2017/5/28

綾部バラ園、福知山の古刹・金光寺、第8回夜久野高原手づくり市を見る!  文化財研修記

5月28日(日)朝8:50に満開の綾部バラ園を見て、福知山市の三岳山は、平安時代には比叡山末寺の蔵王権現を祀る修験場として開かれました。此処にある高野山真言宗の金光寺(きんこうじ)の見事な不動堂は多くの山伏が修行をしていたことを証明しています。しかし、戦国時代、織田信長と比叡山の対立のため、明智光秀などの手によって焼き討ちにあうなど大きな打撃を受けたようです。三岳山周辺には、路傍の石仏も修験道にかかわる不思議な姿をしたものがあり、平安時代にさかのぼる仏像が村々の小さなお堂に残され、当時の繁栄が偲ばれます。金光寺は、三岳山修験の中心であった寺院です。山腹に開かれた寺院は、修験場であった当時をしのばせるものです。その後、第8回夜久野高原手づくり市を見学、お好みの「たこ焼き」を昼食としました。

1.満開の綾部バラ園(入場料、駐車料は無料です!)
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2.満開の見事なバラのアーチ
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3.見事なバラ
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4.福知山市三岳(みたけ)地区にある高野山真言宗の金光寺の標柱
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5.駐車場にある福知山朽木初代藩主朽木稙晟の歌碑!(下の句は「けさぞみたけの山ははつ雪」です。)
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6.福知山市教育委員会の駒札
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7.巨大なタブの木と不動堂
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8.不動堂
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9.不動堂内部を覗いて見ました!
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10.不動堂を斜めから見る!
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11.不動堂からの遠望!
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12.本堂を見る!
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13.本堂前の庭園の一部
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14.もの凄い人での福知山市の「第8回夜久野高原手づくり市」です!
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15.昼食用に食べた7個500円のたこ焼きは濃いい味だが美味かった!
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16.8回連続出店の「綾部の竹炭工房伝徳」です。家内も竹炭買っていましたよ!
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2017/5/28

京を見る!18.弘法大師が開基したという五条天神社(天使の宮)!  文化財研修記

京都市下京区松原通西当洞院天神町には弘法大師(空海)が開基したという五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)がある。通称は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された。社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する。なお、社号の天神と菅原道真とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られている。社伝によれば、創建は延暦13年(794)、平安京遷都の折、空海が勧請したとされる]。病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、室町時代以降は疫神、医道の祖神とされた。また伝教・弘法の両大師も唐への出発前、当社において無事帰国を祈願している。『義経記』では、一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する。『祇園社記』によれば、久寿年間(1154年 - 1156年)等の一時期には、祇園社(のちの八坂神社)の末社であったとされている。主祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)、配祀は大巳貴命(おおなむぢのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)。例祭には厄祓けに訪れる参詣者が多い。また節分には宝船図が授与される。この古図は日本最古のものとされ、船に稲穂を一束乗せただけの簡素なものです。

1.五条天神社と標柱
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2.駒札
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3.見事な拝殿
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4.拝殿をアップで見る!
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5.拝殿の内陣を通して本殿を見る!
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6.本殿の扁額
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7.摂社の筑紫天満宮
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8.多くの摂社群
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2017/5/26

京を見る!17.親鸞上人入滅の地碑!  文化財研修記

京都市下京区松原通(旧五条通)西洞院東入る藪下町にある光圓寺の門前にあり、石碑に「五條西洞院月輪本荘 親鸞聖人御入滅之地 花園殿旧跡」と陰刻されています。 『御伝鈔』「熊野霊告」に、「(親鸞聖人は)五條西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ」とあります。 弘長2年(1262)11月28日親鸞聖人はこの地で亡くなり、亡骸は押小路ノ南、万里小路東の地(中京区柳馬場押小路下る虎石町)にあった善法坊に移されたと伝えられています。 入滅地、善法坊は富小路通三条であったともいわれています。享年90歳。
聖人存命のころのこと、仁治元年(1240)2月常陸国(茨城県)那珂西郡大部郷の住人平太郎という人が、熊野参詣の途中、五條西洞院に住む親鸞聖人のもとを訪ね、熊野詣での是非について訊ねた、とあります。

1.光圓寺(こうえんじ)山門
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2.「親鸞聖人御入滅之地 花園殿旧跡」の碑
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3.光圓寺の駒札
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4.本堂
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5.同上
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2017/5/24

京を見る!16.猿田彦命と天鈿女命を祀る恋のパワースポット松原・道祖神社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸松原西入玉津島町にある新玉津島神社から、さらに西の新町通の角には祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀る道祖神社(どうそじんじゃ)があります。猿田彦命はニニギノミコトの天孫降臨のときの道案内役でした。だから道の神、旅人の神様とされます。 天鈿女命は天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったときに踊りを踊って誘い出した芸能の神様です。ふたりの神様はその後結ばれたということで、縁結びや子孫繁栄の祈願の対象ともなりました。この辺りは江戸時代までは市場や集落があり、人の往来の多いにぎやかな場所だったそうです。亀山稲荷神社を参拝して、更に西の新町通りの角に道祖神社(どうそじんじゃ)があり今や恋のパワースポットで人気がでています。

1.松原・道祖神社
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2.駒札
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3.松原・道祖神社の扁額が掲げられている鳥居!
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4.拝殿
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5.拝殿をアップで見る!
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2017/5/22

京を見る!15.丹波国の亀山藩京都屋敷跡に建つ亀山稲荷神社!  文化財研修記

京都市下京区松原通室町西入中野之町には、露地奥に小さな稲荷神社が祀られています。この地は、丹波国亀山藩の京都藩邸の跡地で、この神社はその藩邸に祀られていた稲荷神でした。たいへん小さな神社ですが、参道入り口には 「丹波国亀山藩京屋敷跡」の石標が立ち、意外と目立っている印象です。下京区の多くの小さな神社は情報も非常に少ないのですが、今回の亀山稲荷神社に関しては、中野之町が掲示板を立てているので、全文を引用させてもらいます。
「この中野之町付近には、江戸前期、芸州広島藩42万石の浅野氏松平安芸守の京屋敷がありました。屋敷は間口十一間、奥行三十間あったということです。その後、享保十五年(1730)頃、丹波篠山藩5万石の形原(かたはら)松平紀伊守信岑(のぶみね)の京屋敷となりました。信岑は寛延元年(1748)に丹波亀山藩5万石に転封され、以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就いて、また京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を勤めました。そして、幕末の慶応3年(1867)には京都市中取締役を努め、明治3年(1869)の版籍奉還で、藩名を亀岡と改称しました。 明治3年(1870)2月にこの京屋敷は民有地となり、明治7年(1874)には、この京屋敷三棟は火事(稲荷焼)で類焼した修徳小学校(下京区新町通万寿寺上るにあった下京第14番組小学校 平成4年(1992)に廃校)の仮校舎にも使用され、明治25年(1892)の京都市第二高等小学校校舎の建設時まで存続したということです。」
 この亀山藩京都松原邸の鎮守神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧大明神(しらたきだいみょうじん)と花月大明神(かげつだいみょうじん)になります。かつては各々の祭神の2つの祠があり、江戸時代以来、周辺地の人々から尊崇され、亀山講もあったと伝えられます。そして、明治時代以降は、この地の中野之町が維持管理していて、大正5年(1916)の旧亀岡藩士族有志の碑も残っているということです。現在も、正月祭や初午祭、火焚祭が執行されていて、諸厄除災、商売繁昌、家庭円満のご利益があるとして地域の信仰を集めているようです。 

1.駒札
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2.丹波国亀藩京都屋敷跡碑
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3.正面が亀山稲荷神社で朱の鳥居が目立ちます!
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4.亀山稲荷神社で祀っている白龍大明神、花月大明神の碑も両側にあります。
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5.亀山稲荷神社
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6.正面から参拝します!
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7.アップで見ます!
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2017/5/20

京を見る!14.平安時代の著名なる歌人・藤原俊成所縁の新玉津島神社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸通松原西入ル玉津島町32には平安時代末期の著名なる藤原俊成(ふじわらとしなり)所縁の新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)がある。新玉津島神社は、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人の藤原俊成のゆかりの神社です。1186年に、玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を、藤原俊成が自邸内に勧請したのが始まりです。1183年に後白河法皇の院宣により藤原俊成は、この邸宅を和歌所とし、「千載和歌集」を編纂し始めました。江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季注が、約七年間この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書の編纂に励みました。
これらの由縁から今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れています。

1.駒札
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2.木造の鳥居と新玉津島神社
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3.境内社の天満宮と秋葉神社
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4.拝殿を正面から見る!
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5.拝殿をアップで見る!
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6.本殿を右側から斜めに見る!
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2017/5/18

京を見る!13.平安時代の歌人・藤原俊成を祀る俊成社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸松原東側に藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい・としなり)永久2年(1114)〜元久元年(1204)の邸宅跡に俊成社(しんぜいしゃ)がある。平安時代後期〜鎌倉時代初期の官人・歌人。 藤原俊忠の子。藤原定家の父。幼い時に父と死別、民部卿顕頼の養子となり名を顕廣といったが54歳の時に俊成と改名。63歳の時に出家し、法名・釋阿。
 後白河法皇の院宣を奉じて、文治3年(1187)『千載和歌集』を撰集。従三位皇太后宮大夫に至る。
百人一首に以下の歌が収められている。

 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

                 皇太后宮大夫俊成

勅撰集に415首入集されている平安時代末期の代表的歌人です。

1.俊成社
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2.駒札
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3.アップで見る!
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4.同上
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2017/5/17

綾部水源の里・老富(おいとみ)の見事なシャガの群生と山の神・市茅野杉を見る!  綾部の文化財

5月17日(水)午後、家内の運転で綾部市奥上林(おくかんばやし)にある水源の里・老富(おいとみ)のシャガ(射干、緒莪、胡蝶花)の見事な群生と山の神さん市茅野杉(いちかやすぎ)の群生を見に行ってきた!我が家にもシャガがあり毎年10数本が庭の塀沿いに白い花を約3週間咲かせます。それに比べて老富のシャガや市茅野杉の神様さんと呼ばれる杉の原木は見事なものであった。

1.パンフレットの1.
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2.パンフレットの2.老富(おいとみ)はJR綾部駅から車で1時間(福井県境)にあります。
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3.第2のパンフレットの「赤マーク」がシャガの群生地であり、第2駐車場(臨時駐車場)に
  車を置き、徒歩10分〜一番奥の森の広場へは約15分です!駐車場の旗!
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4.見事な盆栽を多数庭に展示されている家を右手に見る!
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5.市茅野杉(いちかやすぎ)と背後のシャガの群生を見る!
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6.同上
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7.下記をクリックして、「動画」でシャガの群生と市茅野杉を見て下さい!
https://youtu.be/9kodK0iXaOE


8.山の神さん「市茅野杉」の母樹です!祀られています!
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9.駒札
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10.更に奥へ登って行きます!
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11.ミツマタの群生の木は4月で終わっています!来年に期待して下さい!
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12.更なるシャガの群生!
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13.下記をクリックして、「動画」でシャガの群生を見て下さい!
https://youtu.be/T8-znr8Moao

14.更に登ります!
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15.最後の地点「森の広場」です!
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16.下記をクリックして、「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/lyw9PGt8mLE

17.下記をクリックして、「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/uOPkIHMU900

18.見事なシャガの群生を最後に見て帰ります!
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19.我が家の終わりの一輪のシャガです!
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2017/5/16

京を見る!12.がん封じで有名な因幡堂(平等寺)!  文化財研修記

京都市市下京区松原通烏丸東入には今から約一千年前、橘行平(たちばなのゆきひら)という人がいました。この方は第30代敏達(びたつ)天皇の子孫で、従四位上(じゅしいじょう)中納言の貴族でした。因幡堂縁起によれば、天徳3年(959)橘行平は、村上天皇の命で因幡国(現鳥取県)の一宮に赴きました。そこで神事を済ませ帰洛の途中、行平は急病になりました。平癒を神仏に祈り続けていると、ある夜、夢に異形の僧が現れこう告げました。「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に遠くの仏の国からやってきた。あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。そうすれば必ず病気は治る。さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう」行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を探らせたところ、お告げの通り一つの浮き木がありました。そしてそれはよく見ると身の丈五尺余り(165センチ位)の薬師如来の尊像でした。行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て薬師如来像を祀りました。これが「因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」です。その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。ところが帰京した行平にまたある夜、一人の異形な僧から夢告があります。「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」行平が夢から覚めると丁度、屋敷の西門に来客があると家人が呼びに来ました。行平が「どなたですか」と問うと「因州の僧だ」と返答がありました。行平は驚いて西の門を開けさせたところ、あの薬師如来の尊像が立っておられたのです。さっそく行平は五尺余りの尊像を碁盤の上にのせて安置しました。これが長保5年(1003)4月8日の黎明のことでした。行平は屋敷を改造してお堂を作り、このお堂を因幡堂と名付けたのです。その後、この霊験譚は平安京の人々に広く親しまれ、第66代の一条天皇(在位986〜1011)のお耳に入り、天皇ご自身信心なされて、8ヶ所の子院を建立され、皇室の勅願所とされました。歴代の天皇もご尊崇が厚く、ご即位ごとに祈祷し、また「薬師もうで」といい、勅使の御月参りもありました。源平争乱の時代、第80代の高倉天皇が因幡堂のすぐ南「東五条院」にお住まいになられました。因幡堂の正面真南の通りを不明(あけず)門と呼びますが、これは五条院の御所に遠慮して南門を開けなかったためです。承安元年(1171)には、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を贈られました。

1.因幡薬師の標柱
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2.因幡堂(平等寺)
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3.駒札
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4.本堂内
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5.同上
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6.巨大な青銅の常夜燈
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7.本堂の鈴打ち!
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8.見事な須弥壇
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2017/5/14

京を見る!11.かって東西本願寺以上の勢力を持っていた浄土真宗佛光寺派本山佛光寺!  文化財研修記

京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町397には、かっては東西本願寺以上の勢力のあった浄土真宗佛光寺派本山佛光寺(ぶっこうじ)がある。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。「仏光寺」と新字体で表記されることもあるが、正式表記は「佛光寺」である。承元元年(1205)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞は越後国に配流された。寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。佛光寺教団の直接の母体は、武蔵国の荒木門徒(第3世源海)、阿佐布門徒(第4世了海)である。存覚の協力と時衆の影響の下、光明本尊・絵系図・名帳などの媒体を用いて布教活動に力を入れ、精力的に西国の布教をおこなう。結果、畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城となった。これに対して本願寺第3世法主覚如は、建武4年(1337)に『改邪抄』を著し、絵系図などを真宗にあらざるものと批判する。元応2年(1320)、第7世了源により、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、山科から今比叡汁谷(しるたに)または渋谷(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移した。史実としての佛光寺は、了源が山科に建てた草庵を今比叡汁谷に移して寺格化したことをもって開創とする。佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。元亨元年(1321)、覚如により親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化し、「本願寺」と号する〈大谷〉本願寺の成立)。
寺基の移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛をきわめる。一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465)1月9日に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまで次第に荒廃していく。佛光寺は、興隆にともない天台宗・延暦寺の弾圧が強まっていく。応仁元年(1467)、第13世光教の時に応仁の乱が起こる。京都の街は戦火に巻込まれ、佛光寺も諸堂を焼失する。乱のさなかの文明3年(1471)、蓮如は吉崎で布教活動を開始し本願寺教団は急速に発展していく。文明13年(1481)には、第14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として別に創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参してしまった。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。残った有力末寺6坊は、経豪の弟経誉を知恩院からよび戻し、佛光寺第14世とした。以上の経緯から経豪は佛光寺歴代に数えられていない。天正14年(1586)に豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門の龍臥城(現在地)に移す。「仏光寺通」という通りの名前にもなっている。住職は、室町期以降二条家の猶子となり、妙法院門跡の許で得度する慣習があった。やがて准門跡に列せられ、僧正位を代々受ける。明治になり苗字公称が義務づけられると、澁谷姓を名乗った。明治29年(1896)6月9日、管長澁谷隆教が男爵を授かって華族に列せられた。(ウイキペデイアより抜粋掲載)

1.佛光寺の見事な西山門
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2.山門の彫刻を見る!
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3.山門から御影堂を見る!
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4.見事な鐘楼です!
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5.佛光寺正面の山門
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6.御影堂
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7.阿弥陀堂(本堂)内部には国の重要文化財の木造聖徳太子像が祀られています。
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8.阿弥陀堂から御影堂を見る!
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9.阿弥陀堂の彫刻を見る!
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