2017/9/23

越後を見る!16.越後一ノ宮の見事な弥彦神社!3−1!  文化財研修記

新潟県西蒲原郡(にしかんばらぐん)弥彦村には越後一ノ宮の弥彦神社がある。彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。越後平野西部の弥彦山(標高634メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わいます。ご祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
江戸時代には、越後高田藩藩主・松平忠輝が500石の社領を寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家は明治時代まで高橋氏が世襲した。
この頃神主であった高橋左近光頼により、神道家・橘三喜の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1891)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。国学者の平田篤胤は、彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。明治4年(1871)、近代社格制度において国幣中社に列した。天長10年(833)7月3日、名神に預かる 。社殿は明治45年(1912)に焼失し、大正5年(1916)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ本殿は三間社流造です。幣殿、拝殿、万葉道があり弥彦山頂には御神廟(奥の宮)が鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。朱の大鳥居は弥彦と吉田を結ぶ県道29号線上、矢作駅近くに立つ。昭和57年(1982)の建立で高さ30メートルで、建立当時は日本一であった。

11.JR長岡駅08時06分の普通列車に乗車、JR東三条駅に08」;32到着!
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2.乗り換え時間待ちが長いのでタクシーでJR弥彦駅へ向かう!3,000円余!朱の大鳥居を潜る!
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3.朱のJR弥彦駅
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4.弥彦駅から観光案内所に徒歩で向かう!
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5.地図(バスは1時間に1本)徒歩10分と書いてあるが、登り坂で大変だ!
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6.村の参道には「おやひこさま」の幟が一杯だ!
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7.漸く一の鳥居に至る!徒歩10と書いてあったがとても長く感じましたね!
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8.一の鳥居を潜り表参道を歩く!
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9.参道の橋の上から、「神様の渡られる玉の橋」を見る!ビックリだ!
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10.手水舎
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11.宝物館前の旧本殿跡
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2017/9/21

越後を見る!15.初代長岡藩主牧野忠成公によって開基された栄涼寺!  文化財研修記

新潟県長岡市東神田3丁目にある浄土宗の栄涼寺は、元和5年(1619、初代長岡藩主牧野忠成公によって開基されました。歴代藩主および藩士の菩提寺であった栄涼寺も戊辰の戦乱に巻き込まれ)であった栄涼寺も戊辰の戦乱に巻き込まれ、西軍の野戦病院となっていましたが、戊辰7月、長岡城奪回戦で長岡藩兵によって焼かれ、墓石の半数以上が倒壊したそうです。明治になって再建され、同38年に完成しました。


1.栄涼寺の駒札
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2.栄涼寺標柱前の地蔵菩薩像
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3.栄涼寺の標柱
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4.見事な鐘楼です!
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5.本堂前の駒札
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6.同上説明の碑
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7.見事な本堂を斜めから見る!
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8.駒札
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9.駒札と墓石
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10.同 上
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11.同 上
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2017/9/19

越後を見る!14.中越の核であった長岡城跡!  文化財研修記

長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家の直接支配を受けることとなる。その後1598年に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の鶴千代が1606年に早世したため蔵王藩は2代で断絶した。さらに1610年、宗家の堀忠俊が家老堀直次・直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、かわって徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。1616年、今度は松平忠輝が大坂の役における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。直寄は2年後の26188年には越後村上に移され、かわって譜代大名牧野忠成が6万2000石をもって入封する。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、1620年には1万石を加増、さらに1625年に新墾田2000石を表高に加えて7万4000石となった。享保13年3月27日(1728)に起こった俗に「三蔵火事」と称される大火事で本丸から外曲輪にいたる城郭全てが全焼し、城の再建は幕府から7,000両借用して行われ、宝暦4年(1754)までかかった。また、天保15年(1844)の俊治火事では城門2つ、城塀324間が延焼している。また先述のとおり水害対策が長岡城建設の理由であったが、洪水で城内まで浸水することが5回あった。寛文11年(1671年)と延宝2年(1674年)に浸水しており、天明元年(1781年)と寛政元年(1789年)の洪水では2回とも城内まで8から9尺(単純計算で約2.4mから2.7m)浸水した。この他、文政11年11月12日(1829年12月18日)の三条地震では本丸を初め、役所、門、塀、柵など、ほとんどが大破し、翌年の大風で城内破損35箇所ほどの被害を受けている。戊辰戦争(北越戦争)を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して北越戦争を武田と上杉の戦いに見立てて描いたもの歌川芳盛作がるが、戊辰戦争(北越戦争)により長岡城はほぼ焼失した。焼け残ったのは、本丸の九間門橋・三階隅櫓・坤隅の櫓・かご部屋と二の丸の南櫓、そして千手口門だけであった。しかし、それらも士族の救済や阪之上小学校の教育費に充てるため売却された。現在本丸は長岡駅構内となり、二の丸跡が駅近辺にある。

1.JR長岡駅大手口にある本丸跡碑
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2.二の丸跡(厚生会館わきにある!)
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3.二の丸跡碑文
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4.城内の稲荷神社
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5.同上
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2017/9/17

越後を見る!13.中越長岡市の古城(平城)蔵王堂城跡とその周辺!  文化財研修記

金峯神社(きんぷじんじゃ)に隣接する蔵王堂城跡(ざおうどうじょう)があります。南北朝時代、当社に北朝方の中条氏が本陣を構えたことが始まりと伝えます。後に上杉謙信へと続く古志長尾家の長尾為重(謙信の叔父)が蔵王堂脇に本格的に築城し、会津移封までは上杉家及びその家臣が治めました。上杉家が会津へ移封された後は春日山城に入府した堀秀治の弟、堀親良が入り、蔵王堂藩の初代藩主となる。なお、蔵王堂藩は養子、堀鶴千代が坂戸藩の堀直寄の後見の元に継ぐのだが、9歳で亡くなった為に断絶。坂戸藩に編入される。堀直寄は飯山藩へ転封され、松平忠輝臣下の山田隼人が入城。この時は藩としての復活はなく、福嶋藩(高田藩)の属領扱いだった。忠輝が大阪夏の陣の不手際により改易されると堀直寄が寄蔵王堂城主として戻り、蔵王堂藩が復活する。堀直寄は以前の統治時代に開始し転封により中断していた長岡城建築を進め、長岡城完成と共に移動した為に蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩へと移行する。またこの蔵王堂は天領(幕府の直轄地)となり、この地に蔵王代官所を設けた。長岡移転は蔵王堂城が信濃川のすぐ脇にあった為、水害により城の一部が侵食される程の被害を度々受け、城の維持が難しかったためである。

1.堀直寄の像(撮影失敗)と駒札
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2.蔵王城跡の濠を渡る!
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3.蔵王城跡へ登る!
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4.濠の跡
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5.濠を見下ろす!
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6.蔵王城跡碑
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2017/9/15

越後を見る!12.中越長岡市の古刹・金峯神社とその周辺を見る!  文化財研修記

新潟県長岡市西蔵王2−6−19には金峯神社(きんぷじんじゃ)がある。旧社格は県社で明治時代まで蔵王権現という。近辺では「蔵王さま」と呼ばれている。廃仏毀釈までの別当寺は安禅寺(金峰山静観院)であった。祭神は金山彦命を祀り。他に相殿に又倉神社他を祀る。蔵王権現以前は又倉村といい産土神又倉神社を祀っていたという。王神祭は又倉神社祭礼である。和銅2年(709)元明天皇の勅願により北国鎮護のため大和国吉野山の蔵王権現を分霊して古志郡楡原の地に創建されたと伝える。修験者秋葉三尺坊をはじめ僧徒山伏修験者数千人の勢力だったという。秋葉三尺坊は後に信州戸隠を経て遠州に渡り一大修験勢力を築いたという。しかし戦に破れ三島郡矢田の地に隠遁し仁治3年(1242)現在の又倉村の地に遷座したという。信濃川河川交通の重要地であるこの地に門前町を築き、軍事勢力を持ち蔵王堂城を築き長岡の町の基礎を築いた。河川沿いの長い丘状に発展した町の様から長岡という地名が起こったという。なお、『長岡市史』では楡原からの遷座年は不詳で、大島荘川崎郷保倉村に移転し、同村は蔵王村に改称したとされる。南北朝時代にはこの地を巡って激しい戦いが繰り広げられた。当時既に越後国を代表する霊場として広く知られていた。蔵王堂城主堀直竒は信濃川に欠けるこの地から平方原に城を築城した(長岡城) 江戸時代、天海により別当寺の安禅寺が真言宗から天台宗に宗旨替えとなる。元和年中に社殿炎上して古記録が焼失。慶安2年(1649)に徳川家光は朱印300石を寄進された他、越後長岡藩主牧野家は40石寄進し、守護神と崇め家督相続の折には必ず参詣した。明治維新に神仏分離令により神祇と決して別当寺の安禅寺は分離・廃寺となり、蔵王堂は金峯神社と改名。新潟県最初の県社に列す。明治40年に社殿炎上し、大正2年(1913)に再建した。

1.JR直江津駅です!ここで乗り換えJR長岡駅へ!
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2.直江津の海岸線
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3.JR長岡駅。近くのホテルに荷物を預けてJRで北長岡駅へ。
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4.JR北長岡駅かっら徒歩30分で金峯神社に至る!
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5.正面の参道
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6.見事な手水舎
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7.見事な古木の御神木
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8.見事な拝殿
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9.駒札
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10.毘沙門天堂
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11.駒札
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12.天井画
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2017/9/13

越後を見る!11.上越の名刹・西山国師ゆかりの来迎寺!  文化財研修記

紫雲山引接院・来迎寺(らいこうじ)は上越市高田寺町2丁目4−3にあります。西山国師ゆかりの名刹として有名で、重厚な山門、石畳の参道、樹木に囲まれた境内は、たいへん落ち着いた静寂なたたずまいです。承久3年(1221)浄土宗西山派の開祖証空が、現在の居多神社(五智6)の所に来迎仏と当麻曼荼羅の軸をかけ法談をされたのがはじまりと伝えられています。証空は、奈良当麻寺の別院の名を移して来迎寺としました。
高田城の築城とともに現在地へ移り、寛永9年(1632)に鎮西派(知恩院末)に改め、今にいたっています。境内の木立の中に証空の供養塔があります。

1.見事な山門と標柱
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2.重厚で見事な山門
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3.本堂への参道と境内
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4.見事な本堂
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2017/9/11

越後を見る!10.上越の古社で見事な神明造りを基調とした日枝神社!  文化財研修記

日枝神社(ひえだじんじゃ)は,上越市高田駅(えちごトキめき鉄道)の西の寺町に鎮座する。「神社明細帳」(明治16年)に「中頸城郡高田下寺町字寺中 日枝神社」とある。仁寿3年(853)に創立されたと伝える古社で,はじめ衾野という場所に鎮座したという。
その後,変遷の末,慶長15年(1610)に現在地に遷座した。一帯の産土神として篤く崇敬されている。祭神は大山咋命で,合殿で天照皇大神,豊受大神,健御名方命を祀っている。
明治15年(1882),郷社に列せられ、明治40年(1907),高士地区に鎮座した稲荷社(宇迦御魂命)を合併した。昭和8年(1933)に縣社に昇格した。日枝神社拝殿日枝神社本殿
など社殿は神明造りを基調としたみごとなものである。明治10年(1877)に焼失して12年(1879)に再建された。

1.日枝神社
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2.見事な鳥居
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3.見事な神明造りの拝殿
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4.同上
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5.見事な扁額
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6.内陣を見る!
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7.拝殿後部と本殿を横から見る!
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8.後部から本殿・拝殿を見る!
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9.多くの境内社の一部
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2017/9/9

新潟を見る!9.珍しい浄土真宗仏光寺派の性宗寺!  文化財研修記

上越市寺町3丁目には珍しい浄土真宗仏光寺派の性宗寺(しょうしゅうじ)がある。正式には、高雲山・真宗仏光寺派性宗寺(しょうしゅうじ) 別名和田御坊と呼ばれている当地では数少ない仏光寺派のお寺である。天正3年(1575)当時勢力を誇っていた福井県にある浄土真宗本願寺派の和田山 本覚寺(ほんがくじ)の分寺として春日山城下に創建された寺院である。本覚寺は貞永元年に親鸞聖人の直弟子の心象が和田村(現福井市)に開いた寺院であり、なぜ性宗寺が春日山に来たかと言うと、当時上杉謙信が宿敵で有った浄土真宗(一向宗)と和解するのに越後に一向宗の布教活動を認めた為だと言われている、これにより上杉謙信は上洛が容易に成ったと思われる。その後現在地に移り、(高田城、築城により城下繁栄の為か、、)延宝元年(1673)浄土真宗本願寺派から仏光寺派(ぶっこうじは)、和田御坊となり現在にいたる。
寺宝として親鸞聖人配所御真影、聖人が流罪になり越後に来る時に身に着けていた烏帽子と下垂れ(当時の肌着)が残されている。これらは性宗寺を開いた先祖が、越後で聖人と共に生活していた時に頂いたものと伝えられている。(写真右側、石柱の見真大師とは親鸞聖人が明治天皇から頂いた大師号)です。真宗佛光寺派(しんしゅうぶっこうじは)は、浄土真宗の一派で本山は京都市下京区の「佛光寺」、末寺数は全国で約390ヶ寺、県内では40数ヶ寺、真宗仏光寺派とも書きます。この寺には明治43年(1910)に起こった大逆事件(社会主義者を弾圧した事件)の弁護士を引き受けた「平出修」の墓所がある(駒札参照)。平出修は明治11年4月3日中蒲原郡石山町(現新潟市)に生まれ23歳の時高田馬出町(現上越市大町2丁目)の弁護士平出善吉の妹ライと結婚、同家に入籍した、そして東京の明治法律学校を卒業し、司法官試補と成ったが、その後弁護士に転じ法律事務所を開業した。彼は有名な幸徳秋水の大逆事件などで法廷に立つ一方、矩歌革新運動に加わり、又石川啄木、吉井 勇らと共に文芸雑誌「スバル」を発行した。このように彼は弁護士として、明星派の歌人及び評論家として、そして又社会小説の作家として法と文学両面にかがやかしい業績を残し将来を期待されていたが大正3年3月17日過労の為37歳の若さで他界した。

1.性宗寺の標柱と写真右側は見真大師とは親鸞聖人が明治天皇から頂いた大師号です。
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2.見事な鐘楼
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3.本堂前
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4.本堂
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5.平出修の駒札
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6.真宗仏光寺派本山仏光寺は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/2675.html


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2017/9/7

越後を見る!8.高田城下町の寺町の日蓮宗・日朝寺!  文化財研修記

日朝寺は、新潟県上越市寺町にある日蓮宗の寺院。山号は吉祥山。旧本山は村田妙法寺、通師・堀之内法縁。境内の桜は日朝寺のしだれ桜として知られる。当寺の毘沙門天は「出迎え毘沙門天」と呼ばれている。上杉謙信の泥足毘沙門天はこの寺の毘沙門天の分身を祀ったものである。
文永11年(1274)佐渡流罪を許された立正大師日蓮が真言宗称朝寺吉兆坊(現在の日朝寺)の蒙現(のちの日朝)を改宗させた。慶長3年上杉家に従い会津若松を経て米沢市に移転。廃寺となる。明暦元年(1658)日法寺20世日鋭を中興開山に跡地に再建された。

1.日朝寺の標柱
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2.山門
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3.同上
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4.本堂への参道
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5.見事な茅葺の本堂
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2017/9/5

越後を見る!7.高田城下町の寺町の浄土宗の善導寺!  綾部の文化財

新潟県上越市寺町2の浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)には「竜の玉」がある。竜が供養の礼にくれたとして伝えられる寺宝です。竜の玉は、直径12センチメートルほどの、おにぎりのような形状で、表面は茶色がかった緑色をしており、ややつやがある。見た感じは石のようだが、材質は不明だ。普段は厨子に入れて保管しており、一般に公開はしていない。慶長19年(1614)の高田城築城に伴う寺町造成に合わせ、同寺は高田に移った。玉は、当時の高僧・幡隨意上人を招いて落慶法要を営んだ。上人は100日間にわたり説法した。その間、一日も欠かさず訪れた男がいた。100日目の説法が終わったとき、男は自分が青柳の池に住む竜神であることを明かし、「妻の竜はあなたの救いを受けて成仏することができた。日参して上人の教えを聞いたが悟りきれない。妻の竜と同様に、私も救ってほしい」と訴えたという。上人が「お前が本当に青柳の池の竜ならば正体を現せ」と言ったところ、男は竜の姿に変わり、寺の本堂に7回り半巻きついた。それを見た上人は、弟子を青柳の池にやり、竜の戒名を書いた札を池に投げ入れて法要したところ後日、その男が寺に現れ、礼として「竜の玉」「竜水」「竜灯」の三つを捧げたという。竜が寺に捧げたという三つのうち、現在も伝わっているのが竜の玉と「竜水」の二つ。竜水は今も境内にある井戸のことだといい、現在はふたがされている。竜が住んでいた青柳の池は、上越市清里区の坊ケ池ではないかと解釈されている。(上越ジャーナルから一部抜粋)

1.特異な山門(竜宮門と本堂)を見る!
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2.本堂内の「竜の玉」(写真お借りしてきました!)
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