2011/7/20

国宝・住吉大社と堺市の文化財を訪ねて!その5.(最終回)臨済宗大徳寺派の南宋寺と徳川家康の墓の謎!  文化財研修記

大阪府堺市堺区には臨済宗大徳寺派の有名な古刹・龍興山・南宗寺(なんしゅうじ)がある。境内には総門・仏殿・山門・唐門・鐘楼・弁天堂・方丈・禅堂・座雲亭の建築物と、塔頭(たっちゅう)の徳泉庵・本源院・天慶院がある。南宋寺は、大永6(1526)年、京都大徳寺の住職・古嶽宗亘が堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まりと言われる。大林宗套は、南宗庵で古嶽宗亘に参禅し、その後、大徳寺の住職となったが、天文17(1548)年、師の遺命により堺に帰り、南宗庵に入った。大林和尚に帰依した三好長慶は、父の菩提を発願し、南宗庵を移転して東西八町南北三十町の壮大な寺院を造営し南宗寺とした。その後、天正2(1574)年の松永久秀の乱、及び慶長20(1615)年の大阪夏の陣において南宗寺の堂宇は悉く廃燼に帰した。当時の住職、沢庵宗彭と堺町奉行喜多見若狭守勝重は、南宗寺の復興に尽力し、元和5(1619)年、現地内に再建した。南宗寺第13世住職清厳宗渭は、正保4(1647)年、山門(甘露門)を造営し、さらに承応元(1652)年には仏殿の建立に着手しており、現在の伽藍は、この頃までに整備されたと考えられる。明治3(1870)年に南宗寺住職となった牧宗宗寿は、禅堂及び鐘楼を建立し、我国最初の臨済宗専門道場を開いた。その後、昭和20(1945)年太平洋戦争で開山堂・実相庵・方丈・庫裏を消失したが、方丈と実相庵は再建され、現在、大阪府下唯一の臨済宗専門道場として多数の道俗に修行の場を提供している。徳川家康の墓の謎とは?・・・南宗寺史に大阪夏の陣の時、徳川家康は茶臼山の激戦に敗れて網代駕籠に乗って堺に逃げる途中、後藤又兵衛の槍に倒れた。何分戦時中なので全て秘密にし遺骸を南宗寺開山堂下に隠し徳川の世になって、これを久能山に改葬し、更に日光山に移送したという伝説が記録されている。謎の解明1.「徳川二代将軍秀忠が1623年7月10日に、更に1ヶ月後の8月18日に三代将軍家光が相次いでこの南宗寺を訪れている」ということが書かれている。「征夷大将軍源朝臣秀忠公 元和九発亥年七月十日 當山 御成」その次に「征夷大将軍源朝臣家光公 同年八月十八日 當山 御成」と。大阪夏の陣から8年、秀忠、家光将軍交代のこの多忙な時期に南宗寺を訪問????解明2.開山堂の床の下に卵型の石があり、江戸時代のその右の石板には「無銘ノ塔/家康サン諾ス/観自在」と刻まれている。解明3.徳川家康の墓昭和20年7月戦災で消失したが、昭和42年黄門様でおなじみの水戸徳川家の家老の末裔、三木啓次郎氏が建てたもので建立の経過が書かれている。解明4.正面の唐門は将軍とその奉行だけが通るために造られたものである。その屋根瓦の紋どころは徳川将軍の「三つ葉葵」。解明5.墓石の裏に刻まれた発起人はそうそうたるメンバーでパナソニック松下幸之助、彼は二股ソケットを売っていた時代、三木啓次郎氏に助けられており、TV番組の水戸黄門のスポンサーはパナソニック一社独占!以上はNPO法人堺ボランテア協会によるが、小生は解明6.「大ヒットした隆慶一郎氏の小説「影武者徳川家康」は死亡の場所を関ヶ原合戦に変更して、興味しんしん、さもありなん!としたこと」を加えます。

1.南宗寺の駒札
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2.南宗寺拝観入口
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3.坐雲亭(重層の洋式で山内最古の建築物。下層三間四方、上層一間四方、内部に徳川秀忠・家光両将軍御成を記した板額がある。
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4.千家一門の墓(中央に千利休宗易居士の碑、右に不審庵(表千家)、左に今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の碑が立つ。)
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5.伝説の徳川家康の墓(上記の解明2.参照)
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6.国指定名勝「枯山水の庭」古田織部好みといわれる「緑と白の境目がくっきりとしている」にが特徴です。水は一滴も使わずに石と砂で山河を表現しています。その1.
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7.同上 その2.
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8.水琴窟「曹渓の庭」に敷かれた那智黒石の一角より「キーン」と言う澄んだ音がする。
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9.利休好みの茶室等の駒札
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10.実相庵(利休好みの茶室、二畳台目、平天井と蒲の落天井の二段構成)
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11.津田一門の墓(利休と並び称せられる津田宗達、その子・宗及一門の墓。今は宗及の娘婿・半井ト養の墓碑も並んでいる。
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12.唐門(国受容文化財、唐門詳細洋式から17世紀のものと見られている。簡明な構造の向唐門である。木鼻の絵様繰形は甘露門と通ずる共通性が認められる。戦災で消失した東照宮へ通ずる唐門である。上記の解明4を参照)
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13.徳川家康の墓(東照宮跡碑、文政年間の建立と言われた東照宮は空襲で消失、その跡に東照宮跡碑が昭和43年に建立された。上記の解明5.参照)
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14.仏殿(国受容文化財指定、仏殿は大雄宝殿とも言われ,方三間の主室の周囲に裳階をまわした方5間本瓦葺の建物で小規模ながら純粋な禅宗様仏殿である。中央に釈迦尿来、左右に文殊・普賢の両菩薩を安置し、天井には狩野信政筆「八方睨みの龍」が描かれている。
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15.仏殿内部(天井の龍の撮影できず、残念)
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16.鐘楼(文政年間に消失したものを明治初年に牧宗住職が再建)
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17.山門(甘露門、国重要文化財、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺、禅宗様と和様の折衷様式になっており、棟札により正保4(1647)年の建立であることがわかる。清厳宗渭筆「甘露門」の扁額が掛かっている。
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18.南宗寺総門(間口二間、奥行一間の四足門。大林和尚筆の「龍興山」の扁額が掛かっている)
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19.塔頭・本源院への参道
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20.本源院山門
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