの桔梗

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境内に咲く桔梗

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ききょう園を境内から遠望

データ1(入場パンフレットより)
清瀧山谷性寺は通称「光秀寺」と呼ばれています。平安時代の創建になる真言宗の古刹で大覚寺派に属し、不動明王を本尊としています。天正年間明智光秀公は、本尊不動明王を厚く崇敬し、将兵はその加護をおいました。
 明智光秀公が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらし、その功徳を得て本懐を遂げました。
 明智光秀が豊臣秀吉の軍に山崎の戦いに破れ、坂本城に向かう途中、天正10年(1582)6月に山科小栗栖で民衆に襲われ殺されました。光秀の介錯をした溝尾庄兵衛は光秀の首を鞍覆に包んで近臣に託し、光秀が生前に信仰していた本寺に運び、懇ろに埋め葬むったとされ、従者の記が小型石碑に見られます。

 光秀公が亀岡で行った善政は挙げて限りなく、その遺徳をしのび光秀公顕彰会が発足し、毎年5月に「亀岡光秀まつり」が行われるようになりました。光秀主従の武者行列を中心とする光秀まつりはまず、谷性寺の光秀公首塚墓前での追善供養の後行われ、毎年5月3日の亀岡を飾ります。

 明智家の家紋に基づき、また光秀公の供養にといつの頃からか植えられるようになった谷性寺の桔梗は、6月下旬から8月に至るまで次々と咲きみだれます。境内が桔梗一色に塗りひろげられるところから「桔梗寺」と言われるようになりました。周囲の山を借景にした眺めはまた絶佳というべく、戦国武将光秀公の心につながっています。

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データ2(明智山門の蛙股外側の輪法紋、桔梗紋の方は未撮影です、残念!)
掲載した銘板の写真から、桔梗紋の説明部分を記録しました
前略
山門中みるべきものとしては、蛙股の欅材に彫刻された桔梗紋があげられる。この桔梗紋は、中世の桔梗紋と近世のものを繋ぐ短期間にみられる紋であり、彫刻史、紋章史上意義の深いものとなるであろう。
 さらにこの蛙股について特記すべきは、その内側に桔梗紋、外側に輪法紋が記されていることである(西願寺の頃は、内に輪法、外に桔梗)
 そして公の残影の存するところ不思議にも輪法紋と桔梗紋の霊妙な組み合わせが認められる。
 いま光秀公の足跡を辿りつつ、当地に生きる多岐にわたる変化した桔梗紋に接したとき、善政と人間尊厳の極限に迫ろうとした公の桔梗の花道に、ほのぼのとしたものを感じとることであろう。
京都の文化財を護る会 亀岡市

データ3 明智山門の桔梗紋についてパンフレットにもなく、ホームページにも有りませんでしたが、「沿道に立ち並ぶ旗の紋」がそれかも? なお次の記述を見つけました。
光秀の家紋・ききょう
家紋のききょうは古名を「おかととき」という。源氏をルーツとする大名・土岐氏は古名に因んでこの花を家紋とした。光秀はこの土岐氏の流れをくむとされる。

ルポの番外編「明智光秀の桔梗紋 旗揚げに思うhttp://nbcayabe.exblog.jp/17742730/もご覧ください。

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