2017/7/27

遠州浜松を見る!17.遠州の二俣諏訪神社と二俣まつり!  文化財研修記

浜松市天竜区二俣町には全国に約25,000社の諏訪神社があり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。この二俣諏訪神社の「二俣まつりでは山車」の行列で有名です。二俣まつりに屋台が登場したのもはっきりした年代は明らかになっていないが古文書(田光甚八附込日記)
の慶応元年(1865)9月1日の記事に「天気よし新町屋台、横町土居まで来る雨降り出す。」との記述がありこのとき既に屋台があったことを裏付けている。また口伝では江戸大角力雲竜一行が栄林寺で巡業した年かそれに近い年とされている。巡業の年は元治元年(1864)だから、慶応元年より前から屋台が曳かれていたことは確かである。


1.天竜浜名湖鉄道・気賀駅(直虎一日乗り放題券で乗車)
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2.列車が来ます!
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3.車窓から見る風景!
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4.西鹿島駅で乗り変え「二俣仲町駅」に着くと「清龍寺」の案内板が目立ちます!
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5.本田総一郎伝統館前を通りますが、時間の都合でスキップです!
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6.二俣諏訪神社が右手上に見えて来ました!
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7.中々見事な神社です!
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8.同上
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9.下記をクリックして、「動画」で「二俣まつりでの山車の巡航」を見て下さい!
https://youtu.be/qb-F4akG7k4


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2017/7/25

遠州浜松を見る!16、気賀の関所跡と大河ドラマ館!  文化財研修記

浜松北区の井伊谷の龍潭寺バス停からラッピングバスで気賀関所跡・大河ドラマ館へ向かう。所要直虎のラッピングバスで15分でした。姫街道の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることができますが、いわゆる「姫街道」と現代でも称される街道は、天正15年(1587)に、本多作左衛門が要所に新宿を設けたことから始まりました。その後、道路も次第に整備され、人馬の継所として発展してゆきました。慶長6年(1601)には東海道宿駅の制が幕府によって定められ、この街道も「東海道本坂越」と名づけられました。この街道は東海道の脇街道、脇往還で、見付から東海道と別れて市野に入り、気賀を通って三ケ日に出て、本坂峠を越えて嵩山(すせ)を通り、豊川を渡って御油(ごゆ)で最終的に東海道と合流する15里14町(約80キロメートル)の道程でした。街道の主な目的としては、浜名湖入口の渡しを避けることにありました。当時、浜名湖を渡ることは大変危険であったためです。宝永4年(1707)10月4日における大地震では、壊滅的な打撃を受けた浜名湖南部を迂回するため、被害の少なかった姫街道はそれまで以上の賑わいとなりました。あまりの混雑ぶりに、宝永7年(1710)には幕府により大名の本坂越通行が禁止されましたが、交通量は減ることはありませんでした。その後も幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻しましたが、公家や武家の奥方、姫君女中衆はこの街道を使用し続けました。これにより本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。気賀の関所は、この本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。この大河ドラマ館横の「気賀の関所跡」は後日、離れた場所に再建されたものですが、一見の価値はあります。


1.龍潭寺バス停のラッピングバス
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2.左下側に気賀の関所と直虎大河ドラマ館があります!
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3.再建された気賀の関所門
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4.役所
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5、武士階級お調所
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6.庶民のお調所
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7.大名駕籠なども展示されています。
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8.再建された気賀の関所跡のすぐ横には「直虎大河ドラマ館」があります。
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9.場内撮影可能!着用された衣装の一部です!
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2017/7/23

遠州浜松を見る!15.井伊谷城跡(いいのやじょうあと)と麓の館との関係!  文化財研修記

浜松市北区引佐町には井伊谷(いいのや)城跡と館跡がある。平安時代末期、井伊家初代当主・井伊共保によって築城されたと伝わっている。南は三方からの敵の動きが分かり、北は標高が高い山が連なっており、攻めにくい地形に造られている城である。本丸、二の丸、三の丸などで構成されていた典型的な山城である。戦国時代以前は三岳城が井伊氏の本城だった。南北朝時代の記録は、三岳城を「井伊城」としている。この2つの城の関係はよく分かっていないが、南北朝時代は、井伊谷城が、普段、井伊氏が戦がないときに生活していた居城で、三岳城が、戦になったときに立て籠るための詰め城だったとされる。(しかし、戦国時代の井伊家の詰め城は三岳城から、背後の山に変わった。)南北朝時代の井伊道政は南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王を助け、井伊谷城に招いた。親王は道政の娘を正室として迎えている。また宗良親王の子・尹良親王も井伊谷城に生まれたと伝承されている。親王は井伊谷や遠江国についての歌を多く残しており、井伊谷城跡の山裾には宗良親王と、多遅摩毛理(古事記・日本書紀に登場する男性)とを祀る二宮神社がある。井伊谷城は、暦応3年(1340)に北朝方(室町幕府)の高師泰・仁木義長らに攻められ落城した。その後、井伊氏は、駿河の遠江守護となった今川の支配下に置かれることになった。戦国時代になると、井伊氏は今川に従軍する。永禄3年(1580)に21代目当主・井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死。その後家督を井伊直親が継いだが、今川に謀反を疑われ掛川で殺害される。その後、直親の一児・虎松(のちの井伊直政。徳川四天王の一人)が城主となるまでの期間、井伊直虎(井伊直盛の娘で元井伊直親の婚約者)が城主を務めた。城の南にある井伊氏の菩提寺・龍潭寺は井伊谷城の防衛の役割もあった。直虎は井伊家を任されてからも身を寄せていた龍潭寺に留まることはできたが、井伊谷城に移る決断をした。理由は井伊家を継ぐのが確実な虎松に武将としての振る舞いを城できちんと学ばせる為と、城が醸し出す「戦場の一部」という雰囲気に慣れさせるためだと考えられている。今川で直虎への反感を持つ者が多くなった事と、甲斐国の武田氏が駿河国に侵攻してきたことによって、今川寄りの家臣小野道好が今川氏真から、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢せよとの命を受け入れたことで、直虎は城主の座を奪われてしまい、直虎と虎松は龍潭寺に追いやられてしまう。しかし、武田信玄が亡くなった事で武田の力は弱くなり、徳川家康と井伊谷三人衆の力を借りて直虎は再び井伊谷城を取り戻した。(ウイキペデアより一部抜粋・加筆)

1.井伊谷周辺図
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2.地域遺産センターで井伊谷城関係を見る!
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3.典型的な山城と麓の館の位置!
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4.雨降りなので「井伊谷城跡(城山公園)」へ登るのは中止する!
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5.地域遺産センターで撮影
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6.井殿の塚の駒札
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7.井殿の塚(天文3年(1544)、家老の小野道高の讒訴で謀反の疑いを掛けれれ、駿河で今川義元に殺された井伊直満と弟の直義のお墓。
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2017/7/21

遠州浜松を見る!14.井伊家の氏神・渭伊神社と天白磐座遺跡!  文化財研修記

浜松市北区引佐町井伊谷1150には玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命の三神を祀る式内社で井伊家の氏神の渭伊神社(いいじんじゃ)がある。「井伊共保公誕生の井戸」付近は、昔は渭伊神社があったとされています。昔から井伊谷地域「井の国」の中心として、井戸や井水を祭祀対象として信仰されてきました。平安時代、井伊家初代の井伊共保公が渭伊神社内の井戸で誕生したことから、「渭伊神社」は井伊家の氏神となりました。南北朝時代に龍潭寺境内から現在の場所に移転したと言われています。渭伊神社裏には古墳時代より祭祀場として使われた巨石群があるので、信仰上あえてこの地が選ばれたのでしょうか。ご祭神は玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命の八幡の三神を祀ることから、「正八幡宮」「渭伊八幡宮」とも呼ばれた時期があったようです。大河ドラマでは第1回この巨石がある天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)が登場しています。井伊直虎・井伊直親・小野但馬守の子ども時代の子役達が村人達を助ける「竜宮小僧」を探し回る場面で、この場所が使われました。

1.渭伊神社の鳥居
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2.渭伊神社の標柱
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3.拝殿と後部の本殿を斜めから見る!
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4.拝殿を正面から見る!
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5.見事なご神木
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6.駒札 1、
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7.駒札 2、
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8.天白磐座遺跡へ登る!
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9.本殿を横から見る!
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10.駒札
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11.天白磐座遺跡の一部(雨のため大河ドラマ第1回目の竜宮小僧を探す雰囲気は無かった!)
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2017/7/19

遠州浜松を見る!13.おんな城主直虎と南渓和尚の位牌のある妙雲寺!  文化財研修記

浜松市北区神宮寺28−3には渭伊神社の参道入り口にある鳥居脇に建つ妙雲寺(みょううんじ)がある。井伊直虎と龍潭寺2世住職・南渓和尚の位牌が安置されています。直虎の位牌は2015年11月に位牌堂の裏側から、南渓和尚の位牌は2016年1月にそれぞれ発見されました。2人の位牌は毎週土・日および祝日の午前9:30から午後4:00まで一般公開中です。ケースに収められていますが、戦国乱世を生き抜いた女城主の位牌を間近に見られる絶好の機会です。本堂内の床の間には直虎の大叔父にあたる南渓和尚の肖像画も飾られています。

1.井伊谷周辺図
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2.妙雲寺の山門
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3.駒札
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4.本堂
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5.右、南渓和尚の位牌、左、直虎の位牌
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6.同上
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7.位牌をフラッシュを出して撮影は出来ないので「パンフレット」を見て下さい!
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8.直虎のお墓は妙雲寺の敷地ですが、ぽつんと一つ立っています!
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2017/7/17

遠州浜松を見る!12.井伊家の家祖・井伊共保(ともやす)公出生の井戸!  文化財研修記

浜松市北区引佐町井伊谷には井伊 共保(いい ともやす、寛弘7年1月1日(1010年1月118日)〜寛治7年8月15日(1098年9月8日))84歳の長命で亡くなったは、平安時代の人です。遠江守藤原共資の養子で井伊氏初代当主です。井伊谷にある伝井伊共保出生の井(浜松市指定史跡)寛弘7年正月元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく、聡明であったという。7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江国司藤原共資の養子となり、藤原共保と称し共資の一女と婚した。長元5年(1032)家督を継ぐと故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称した。1093年、84歳で没し、八幡山地蔵寺(現:龍潭寺)に葬られた。また別説として、延喜年間に奈良より荘司として着任した三宅好用が井伊谷に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資に嫁し、共保はその実子として生誕したとも伝えられる(三宅氏の家紋は井伊氏と同じく橘です)。ウイキペデアより抜粋掲載。)

1.井伊谷周辺図
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2.正面の道は通れず横の板で作られた道を通って「井伊共保公出生の井戸」を見に行く!
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3.その井戸
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4.「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」と記された碑!
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5.時の大老・井伊直弼の歌碑・嘉永4年(1851)6月5日龍潬寺を訪れた時の歌碑!
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2017/7/15

遠州浜松を見る!11.臨済宗妙心寺派の古刹で井伊家伝来の墓地のある龍潭寺!2−2.  文化財研修記

浜松市北区引佐井伊谷1989には臨済宗妙心寺派の古刹で虚空蔵大菩薩を祀り井伊家歴代のお墓のある龍潭寺(りゅうたんじ)がある。寺伝によれば天平5年(733)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384〜1392)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。戦国時代の永禄3年(1560に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。又、小堀遠州作の国指定名勝の「龍潭寺庭園」もあり、見事な景観が見れる。

1.本堂に入った所の仏像!(丈六の釈迦如来坐像ですね!)
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2.ご本尊「虚空蔵大菩薩」様を祀る見事な須弥壇
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3.ご本尊の左側には尼僧姿の直虎公が祀られています!
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4.本堂から仁王門を見ます!
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5.開山堂に向かう回廊の欄間には見事な龍の彫刻があります!
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6.開山堂への途中に祀られている地蔵菩薩立像です!
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7.井伊家寄進の籠
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8.井伊家寄進の赤備えの具足
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9.歴代の住職が祀られている開山堂内!
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10.開山の黙宗瑞淵大禅師が祀られています!
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11.井伊家霊殿への入口
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12.井伊家霊殿内(24代井伊直政公木像も祀られています。)
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13.本堂裏側には「小堀遠州作庭の国名勝・龍潭寺庭園}の一部です!
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14.同上
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15.下記をクリックして、「動画」でこの見事な庭園全体を見て下さい!詳しい説明も動画に掲載していますよ!
https://youtu.be/CRPcL5MjnN4


16.龍潭寺の「ナギの巨木」樹高19メートル,幹周2.6メートルもあります!
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2017/7/13

遠州浜松を見る!10.臨済宗妙心寺派の古刹で井伊家伝来の墓地のある龍潭寺!2−1.  文化財研修記

浜松市北区引佐井伊谷1989には臨済宗妙心寺派の古刹で虚空蔵大菩薩を祀り井伊家歴代のお墓のある龍潭寺(りゅうたんじ)がある。寺伝によれば天平5年(733)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384〜1392)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。戦国時代の永禄3年(1560に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。又、小堀遠州作の国指定名勝の
「龍潭寺庭園」もあり、見事な景観が見れる。

1.龍潭寺境内図
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2.雨の山門
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3.松岳院跡地の駒札(画像をクリックされると拡大して読めますよ!)
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4.松岳院跡地
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5.仁王門
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6.駒札
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7.井伊直政出世の地碑
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8.同上 駒札
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9.鐘楼(本堂やこの鐘楼など6棟は江戸時代のもので県指定有形文化財です!)
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10.本堂(内部は次回で見学します!)
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11.井伊家歴代のお墓へ向かいます。この建物は開山堂です!
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12.開山堂と後部の井伊家歴代を祀る霊殿です!
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13.井伊家歴代のお墓!おんな城主直虎のお墓もあります!
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14.同上 駒札(画像をクリックすると拡大してよめますよ!)
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15.井伊家家臣団のお墓についての駒札
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16.井伊家家臣団のお墓の一部
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2017/7/11

遠州浜松を見る!9.後醍醐天皇第4皇子宗良親王を祀る井伊谷宮!  文化財研修記

浜松市北区引佐町井伊谷1991には後醍醐天皇の第4皇子の宗良(むねよし又はむねなが)親王を祀る井伊谷宮(いいのやぐう)がある。今より約650余年、動乱の南北朝時代に一品中務卿(いっぽんなかつかさきょう)征東将軍として、この地を本拠に50余年の間、吉野朝方のためにご活躍になられました。その間、遠江・駿河・三河・甲斐・信濃・越後・上野・美濃等を転戦し、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称されました。親王は、御幼少の折から御出家せられ、やがて京都比叡山天台座主となられましたが、時代の波は親王にも及び、還俗して宗良親王となり、戦陣の中へ身を置かなくてはならなくなったのです。また、親王は、御幼少の頃より和歌に秀で、終生和歌の道の聖と仰がれました。唯その御生涯は、誠に悲惨な人生であり困苦辛難に満ちたものでしたが、どんな苦しい流浪の中にあっても和歌を離さず、準勅撰「新葉和歌集」(吉野朝の歌人だけを集めた)の編纂を始め、親王の歌集である「李花集」など当時の歴史資料としても貴重な和歌を多く遣されました。晩年再びこの地を訪ねられ、元中2年8月10日御歳73才を以ってこの地で薨去されたと伝えられています。和歌に秀でておられたことから「学徳成就・合格」の神様として崇められ、また73歳と、当時としては大変御長寿であられたため「長寿・除災開運」の守護神として信仰されています。当宮は、明治5年に明治天皇の思し召しにより御鎮座、翌6年には静岡県内でも数少ない官弊社(井伊谷宮は官弊中社)という格式高い神社となりました。以来昭和5年には、昭和天皇が御親拝になり、続く昭和58年には、現在の天皇皇后両陛下がご参拝される等、皇室とも大変関係深い神社であります。(ウイキペデアより抜粋)

1.JR浜松駅前の15番バス乗り場から見るホテルクラウンパレス浜松(かなり古いホテルだが801号室禁煙で快適な2連泊を楽しんだ!)
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2.いいね直虎1DAYパス2,300円(龍澐寺拝観券、大河ドラマ館入場券、遠鉄バス・遠州鉄道・天竜浜名湖鉄道一日乗り放題券を利用して見学開始、個別購入だと4,300円はする。)
井伊谷宮下車で井伊谷宮へ徒歩数分。
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3.井伊谷の地図(画像をクリックすると拡大して良く判りますよ!)
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4.手水舎
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5.山門
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6.山門から井伊谷宮の拝殿を見る!
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7.拝殿(雨降りで撮影が難しい!)
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8.拝殿の内陣
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9.駒札
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10.銘石「慈母観音石」
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11.同上 駒札
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12.拝殿と後部の本殿を見る!
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13.摂社 井伊社の駒札
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14.井伊社
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15.宗良親王の墓標
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16.お墓は奥にあり、見えません!
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2017/7/9

遠州浜松を見る!8.国指定重要文化財(中国明朝風建築様式)の仏殿・方丈を持つ宝林禅寺!  文化財研修記

浜松市北区細江町中川65−2には国指定重要文化財(中国明朝風建築様式)の方丈を持つ黄檗宗の初山(しょざん)宝林禅寺(ほうりんぜんじ)がある。この寺は黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した明国の僧独湛(どくたん)禅師が、旗本金指近藤家の2代目近藤登之助貞用の尊崇をえて、寛文4年(1664)に近藤家の菩提寺として開創された。 創建当時は、寺領100石を有し黄檗禅の専門道場として栄え七堂伽藍も整い、5万坪を超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいたと言うのですから、近藤貞用公の当山への帰依の厚さが窺えます。以後、金指近藤家と気賀近藤家の菩提寺として遠州地方の黄檗宗の専門道場として栄えました、明治になると近藤家の庇護を失った当山は、廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しました。しかし、現存するお堂の中には創建当初の面影を色濃く残すものが数多く含まれ、なかでも仏殿・方丈は黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝る大変貴重な建物で国の重要文化財に指定されています。

1.宝林寺境内図
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2.駒札
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3.山門は工事で覆われていたので廻りこんで国重文の仏殿に至る!
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4.仏殿をアップで見る!
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5.仏殿の見事な扁額を見る!
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6.仏殿内のご本尊の釈迦三尊像(静岡県指定文化財)
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7.仏殿の両側に立ち並ぶ二十四善神像(静岡県指定文化財)
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8.一部をアップで見る!
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9.仏殿の後ろにある国重文の方丈
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10.当時中国から持ち帰られた「金運上昇のパワアースポット金鳴石」(支那金鳴石初山永宝と刻まれている。)叩くと見事な音色が出た!今後の金運間違いなし!
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11.龍文坊大権現を祀る龍文堂
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12.同上 内陣
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13.報恩堂(浜松市指定文化財)
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14.この堂は独湛禅師が建てられた物で宗祖隠元禅師の等身大の木造を祀り、近藤家の代々の位牌や独湛禅師のご両親の位牌が祀られています。
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15.もう一度仏殿と右手に観音堂を見てお別れします!
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