2017/4/28

京を見る!3.世界遺産で元離宮の国宝の二条城と桜を見る!3−3!  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.本丸御殿から西橋を渡る!
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2.梅園・桜園の桜(4月17日撮影)
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3.桜
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4.しだれ桜
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5.見事な桜
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6.同上
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7.同上
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8.同上
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9.しだれ桜
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10.国重文の米蔵・倉庫
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11.同上 駒札
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12.国重文の南中仕切門
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13.同上 駒札
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14.白の八重桜
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15.赤い八重桜
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2017/4/26

京を見る!2.世界遺産・元離宮で国宝の二条城と桜を見る!3−2!  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.二の丸庭園へ向かう途中の「吊鐘が二つ」地面に置いてある!
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2.同上 駒札
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3.特別名勝「二の丸庭園」の桜
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4.国宝二の丸御殿を振り返って見る!
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5.二の丸庭園の一部
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6.同上
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7.同上
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8.同上
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9.同上
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10.同上
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11.本丸櫓門と東橋
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12.本丸櫓門を潜る!
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13.国重文の本丸御殿の一部
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14.同上
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15.天主閣跡
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2017/4/24

京を見る!1.世界遺産・元離宮で国宝の二条城と桜を見る!3−1  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.JR京都二条駅と桜から徒歩で二条城へ向かう。この日は4月17日(月)
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2.徒歩5分で二条城の西南隅櫓に至る!
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3.南中仕切門を濠越に見る!
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4.国の重要文化財の東南隅櫓を見る!
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5.同上を東大手門方面に向かって見る!
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6.国重文の東大手門!
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7.同上
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8.同上
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9.東大手門番所
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10.国重文の唐門
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11.同上を内側からアップで見る!
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12.唐門から国宝二の丸御殿の間の桜
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13.国宝の二の丸御殿(内部撮影禁止)
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14.パンフレットを撮影
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15.同上
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2017/4/23

京都を見る!24.(最終回)京都井伊美術館!  文化財研修記

京都市東山区花見小路四条下がるには「甲冑刀剣考証専門美術館の京都井伊美術館(いいびじゅつかん)がある。平成28年2月1日〜11月15日まで午後1時から午後5時まで大人1、500円(甲冑体験着用料は別途必要)館内は撮影不可。予約電話:075−525−3921で必ず予約して下さい。平成29年度は2月1日〜11月10日まで「井伊直政と次郎法師尼」の主旨で展開されています。見応え満点です。

1.京都井伊美術館
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2.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます!)
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3.平成28年度パンフレット表紙
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4.パンフレットの一部
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5.同上
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2017/4/21

京都を見る!23.臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺特別展を見る!  綾部の文化財

京都市北区紫野大徳寺町53には臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺がある。既に見ているが、特別展で国重文の三門、国宝の唐門と方丈、国重文の法堂と狩野探幽斎筆の天井龍等を拝観した。方丈の内部等は撮影禁止であった。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。

1.大徳寺は中門より入る!
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2.勅使門
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3.三門
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4.法堂前の塔頭「三玄院」
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5.方丈から拝観する!
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6.撮影が難しい又は禁止が多いのでパンフレットを見て下さい!(画像をクリックすると
拡大して読めます。)
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2017/4/19

京都を見る!22.大徳寺孤篷庵を覗く!  文化財研修記

京都市北区紫野大徳寺町には国重文で史蹟名勝であり、大徳寺本坊の大徳寺孤篷庵がある。一時特別拝観を許可した時もあったが現在は拝観禁止となっている。作庭家、建築家、茶人として後世に大きな影響を与えた小堀遠州が建立した寺院です。茶室「忘筌」は建築、茶の湯を知る者なら、一度は足を踏み入れたい場所である。忘筌ほか、書院「直入軒」茶室「山雲床」も非公開となあった。「直入軒」・茶室「山雲床」は直入軒は遠州が寝泊まり、仕事などを行った寺院内で一番プライベートな空間になっている。そのため、南向きの部屋は本堂とこちらの2部屋だけとなる。床の間や次の間(つぎのま)の入り口の純粋な墨絵の部分は探幽の襖絵である。
山雲床は草庵造りの茶席であるため、本来はにじりなるはずが、貴人口としているのが特徴である。茶室「忘筌」の一番の特徴はやはり、正面の明かり障子が半分になっていて、下が吹き抜けになっていることである。この明かり障子部分がお茶席のにじり口の変形版となっている。そのほか、お点前席の位置など遠州以外にはないお茶席の造り方となっている。庭園は遠州の故郷である近江八景を現した庭園。赤土が水を表現しており苔が陸地を表している。本堂、忘筌、直入軒と見る所によって異なった雰囲気が味わえる。

1.大徳寺孤篷庵を横から見る!
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2.山門を正面から見る!
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3.国重文の駒札が立つ参道!
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4.孤篷庵
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5.茶室への横門
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6.見事な庭園の一部で写真をお借りしてきました!
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2017/4/17

京都を見る!21.旧京都島原遊郭「角屋はもてなしの美術館」!  文化財研修記

京都市下京区西新屋敷揚屋町32には公益法人角屋(すみや)保存会がある。20歳代の頃アメリカ人やオーストラリア人等を案内して「花魁(おいらん)とその見事な芸」を見た大変懐かしいところなので、公益法人角屋(すみや)保存会のホームページを抜粋記載します。角屋は、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋(あげや)建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されているところによると、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。饗宴のための施設ということから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。所蔵美術品では、昭和58年(1983)に与謝蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定されました。また、平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立され、以来、角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用がおこなわれています。さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。
開館期間:3月15日〜7月18日、9月15日〜12月15日、開館時間:午前10時〜午後4時、休館日:月曜日(祝日の場合翌日)、入館料:一般1000円、中・高生800円、小学生500円(2階の特別公開料金を除く)※2階の特別公開の座敷(青貝・扇の間他)につきましては、事前にお電話でお申し込み下さい。料金は入場料の他に別途必要です。大人800円、中・高生600円(小学生以下はお断り)、2階特別公開:ご案内時間(約30分)午前10:15、午後は13;15、14;15、15;15但し定員 各回20名。
電話番号:075−351−0024にて予約受付(午前10時〜午後5時)

1.旧島原遊郭の大門(慶応3年、1867年再建)と標柱
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2.島原の碑文(各画像はクリックすると拡大して読めます、)
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3.島原の駒札
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4.揚屋(あげや、料亭)に対す置屋の駒札
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5.角屋を横から見る!
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6.角屋の入口
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7.角屋の仲戸口(此処からはカメラ持ち込み禁止です!)
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8.下記をクリックして、「動画」で「幕末の志士が愛した花街、島原」(2分30秒)を観て下さい!
https://youtu.be/_BvVFJMZ1Os

2017/4/15

京都を見る!20.国宝や多くの重要文化財を持つ東寺の「少子房」特別展!  文化財研修記

小子房はかっては東寺の西院にあり、鎌倉時代に後宇多天皇が密教修行された時や、足利尊氏公が南北朝時代に北朝の光厳上皇と共に上洛された時には御所として使われた天皇をお迎えする特別な所であり非公開ですが、秋や冬には特別公開もされます。金堂の西側に位置する現在の小子房は、昭和8年、弘法大師1100年御遠忌にあたり、総檜造りで再建されました。庭園「澄心苑」は七代目小川治兵衛のだくです。又建物の内部は、鷹の間、牡丹の間、勅使の間な6部屋からなり、近代美術界で名を馳せた京都画壇の巨匠、堂本印象、43歳のときの筆による障壁画で飾られています。16部屋のうち、5つの部屋は水墨画が描かれ、最も奥の勅使の間は、「渓流に鶴」などの極彩色が描かれています。この襖絵は、JRの冬のポスターにも使われています。堂本印象氏といえば、抽象画のイメージが強いかもしれませんが、こちらに描かれているのは、純粋な日本画です。ただ、東山を描いた日輪山獄図は、すこし抽象的で、このあとの印象氏の画風を感じることができます。小子房の勅使の間には、天皇陛下、皇后陛下の玉座がありますが、両陛下の玉座があるということが、この間が近代になって作られたことを物語ります。最近では、平成3年に今上天皇がおみえになり、記念の植樹も残っております。国宝の蓮花門は弘法大師空海が高野山に向かうとき最後に出た門と伝えられる不開門です。門まで見送りに来た西院の不動明王の足元に、蓮の花が咲いたという故事がその名の由来です。(パンフレットより一部抜粋)

1.東寺の標柱と国重文の慶賀門
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2.国重文の慶賀門から入る!
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3.国宝の五重塔が見える!
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4.少子房の勅使門!透かし彫りが見事です!
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5.少子房の駒札
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6.拝観までに時間があったので、国重文の東大門と国宝の五重搭を見る!
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7.此処から拝観料800円を支払い門を潜る!2人なのに案内して貰えた!
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8.正面は事務所です!
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9.正面黒い建物が少子房です!
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10.銀杏の巨木に赤いハゼの木が宿っていますね!
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11.勅使門を内側から見ます!
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12.国宝の蓮花門!
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13.木立が大きくなり醜いのでパンフレットを見て下さい!
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14.見事な庭園「澄心苑」の一部
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15.同上
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16.同上
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17.東寺の西側の通り壬生通からは「国宝の蓮花門」が何時も無料で見れます!
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2017/4/13

京都を見る!19.本山修験宗の総本山・聖護院!  文化財研修記

京都市左京区聖護院中町15には本尊・不動明王を祀る本山修験宗の総本山聖護院(しょうごいん)がある。天台の第5代座主、智證大師円珍(814−91)が、 熊野那智の滝に一千日篭居をされた後、熊野より大峰修行を行われました。その後大師の後を継ぎ、常光院の増誉大僧正が大峰修行を行われ、 修験僧として名をはせました。この増誉大僧正は、寛治4年(1090)の白河上皇が熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務められ、その功績によって聖体護持の2字をとり、 聖護院という寺を賜ったのが聖護院の始まりになります。増誉大僧正は、この時熊野三山検校職に任命され、 本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、 聖護院の最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、 「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになり、また愛宕山も修験の行場として栄えました。
 後白河天皇(1156−58)の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となられた皇室と関係の深い寺院です。しかし応仁の乱で焼失、洛北岩倉へ移ったのですが再び火災に遭ってしまいます。
その後市内烏丸今出川に建てられた伽藍も延宝の大火で延焼、延宝4年(1676)に旧地に復しました。 現在の建物はこの時のものですが、役行者一千三百年御遠忌を記念し、 全国の教信徒の協力を得て数年をかけ修理、平成12年に完成しました。この日は「特別展」が開催中で役行者像、不動明王像、孔雀明王像、蔵王権現像、珍しい三宝荒神像なども見れました。

1.聖護院標柱
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2.見事な山門
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3.宸殿を庭から見る!
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4.拝観入口(宸殿)
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5.宸殿から庭を見る!
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6.同上
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7.同上
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8.国重文の書院の庭を見る!
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9.内庭(宸殿や書院では見事な仏像が拝観できたが内部は撮影禁止で残念でした!)
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2017/4/11

京都を見る!18.国定史跡「i頼山陽書斎、山紫水明処」!!  文化財研修記

『山紫水明処』は、丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面し、頼山陽の書斎兼茶室として使われた建物です。頼山陽(安永9年〜天保3年(1780〜1832)は、江戸時代後期に活躍した儒学者・詩人・歴史家です。『日本外史』や『日本政記』などの著作は、明治維新に際して尊攘派の志士たちの精神的な支えとなりました。山陽は、文化8年(1811)、広島から32歳で京都に出て以後、塾を開くなどして生計を立てつつ転居を繰り返しました。4度目の転居で木屋町二条下ル(現在の中京区)に移ると、東山や鴨川の眺望が気に入ったらしく、屋敷を『山紫水明処』と名付けました。しかし、しばらくするうちに手狭になったのか、両替町押小路上ル(現在の中京区)に移り住みますが、その時から、自ら草木を植えて庭を作っていたことが史料からわかります。しかし、家々が立て込み、東山への眺望が無い場所に満足できなくなった山陽は、より郊外の地に移り住むべく土地を探し、ついに6度目で東山の眺望絶佳なこの地に文政5年(1822)に移り、晩年を過ごしました。以後、『日本外史』などの執筆を行い、『日本政記』をほぼ完成させて亡くなりました。山陽はこの屋敷地を「水西荘」と名付け、庭にウメ、サクラ、モモ、ツバキ、ナツメなどの花木、実の成る木を好んで植えました。文政11年(1828年)には新たに書斎兼茶室を造営し、かつて木屋町二条下ルに住んでいた時の屋敷の名前をとって「山紫水明処」と名付けました。これが今の「山紫水明処」です。当時、指折りの知識人で茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を大変好んでいたようです。現在の地に水西荘を構えてからは、親しい友人が来ると、脇に流れる鴨川の水を汲んで煎茶を入れて振る舞うなど、形式にとらわれない、自由な茶の湯を楽しんでいました。書斎兼茶室だった「山紫水明処」も、形式にとらわれない生活・接客の空間として、煎茶の用に適した明るく開放的な造りとなっています。障子の明かり採りにガラスを用いたり、欄干に中国風の意匠を用いるなど、随所に煎茶の影響が感じられます。東山と鴨川が眼前に広がるため、山紫水明処の東側に庭はなく、西側に庭があります。この庭には、鴨川の伏流水が湧き出す「降り井」が設けられています。「降り井」は、地面から2メートルほど下に井筒が設けられた半地下式の井戸で、井筒まで降りて水を汲むことから、その名があります。適当な深さに湧き水がないと造ることができないため、京都の伝統的な日本庭園でもほとんど用いられてこなかった大変珍しい意匠です。文献では山陽自身がこの「降り井」を造ったかどうかは確認できず、後世に造られたとする説もあり、はっきりしたことはわかっていません。しかし、清らかな水との接点や自由な気風を大事にする煎茶らしい意匠として、注目されるものです。水西荘は山陽の死後、人手に渡り、明治の中頃まで頼家の手を離れていたため、その間に「山紫水明処」以外の建物が失われました。山陽が植えた数々の樹木も生えかわりましたが、山陽ゆかりの木として、今もナツメが残っています。室戸台風などの影響で環境は大きくかわりましたが、水西荘及び山紫水明処は、頼家の代々の方により、維持管理が行われています。山紫水明処は近年、葛屋葺(くずやぶき)屋根をふき替え、清新なたたずまいがよみがえりました。庭園の管理は、除草・清掃など日常的なものを除いて、樹木の剪定などを古くからなじみの造園業者にお願いしているとのことです。管理方法について、細々と注文はしないとのことですが、実生木を抜くなど植栽はできるだけ現状を保全すること、また、風通しが良くなるように剪定することに特に心がけているとのことです。「水西荘」は、明治維新に影響を与えた人物が住んだ歴史的に由緒ある場所であるため、大正11年(1922年)には早くも「頼山陽書斎(山紫水明処)」として国の史跡に指定されました。
見学の申し込み方法
山紫水明処の見学を希望する場合は、往復はがきに、見学日時(第2希望まで)、人数、代表者の住所・氏名・電話番号を記入し、〒605-0063京都市東山区新門前松原町289、頼山陽旧跡保存会宛てに、拝観希望日の2週間前(必着)までに申し込んでください。見学の際には、頼山陽旧跡保存会の方による説明を聞くことができます。
入場時間/10:00〜16;00、定休日/8月、12月後半〜3月前半、見学料/700円

1.頼山陽山紫水明処の標柱(この戸を開け中に入っていきます。)
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2.此処には「史跡頼山陽山紫水明処」の碑とと駒札があります。
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3.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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4.西側にある庭園から見た東側にある「頼山陽の書斎兼茶室の山紫水明処」
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5.西側の庭園には鴨川の伏流水が湧き出ている「降り井」が地上から2メートル下に設けられている。
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6.書斎内部は撮影可能ですが、ブログに掲載は禁止なので戸口から西側の庭園を見ます。
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7.書斎から東側の鴨川と東山を見ます。
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8.説明があり頂いた資料で、泊=天草洋-「天草洋(なだ)に泊す)を掲載します。(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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