2017/8/18

遠州浜松を見る!28.大変珍しい浜松市指定天然記念物の「19番観音根上り松」!  文化財研修記

浜松市指定天然記念物「鴨江の根上がりマツ」(中区鴨江)の樹齢は、市が推定していた200年の倍に当たる、400年になる事がかった。2本のうち1本は付け根の部分から折れて倒れてしまったが、市は2008年度中に折れた松の年輪を調べて正確な「年齢」を確認する。同日開かれた市の文化財保護審議会で市側が報告した。鴨江の根上がりマツは、根の部分が2メートル以上にわたって浮き出ているクロマツ。古くから市民に親しまれており、「根上がりマツ」の表記で路線バスの停留所などの名称にも使用されている。だが、昨年7月下旬、2本のうち1本(高さ約20m)が根元の部分から折れた。当日までの雨の影響もあって倒れたらしい。市が倒れたマツの年輪を数えたところ、樹齢がこれまでの通説だった約200年ではなく、400年であることが判明。無事だったマツも同程度の樹齢とみられるため、専門家による鑑定が必要と判断した。市文化財保護審議会では、折れたマツについて市指定天然記念物の対象物から除外する一方、浜松の歴史を知る証人≠ニして保存していくことを申し合わせた。市は「マツのある場所は昔からの名所。折れた木も鴨江の根上がりマツ「記念碑」としての存在価値は変わらない」としている。

1.19番観音根上がり松の碑(昔、33ヶ寺観音霊場の19番札所があったためそう呼んでいます。)
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2.2007年倒壊し、調査した市天然記念物の松(樹齢400年と判明)
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3.駒札
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4.市指定天然記念物の根上がり松
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5.その他の根上がり松群
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2017/8/16

遠州浜松を見る!27.三方ヶ原合戦で家康公の身代わり戦死した成瀬藤蔵正義のお墓のある宗源院!  文化財研修記

浜松市中区蛽塚1−201には山号を宝蔵山(ほうぞうさん)という宗源院(そうげんいん)がある。西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1516)に開創しました。本尊は虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。 室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。そうした関係を裏付ける史料として、この寺には今川義元と氏真の判物残されており、この古文書は、浜松市の文化財に指定されています。 閑静な山内には、三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓があり、また、浜松城主松平伊豆守信祝(のぶとき)が娘多世姫(享年18歳)のために建てたという墓があります。他にも、源太夫堀を構築した小笠原源太夫の千代子夫人の墓もあります。
また、徳川家康が在城した当時寺の東南一帯に的場があり、家康がここで弓の稽古に励んだといわれています。

1.宗源院山門
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2.弁財天堂
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3.見事な鐘楼
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4.駒札
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5.見事な本堂
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6.三方ヶ原合戦で家康公の身代わりで戦死した成瀬藤蔵正義公のお墓などへの道
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7.成瀬藤蔵正義公のお墓
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8.旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓
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2017/8/14

遠州浜松を見る!26.徳川家康公の正妻・築山御前のお墓のある西来院!  文化財研修記

浜松市中区広沢2丁目10−1には曹洞宗の古刹高松山(こうしょうざん)と号するで西来院(せいらいいん)があります。正長元年(1428)、寒厳(かんがん)十三派のうちの月窓派(げっそうは)の拠点として、月窓義運禅師(げっそうぎうんぜんじ)によってに開創されました。本尊は釈迦牟尼仏です。墓苑には徳川家康の正室・築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、家康の異父弟・松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓があります。

1.西来院入口
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2.浜松でも最も古い6地蔵菩薩
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3.可愛い石仏
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4.戦災後、建てられた本堂
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5.築山御前の墓地(月窟廟)
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6.駒札
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7.築山御前のお墓
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8.禅師供養塔
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2017/8/12

遠州浜松を見る!25.遠州浜松の曹洞宗の古刹で三方ヶ原の戦いで炎上した普済寺!  文化財研修記

浜松市中区広沢町1丁目2−には曹洞宗の古刹で三方ヶ原の合戦で戦略上、炎上した普済寺(ふさいじ)は、広沢山(こうたくさん)と号する曹洞宗の寺です。15世紀のはじめ、寒厳義尹(かんがんぎいん)が開山、その後、肥後国(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇(けぞうぎどん)が寒厳禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に普済寺を建立しました。教派は13派(465ヶ寺)を数え、華蔵和尚によって浜松地方に禅宗が広められました。普済寺の本尊は釈迦牟尼佛です。普済寺は古くから由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、家康も客殿を寄進しました。その普済寺は三方ヶ原合戦当時、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、戦略上家康の命令で火が放たれました。天正10年(1582)に七堂伽藍が再建されましたが、明治30年(1897)火災に遭い、その建物も昭和20年(1945)戦災を被りました。しかし、その後昭和39年に再建されました。境内には北山稲荷神社をまつっています。ところで、日本三大稲荷の一つに数えられている愛知県豊川市の豊川稲荷は、浜松普済寺の末寺になります。日本三大稲荷とは、伏見稲荷大社(京都市)、祐徳稲荷神社(佐賀県)、そして豊川稲荷(愛知県)の3社です。

1.普済寺山門
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2.普済寺の旧山門
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3.本堂
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4.北山稲荷社
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2017/8/10

遠州浜松を見る!24徳川家康公の出世の街と呼ばれ著名な大名を輩出した浜松城!2−2!  文化財研修記

浜松城は16世紀に築城された静岡県浜松市にある野面積み(自然石を上下に積み重ねたもの)の石垣で有名な城です。城郭は南北約500メートル、東西約450メートルあり、築城様式は平野の丘陵に築かれた平山城としても知られています。浜松城はもともとは曳馬城(ひくまじょう)という名前でした。今川家の家臣の飯尾氏が支配していたこの城を1568年に攻め落とした家康は、その2年後にこの地へ本拠地を移します。その際、「曳馬」という名前が「馬を引く」つまり負け戦に繋がり縁起が悪いという由来から、この地にあった荘園の名前を取って「浜松城」へと改めました。この浜松城で、家康は29歳から45歳までを過ごしました。姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事に当たります。家康にとっての浜松城へ在城していた17年間は、彼にとってまさに試練の時代だったと言えそうですね。その後、1586年に家康は駿府城へ拠点を移したため、浜松城から離れる事となります。1580年に家康が関東へ移封された後は、豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴が浜松城へ入り、関ヶ原の戦いまでこの地を治めました。江戸時代では豊かで実質30万石以上あった肥前唐津藩(九州警護で幕府要職になれない。)ため17万石浜松藩へ移動し,老中になり「天保の改革」をした水野忠邦などは有名ですね。

1.遠方から浜松城天守閣を見る!
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2.天主門を見上げる!
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3.徳川家康公の銅像
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4.本丸跡の駒札
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5.天主門を見上げる!
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6.天主門
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7.天守閣の礎石の駒札
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8.駒札
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9.天主曲輪(てんんしゅくるわ)
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10.天守閣
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11.天守閣を登る!
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12.天守閣に飾られている徳川家康公像
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13.本物の甲冑です!
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14.天守閣から見た浜松市街!前回泊まったコンンコード浜松ホテルが見える!
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15.天守閣から見下ろす!
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2017/8/8

遠州浜松を見る!23徳川家康公の出世の街と呼ばれ著名な大名を輩出した浜松城!2−1.!  文化財研修記

浜松城は16世紀に築城された静岡県浜松市にある野面積み(自然石を上下に積み重ねたもの)の石垣で有名な城です。城郭は南北約500メートル、東西約450メートルあり、築城様式は平野の丘陵に築かれた平山城としても知られています。浜松城はもともとは曳馬城(ひくまじょう)という名前でした。今川家の家臣の飯尾氏が支配していたこの城を1568年に攻め落とした家康は、その2年後にこの地へ本拠地を移します。その際、「曳馬」という名前が「馬を引く」つまり負け戦に繋がり縁起が悪いという由来から、この地にあった荘園の名前を取って「浜松城」へと改めました。この浜松城で、家康は29歳から45歳までを過ごしました。姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事に当たります。家康にとっての浜松城へ在城していた17年間は、彼にとってまさに試練の時代だったと言えそうですね。その後、1586年に家康は駿府城へ拠点を移したため、浜松城から離れる事となります。1580年に家康が関東へ移封された後は、豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴が浜松城へ入り、関ヶ原の戦いまでこの地を治めました。江戸時代では豊かで実質30万石以上あった肥前唐津藩(九州警護で幕府要職になれない。)ため17万石浜松藩へ移動し,老中になり「天保の改革」をした水野忠邦などは有名ですね。

1.東照宮から浜松城への登り道
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2.天主閣を遠望します!
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3.懐かしい「せせらぎ池」です。
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4.同上
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5.八幡台の駒札
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6.天主門を内側から見ます!
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7.銀明水と呼ばれる井戸の駒札
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8.銀明水と呼ばれる城内の井戸
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9.威容を誇る天守閣(次回は逆から登ってきます!)
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2017/8/6

遠州浜松を見る!22.元城町東照宮と引間城(曳馬城)跡!  文化財研修記

浜松城公園の前には引間城跡(曳馬城跡、ひきまじようあと)と浜松元城町東照宮がある。徳川家康を祀った神社を東照宮と称します。家康が元和2年(1616)に死去すると、その遺体は久能山(久能山東照宮:静岡県静岡市)に葬られ、墓前に社殿が建てられました。そして翌年、朝廷から東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号がさずけられ、東照宮と称するようになりました。次に御霊の一部を日光(栃木県日光市)に移し、日光にも東照宮が建てられました。また、江戸城内や、御三家の城下である名古屋(名古屋東照宮:愛知県名古屋市)・水戸・和歌山、徳川氏ゆかりの地である世良田(群馬)・鳳来寺(愛知)・岡崎(愛知)などにも建てられました。さらに各藩でも東照宮を建てる者が多く、家康と関係の深い天海(てんかい)や崇伝(すうでん)らによって、寛永寺・増上寺・喜多院(仙波東照宮:埼玉県川越市)・南禅寺などにも設けられ、江戸時代には全国で500社を超える東照宮がありました。しかし、明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、現存する社は約130社ほどになりました。遠州全域を治めた徳川家康公はこの引間城を拡大して浜松城と改め拠点としたのです。

1.曳馬城(引間城)跡碑
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2.駒札
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3.手水舎と駒札(クリックすると画像が拡大して読めます。)
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4.この手水舎の軒下には「眠り猫の彫刻」があります。
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5.東照宮を斜めから見ます!
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6.拝殿をアップで見ます!
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7.境内には大人の徳川家康公像と子供の頃の豊臣秀吉公の像が並んであります!
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8.権現道(家康公の道)の碑
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2017/8/4

遠州浜松を見る!21.浜松市最古の寺・高野山真言宗の頭陀寺!  文化財研修記

浜松市南区頭陀寺町には浜松市最古のお寺である高野山真言宗の青林山・頭陀寺(ずだじ)と戦国時代の頭陀寺城跡がある。西暦680年の頃、遠州灘でひとりの漁師が、網にかかった瑠璃石の薬師像を丁重にお祀り供養したところ、豊漁が続くようになり、妻の病気は全快し、家も大いに盛えました。大宝3年(703)、文武天皇の正夢に薬師如来が現れ、「我は遠江国におり、我を奉安、祈念すれば、国家安穏、万民豊楽、万病退散するなり」とお告げになりました。帝の命を受け、僧圓空上人は行脚の途中で遠州灘の漁師の話を耳にしました。さっそく天皇に奏上すると、帝は直ちに仏閣建立の命を下され、末代永く「国家安泰、万民豊楽、万病平癒」の勅願寺とされ、御宸書の勅額「青林山」を賜ったと言う。以後、当寺は『青林山 頭陀寺』と呼ばれ、大漁祈願、海上安全、五穀豊饒、商売繁盛、身心堅固、諸病平癒等の祈願、そして信仰の寺となり、『頭陀寺のお薬師様』として今もなお、善男善女で賑わっています。貞観5年(863)には清和天皇が当寺を定額寺(国家に一定数を限った特別な寺)とする。戦国時代以後、今川氏の庇護のもとに繁栄しましたが、同氏の衰えと共に衰微した。又、幼少の頃より縁のあった豊臣秀吉公、徳川家康公の顧みるところとなり、寺領200石の荘田の寄進により復興しました。 明治11年、法印真應により再建されましたが、第二次大戦(昭和20年)で全山焼失し、焼失を免れたのは昔より幾度か難を逃れてきた難除大師(弘法大師)像だけでした。

1.頭陀寺の山門(浜松市最古の石造り道標が山門前にあります。)
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2.駒札
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3.手水舎
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4.三尊佛(右側から波切不動明王、水掛一願地蔵尊、修行大師(弘法大師像)
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5.本堂
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6.本堂内(正面にはご本尊の薬師瑠璃光如来像、右奥には難除大師(弘法大師)像が祀られています>)
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7.駒札
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8.三公像(左側から笑っている14歳頃の豊臣秀吉公、同じく14歳頃の徳川家康公、同じく14歳頃の井伊直政公像)
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9.先師墓(歴代住職のお墓です!)
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10.役行者(役小角)堂・供養塚
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2017/8/2

遠州浜松を見る!20.豊臣秀吉も奉公したと云う松下嘉兵衛屋敷跡と戦国時代の頭陀寺城跡!  文化財研修記

浜松市南区頭蛇寺町(ずだじちょう)には豊臣秀吉公も奉公したという松下嘉兵衛屋敷跡がある。頭陀寺城(ずだじょう)跡。頭陀寺町第一公園内。松下嘉兵衛(嘉平治)之綱は家系によれば、天文6年(1537)三河の国に生まれ、今川家より封をうけて、頭陀山の砦を預かっていた様です。現在の頭陀寺はその頃頭陀寺城として近隣を領地とし、その城主(実際には年齢的に父長則が実権をにぎっていたであろうと思われる)を務めていました。またその屋敷は周囲を土塁と堀をめぐらした、小土豪のようでした。豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎の頃(14歳〜17歳)に松下屋敷に身を寄せており、秀吉と同年生まれのため意気投合します。しかし、今川軍が織田軍に敗れ松下嘉兵衛は宮口方面に逃げて身を隠したが、秀吉が出世した後は家臣としてとりたてられ久野城主1万6千石の大名までになったそうです。松下嘉兵衛之綱には、二人の男子がいました。長男は、暁綱(あきつな)といい、下に15歳離れ後に大名となった次男重綱(しげつな)がいました。長男は病弱であったため、家を継げなかったと伝えられていますが、真意は定かではありません。暁綱は、頭陀寺の松下屋敷をもらって、この地に定着し庄屋となり、頭陀寺松下家の祖先とまりました。墓は西伝寺町の西伝寺に立派な墓があり、代々墓地となっています。現在、子孫は東京に住んでいます。
一方、松下重綱は、之綱が慶長3年(1568)、63歳で久野城において死んだのち、天下分け目の関ヶ原の合戦(1600)に徳川方として、掛川の山内一豊らとともに戦い、茨城県の伊那町小張(おばり)の城主となりました。そして、当地に「小張松流綱火」というカラクリ花火を文化財として残しました。それから重綱は、烏山(栃木県)、二本松(福島県)と栄進し、5万石の大名となりこの地で没します。その子松下長綱は、同じ福島県の三春城3万石の城主とりました。ところが、徳川幕府は家光の代となり、幕府の力も安定してきたため、豊臣秀吉に関係の深い「外様大名」を取りつぶすたくらみにより、三春の松下氏もお取りつぶしされたため、妻の実家であり親戚でもある土佐(高知県)の山内一豊の子孫の家に一時預けらけました。
その後、長綱の子長光(ながみつ)の代から、徳川幕府の旗本として3,000石の領地を拝領し幕末をむかえます。面白い話ですね!

1、頭陀寺町第一公園内
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2.松下屋敷跡へ向かう!
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3.巨木も残っています!
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4、松下屋敷跡(古碑文)碑
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5.古碑文はどうしても読めません!
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6.横に浜松市の新しい碑文が出来ています。画像をクリックすると拡大します!
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7.頭陀寺前の案内板
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8.頭陀寺城跡の駒札
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2017/7/31

遠州浜松を見る!19.織田信長公に武田側への裏切りを考えれ家康公の嫡男信康公が切腹した二俣城!  文化財研修記

遠州浜松市天竜区二俣には武田・徳川軍攻防の地、二俣城跡がある。二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、この二俣城からなら誰か家康の意を汲み取り信康を逃亡させるだろうとの意味でこの二俣城に幽閉した。さる雨の夜信康公は浜松城の家康公へ「決して父上様を裏切ってはいと訴え!」出ています。残念ながら家康公の意思を家臣は理解できず、できても信康公はこの二俣城から離れなかったと云う。9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。(以上が旧来、広く流布されてきた説話だったが、近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている。)信康は時に享年21歳。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。

1.二俣城々下町
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2・二俣城跡への登り口
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3.雨のため登るのは中止!他から二俣城跡の写真借りて来ました!残る天主台跡!
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4.同上
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