2017/6/27

遠州浜松を見る!2.次郎法師・井伊直虎の唯一の花押のある書状を持つ蜂前神社!  文化財研修記

浜松市北区細江町中川6915には大河ドラマの「女城主井伊直虎」の唯一の花押「次郎法師 直虎」の書状を持つ蜂前神社(はちさきじんじゃ)がある。
応神天皇11年3月8日(西暦280)八田毛止恵という人が勅命によって遠江国へ下向して、この神社を創建したと言う。ご祭神は熯速日命、甕速日命、武甕槌命の三神です。所有の田畑は多く、八田(祝田村の古名)四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)の八町三反、合計百二十三町歩余りを開墾して本社を八ケ前(さき)の地に勧請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。脇宮二社は19代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼明神、羽鳥大明神と称えられ延長5年(927蜂前神社と改め古名に復しました。延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。直虎の唯一の花押(かおう)のある書状は管理上、浜松博物館で管理されています。

1.蜂前神社の看板
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2.神社全景
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3.駒札
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4.拝殿を見上げる!
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5.駒札
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6.拝殿を斜め右から見る!
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7.拝殿・本殿の三神の位置
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8.井伊直虎の花押(かおう、自筆の署名)をアップで見る!
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9.拝殿後部と本殿を横から見る!
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10.高台には摂社の天王宮がある!
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2017/6/25

綾部市館町(たちちょう)の真言宗の古刹・楞厳寺の不動明王三童子像のレプリカが100年ぶり帰還!  綾部の文化財

綾部市館町(たちちょう)楞厳寺6には高野山真言宗の古刹・楞厳寺(りゅごんじ)がある。関西花の寺第2番札所・あやべ西国観音霊場第14番札所でもあります。この寺には「絹本著色不動明王三童子像(けんぽんちゃくしょくふどうみょうおうさんどうじぞう)があり、明治37年(1904)2月国宝に指定され、先々代の住職が木箱に入れられて「秘すべし,秘すべし、末代の重宝」として、本尊の側に置かれていましたが、明治45年(1912)になって箱を開かれたところ、絵が無くなっており、非常に驚かれて文部省に盗難届けを出されました。第二次大戦後の昭和25年(1950)文化財の保護法の制定と共に、実物のないこの仏画は重要文化財指定のみとなりました。その後、平成6年(1994)5月に,現住職の為廣哲堂師は、海外に流出した文化財ばかりを集めた「秘蔵日本美術大観」(講談社刊)の第8巻・ケルン東洋美術館の中に、偶然、楞厳寺にある国宝指定の写真とそっくりな写真を発見され、文化庁へ連絡されました。文化庁も確認作業にのりだされ、ケルン市に協力を求められ、その結果、仏画は盗品と同じであることが判明しました。また、その後、ケルン東洋美術館の初代館長アドルフ・フイッシャー氏の日記から、彼が明治45年(1912)日本で集中的に美術品を合法的に購入していることも判りました。同美術館から「寺の負担で複製を作っては」の提案がありましたが、見積もりが500万円もと高額のため断念。今回、NPO法人・京都文化協会(下京区)2年間に渡る協力により「本物そっくりに実現}した。担当は同協会の大久保謙志さんによると、ケルンから高品質データを取り寄せ、現地に足を運び微妙な色違いを精密に再現された。6月25日(日)レプリカ(複製)報告祭が午後1時30分から盛大に開催された!

1.レプリカ帰還報告祭で読経される為廣哲堂住職
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2.本物そっくりの高品質レプリカの元国宝の不動明王三童子!
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3.ご来賓を代表されご挨拶される四方八洲男前綾部市長、現NPO法人北近畿未来理事長(他、ご来賓は安藤和明綾部市議会議長、四方源太郎京都府議会議員、三好綾部資料館長、森本綾部の文化座を守る会々長など多数)
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4.説明されるNPO法人京都文化協会の大久保氏
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5.楞厳寺の文化財は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1887.html


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2017/6/25

遠州浜松を見る!1.蚕都・綾部出発から浜松到着から三方ヶ原合戦場跡碑へ!  文化財研修記

JR綾部駅発19;29特急はしだて10号JR京都着20;48。JR京都駅ハ条口の飲み屋で乾杯!JR京都駅烏丸口23:59発の夜行バスドリーム静岡号で出発、翌日5時11分早朝にJR浜松駅に到着。駅から徒歩3分のホテルクラウンパレス浜松シングル禁煙室、朝食付き税込みで平日8,000円、土曜日9,000円に2連泊、かなり古いホテルだが8階で眺望満点、朝食も満点、フロントも満点のホテルでした。荷物を預け、朝食をレストランで食べ、ブログ中間の浜松の「しずかさん」に既に「遠鉄バス・電車一日乗り放題」の遠鉄ぶらり切符@1,540円を購入して貰って朝8時30分に「滋賀県守山市のブログ仲間のめりいさん」3名15番バス乗り場で落ち逢い8時55分発44番バス井伊谷宮前行きに乗車。9時32分三方原墓園下車。
元亀3年(1572)、上洛(地方から京に上ること)を目指し、武田信玄が遠江国に進軍。それを知った徳川家康は、浜松城を出発・追撃し、三方ヶ原の地で戦いとなりました。しかし、兵の数でも軍術でも劣る徳川軍は総崩れとなり、家康も命からがら浜松城へ逃げ帰りました。その夜、犀ヶ崖付近で野営していた武田軍に奇襲を仕掛け、反撃に出た家康ですが、最終的におよそ1,000人もの戦死者を出す徳川軍の大敗北に終わりました。家康はこの敗戦を教訓とし、いかにして勝つか、信玄の戦法を積極的に学び、その後の数々の戦いに生かしていったといわれています。田信玄の遠江侵攻の目的は、諸説あります。若き日の徳川家康が、武田信玄に大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」。三方原台地の一角に、この辺りが戦いの舞台となったことを示す碑が建てられています。戦いがあった場所ついては、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていないのですが昭和59年(1984)、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史文化保存会有志」の手により、三方原の一角であるこの地に碑が建立されたのです。

1.夜の京都タワーとホテル
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2.JR京都駅八条口の飲み屋で一杯!
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3.冷酒を一杯飲んでべろんべろんんだな!
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4.アット言う間にJR浜松駅に早朝到着!
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5.早朝のJR浜松駅前だ!
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6.遠鉄バスで30分で三方原墓園バス停!そこにはある「駒札」
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7.三方ヶ原合戦場跡碑
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8.同上
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2017/6/23

京を見る!31.(最終回)浄土真宗大谷派の本山・東本願寺!  文化財研修記

京都市下京区烏丸通七条上ルには東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂(浄土真宗に限って「ごえいどう」と呼ぶ)には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。(本山HPより抜粋)伽藍の大部分が明治時代以降の再建によるため、建造物としては国宝・国重要文化財に指定されているものは無いが、御影堂・阿弥陀堂・御影堂門など16棟の建造物が国登録文化財です。

1.烏丸通七条上東側から見た東本願寺
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2.烏丸通西側から見た御影堂など
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3.勅使門
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4.見事な御影堂門
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5.御影堂門をアップで見る!正面が御影堂です。
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6.世界最大の木造建築の御影堂(正面76m(42間)、側面58m(32間)、高さ38m(21間)畳の数は927枚、重層式の入母屋造りで屋根には17万5967枚の瓦が使用されています。
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7.左は阿弥陀堂、右側は御影堂です。
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8.見事な手水舎
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9.御影堂から御影堂門を見る!
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2017/6/21

京を見る!30.北野天満宮の前身神社と云われる文子天満宮!  文化財研修記

京都市下京区間之町通花屋町下るには北野天満宮の前身神社と云われる文子天満宮(あやこてんまんぐう)がある。伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。毎年4月16に近い第3日曜日に、例祭が執り行われる。

1.文子天満宮
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2.北野天満宮の前身天満宮の標柱がある!
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3.駒札
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4.鳥居と神門を見る!
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5.神門から本殿を見る!
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6.手水舎
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7.摂社の白龍稲荷大明神
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8.相生の御神木
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9.本殿
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10.本殿を横から見る!
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11.多冶比の文子を祀る摂社
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12.駒札
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13.多冶比の文子像
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14.結婚式場の文子殿
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2017/6/19

京を見る!29.女人守護で有名な市比賣神社!  文化財研修記

京都市下京区河原町通6条上ル本塩竈町には女人守護で有名な市比賣神社(いちひめじんじゃ)がある。ご祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)の5女神です。古事記「天の眞名井宇気比の段」御祭神出生の霊明なる誓約の件により、女人守護、市場の交易、商売繁昌を神勅とし、平安時代から皇室、公家万民の崇敬篤く、御神徳を奉賽したことは史記に多々散見する。当社のご創建は、桓武天皇の御代延暦14年(795)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣藤原冬嗣公が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わる。天正19年(1591)豊臣秀吉の命により、現在の地に移転鎮座されました。

1.工事中の市比賣神社
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2.石造りの鳥居と拝殿
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3.拝殿内陣を覗く!
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4.摂社の稲荷神社
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5.願掛け絵馬
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6.摂社の植松稲荷神社
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7.市比売神社(ひいな祭り)官女の舞を見たい方は下記をクリックして「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/L2xrkRuIdvU

2017/6/17

京を見る!28.金仏寺と呼ばれた西山浄土宗の延壽寺!  文化財研修記

京都市下京区河原町六条上ル本塩竈町の河原町に面したところに西山浄土宗無量山・延壽寺(えんじゅじ)がある。平安時代、この地域には「六条殿(ろくじょうどの)」と呼ばれる後白河法皇の御所があって、その御所内に持仏堂の「長講堂(ちょうこうどう)」というお寺がありました。六条殿が廃れた後、長講堂は現在の下京区河原町通六条に移転することになるのですが、それに伴って金銅製の釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の「如来三尊像」をご本尊として独立し、寺名も「延寿寺(えんじゅじ)」と改称されました。延寿寺は如来三尊像を安置したことから、鎌倉時代の頃には通称「金仏寺(かなぶつでら)」と呼ばれ、広く知られるようになったそうです。しかし、延寿寺は元治元年(1864)に起きた「蛤御門の変(禁門の変)」で焼失し、金銅製のご本尊も火災で溶けて無くなってしまいました。ところが、金仏という名前だけは発祥の地に残り、町名の由来のひとつになったのです。因みに、ご本尊はその後、木像に代わり、延寿寺も、明治15年(1882)年に再建されました。

1.山門全体を見る!
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2.延壽寺の標柱
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3.山門から内部を見る!
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4.本堂全体を見る!
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5.本堂と桜
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6.本堂と紅白の桜!
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2017/6/15

京を見る!27.後白河法皇の仙洞御所であった長講堂!  文化財研修記

講堂(ちょうこうどう)は、京都府京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある西山浄土宗の寺院。後白河法皇ゆかりとされる本尊の木造阿弥陀三尊像は重要文化財である。後白河法皇が六条西洞院にあった御所・六条殿に寿永2年(1183)頃に建立した持仏堂が元であったとされる。「長講堂」は本来は「法華長講弥陀三昧堂」と呼ばれ、法華経を講義し、阿弥陀仏を念じるための施設を指す一般名詞で同名の持仏堂が複数あったが、後白河法皇のものがもっとも著名で後世に伝わったために、長講堂と言えばこの施設を指すようになった。文治4年(1188)に火災で六条殿とともに焼失するが、後白河法皇は直ちに諸国に命じてその年のうちに再建された。建久2年(1192)、法皇は42ヶ国89箇所に及ぶ自己の荘園を長講堂に寄進し、翌年の死に先立って長講堂ごと娘の覲子内親王に譲渡した。これらの所領群は後に「長講堂領」と呼ばれ、内親王の没後に紆余曲折の末に後深草天皇およびその子孫である持明院統が継承した。承元2年(1208)、再び六条殿と長講堂が焼失すると、覲子内親王は一時土御門東洞院殿に移り、長講堂もその中に移転する。その後、元の場所に長講堂は戻されるが、土御門東洞院殿内の施設も引き続き別院として用いられた。その後、貞応元年(1222)・文永10年(1273)・建治3年(1277)にも火災で焼失しているが、文永の火災後に後深草上皇の命により、土御門油小路に移転する。更に土御門東洞院殿の施設も光厳天皇以後、同殿が里内裏として固定化されたために応永8年(1401)の火災に伴う再建の際に将軍足利義満の意向で土御門東洞院殿に内裏施設を再現するために長講堂に代替地を与えて立ち退かせた。持明院統に継承された長講堂領は一時200ヶ所にのぼり、応永年間にもなお112ヶ所にのぼる荘園を保持していたが、応仁の乱後急速に不知行に至った。その後、天正16年(1588)の豊臣秀吉による京都改造の際に現在地に移転した。現在の建物の多くが幕末の禁門の変で焼失後に再建されたものです。(ウイキペデイアより抜粋掲載)

1.山門と標柱
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2.駒札
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3.見事な山門を見ます!
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4.見事な本堂前の庭園の一部
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5.同上
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6.本堂(平安時代の国重文の阿弥陀三尊像が祀られ、御影堂には江戸時代初期の国重文の後白河法皇御像が祀られています。非公開)
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2017/6/13

京を見る!26.土佐の長曽我部盛親公の墓のある蓮光寺!  文化財研修記

京都市下京区富小路通六条上ル本塩竃町には浄土宗知恩院派で本尊は阿弥陀如来(快慶作と伝えれている。)を祀る蓮光寺(れんこうじ)がある。1492年、真盛上人を開基とし、高野山の苅萱堂を模して下京区新町高辻に草庵を結んだのが始まり。当初は天台宗。1591年、秀吉の命により現在地に移転し蓮光寺と改めた浄土宗となった。度重なる火災により焼失、現在の建物は1983年の再建。境内の地蔵堂には平清盛公が駒を止めたという駒止地蔵尊が祀られている。又、関ヶ原の合戦で破れ、六条の河原で切られた土佐の長曽我部盛親公の首は蓮光上人によってこの蓮光寺にお墓が作られた。

1.山門
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2.山門前にある「長曾我部盛親公の廃首の地碑」
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3.駒札
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4.山門から本堂を見る!
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5.見事な本堂です!
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6.正面は本堂、左は庫裏です!
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7.本堂の蟇股(かえるまた)が見事です!
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8.長曾我部盛親公の首墓
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2017/6/11

京を見る!25.聖徳太子像を祀る真言律宗の白豪寺!  文化財研修記

京都市下京区富小路通本塩竃町539に真言律宗の単独寺院で聖徳太子像を祀る白豪寺(びゃくごうじ)がある。別名、太子堂白毫寺。当初は真言律宗、現在は単立寺院。院号は速成就院。本尊は聖徳太子立像。忍性律師の創建と伝わる。当初は粟田口にあったが、現在地に移ったのは1603年。また本尊は聖徳太子自作と伝わっている。

1.山門
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2.山門をアップで見る!
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3.山門から本堂を見る!
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4.見事な本堂ですね。
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5.境内の桜と遅咲きの椿のコントラストが良いです!
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6.本堂前にある宝筺印塔が良いですね!
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7.本堂横の庫裏も素晴らしい!
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