2017/3/26

京都を見る!10.国重文の三重塔を持つ黒谷の金戒光明寺2−1!  文化財研修記

京都市左京区黒谷町には国重文の三重塔を持つ浄土宗の本山の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)がある。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。承安5年(1175)法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然は、ここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお、比叡山では、黒谷を現在も黒谷と呼ぶ。金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。 なお、このころ中間として出入りしていた侠客が、会津小鉄こと上坂仙吉である。

1.金戒光明寺北門
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2.数多くある子院の一つ「黒谷けんしん院」山門
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3.同上 境内を覗く!
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4.同じく子院の「龍光院の山門」
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5.釈迦如来坐像
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6.見事な本堂(御影堂)です!
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7.見事な本堂を横から見る!
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8.同上
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9.駒札
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10.熊谷直実鎧かけの松(国重文の三重塔等は次回で紹介します。)
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2017/3/24

京都を見る!9.国重文の本堂を持つ真正極楽寺(真如堂)!  文化財研修記

京都市左京区浄土寺真如町には天台宗で国の重文の本堂を持つ真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)がある。通称は真如堂(しんよどう)と呼ばれている。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。永観2年(984)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦3年(992)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693)、現在の場所に再建された。本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、円仁(慈覚大師)が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある。
三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。

1.真正極楽寺(真如堂)の標柱
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2.京都府指定文化財の総門(江戸時代)
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3.広い境内
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4.見事な三重塔
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5.鎌倉地蔵堂
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6.見事な手水舎
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7.花の木
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8.花の木の駒札
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9.駒札
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10.見事な沙羅の木
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11.沙羅の木の駒札
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12.見事な国重文の本堂
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13.見事な本堂の須弥壇
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14.紅葉と三重塔
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2017/3/22

京都を見る!8.和泉式部が手ずから植え、寵愛した軒端の梅がある東北院!  文化財研修記

京都市左京区浄土寺にある時宗の寺院の東北院(とうぼくいん)がある。東北院は、平安時代の中ごろ、藤原道長が営んだ法成寺の東北に道長の娘(長女)上東門院彰子によって長元3年(1030)に建造された三昧堂です。山号は雲水山で、かつては法成寺に付属していた天台宗の寺院です。 康平元年(1058)2月、法成寺が焼失したとき、東北院も類焼し、同4年7月に再建されました。このころの東北院の位置は『拾芥抄』に「一条ノ南、京極ノ東、上東門院御所、元法成寺内東北角」とあり、現在の本禅寺・清浄華院・盧山寺?)のいずれかのあたりのようです。こちらも承安元年(1171)に焼失し、その後再建されましたが、江戸時代の元禄5年(1692)12月に火災にあい、当時上京の寺町通今出川下ルにあった真如堂や極楽寺・迎稱寺ともに翌年左京区浄土寺真如町に移転しました。この時に和泉式部ゆかりの“軒端の梅”の後継といわれる白梅も移され、弁財天女を祀る本堂の脇で咲きほのかに香っています。又、謡曲『東北(とうぼく)』で世阿弥元清の作、鬘物(かづらもの)で幽玄を基調としています。
「年が改まり、また春が来て、東国より行脚(あんぎゃ)の僧がこの東北院を訪れ、梅の木のあまりの美しさに魅了され、その由来を尋ねてみると、その昔、上東門院に仕えた和泉式部が手ずから植え、寵愛した軒端の梅であると聞いて、感激を新たにした。
僧が木陰に坐って法華経を唱えて供養していると、朧月夜(おぼろづきよ)の闇の合間から和泉式部の霊が現れて昔日の東北院での生活の様子を語り、詠歌の功徳を説いて歌によって得た仏の道を語って消えた。旅の僧は夢からさめると仄かに梅の香りが漂っていた。……」
和泉式部が梅の花を愛で詠んだ歌に、次のような歌があります。
むめ(梅)の香を 君によそへて みるからに
花のをりしる 身ともなるかな 『和泉式部続集』
―梅の香をあなたの袖の香になぞらえて梅を見るばかりに、花の咲く時節を知る身となったのだと。
むめ(梅)が香(か)に おどろかれつつ 春の夜(よ)の
闇(やみ)こそ 人はあくがらしけれ 『千載和歌集』
―梅の香に恋人の袖の香を思い出し、はっとさせられる。「あやなし」と言われた春の夜の闇こそ人の心を虜にするものだと。
 
1.東北院の山門
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2.駒札
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3.本堂と横にある「和泉式部ゆかりの“軒端の梅」
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4.同上
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5.同上
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6.同上
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2017/3/20

京都を見る!7.菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)とも呼ばれる後一条天皇陵!!  文化財研修記

京都市左京区神楽岡町の銀閣寺にほど近い吉田山公園の南に後一条天皇陵があります。ここには後一条天皇とその皇女であり後冷泉天皇皇后の章子内親王の陵が二基並んで築かれています。菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)とも呼ばれています。一条天皇の中宮で、藤原道長の娘・彰子の生んだ敦成(あつひら)が後一条天皇です。三条天皇の退位で、わずか8才で即位しました。祖父の道長が摂政を務め、続いてその子頼道が摂政、後に関白となり、藤原氏繁栄の中、在位しました。後一条天皇は長元9年(1036)、29歳で病のため崩御されました。遺骨は浄土寺に安置され、火葬所の跡に母彰子は伽藍を建て、天皇の供養を行い、これを菩提樹院と号しました。その後、遺骨は菩提樹院へ移されましたが、荒廃したため、明治の中頃、現在の陵に移されました。

1.後一条天皇陵 駒札
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2.後一条天皇陵
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3.同上
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2017/3/18

京都を見る!6.竹中稲荷社・天満宮社など!  文化財研修記

京都市左京区吉田神楽岡町には主祭神の宇賀御魂神・猿田彦神・天鈿女神や末社の天満宮など多くの塚など祀る竹中稲荷社(たけなかいなりしゃ)がある。創祀は不明。古記に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍らに卜す」とあり、天長年間には社殿があったことが伝わる。天保11年(1840)に信徒の寄付で社殿が造営されたと記録され、「京師の幾萬の子女が郡詣し、昼夜の別なく満山に踊躍す。是を蝶々踊と云い、其の後数千の鳥居が参道に樹立し、雨雪の為に傘を要せず」とある。現在も竹中稲荷講社が組織され、多数の崇敬者が講員に加入している。
 天満宮社は、地福院に祀られていたのを嘉永5年(1852)、現地に遷座。稲荷社・天満宮社ともに、明治5年に末社に定められている。神楽岡の頂の東側、和琴坂のその先に竹中稲荷社がある。北へ向かう参道。往時は数千の鳥居が樹立したという。
 
1.朱の一の鳥居
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2.まるで伏見稲荷退社の朱の鳥居のようです!
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3.朱の鳥居が連続しています!
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4.朱の鳥居の末社の天満宮社
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5.駒札
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6.竹中稲荷社拝殿
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7.本殿
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8.末社の竹春神社、右は竹丸神社
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9.周辺には多くの神社や塚があります!
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2017/3/16

京都を見る!5.黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る宗忠神社!  文化財研修記

京都市左京区吉田下大路63には黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る宗忠神社(むねただじんじゃ)がある。黒住宗忠は嘉永3年(1850)に歿し、安永3年(1856)に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久2年(1862)、宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて宗忠を祀る神社を創建した。慶応元年(1865)には朝廷の勅願所とされ、皇室や公家から篤い崇敬を受けた。明治時代には県社に列格した。岡山の宗忠神社との区別のため、鎮座地名から「神楽岡宗忠神社」とも呼ばれる。流造の本殿は明治45年(1912)に改築されたものである。

1.宗忠神社鳥居と標柱
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2.駒札
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3.宗忠神社の神井戸由来
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4.神井戸
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5.駒札
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6.本殿正面
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7.本殿を横から見る!
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8.駒札
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9.忠春社
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10.駒札
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11.神名宮本殿
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2017/3/14

京都を見る!4.京都を見る!2.国の重要文化財の末社・斎場所の大元宮を持つ吉田神社3−3!   文化財研修記

京都市左京区吉田神楽岡町30番地には奈良の春日大社から勧請し建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命、天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神(ひめのかみ)を祀る吉田神社(よしだじんじゃ)がある。貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469−1487)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(明治5年に宮中に遷座した[1])を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。竜沢池(たつざわのいけ) 境内南に位置する。奈良の猿沢池を真似てつくられた池で、大正末年まで雨乞い神事が行われていた。

1.山蔭神社の駒札
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2.山蔭神社
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3.吉田神社末社の国重文の斎場所(さいじょうしょ)大元宮の標柱
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4.駒札
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5.斎場所大元宮を正面から見る!
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6.同上
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7.拝殿正面
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8.国の重文の特異な本殿
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2017/3/12

第50回京都府立綾部高等学校吹奏部記念定期演奏会が盛大に開催された!  あやべの街

3月12日日曜日午後2時から京都府中丹文化会館で「第50回綾部高等学校吹奏部定期演奏会」がOB・OBも多数参加で盛大に開催されました。素晴らしい演奏と久し振りに懐かしい校歌を聞き感嘆し、堪能しました。

1.プログラム表紙
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2.福井真介綾部高等学校長のご挨拶
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3.綾校吹奏部メンバー
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4.アップで見る!
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5.第一部2番目の「千と千尋の神隠し」メドレーは下記をクリックして「音声付動画」で見て下さい!
https://youtu.be/AWASBspcYi8

6.全員が移らないので、移動して見る!
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7.第3部は第50回記念OB・OGのを含めたメンバーです!
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8.OB・OGを含めて、綾部高等学校の校歌を斉唱です。「音声付動画は」下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/QZZSBvtN4bY


9.OB・GBを含めた「ルパン三世のテーマ」は下記をクリックして「音声付動画」を見て下さい!
https://youtu.be/JwmAAtNBAQU


10.再度3部見事な演奏を聴く!
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11.綾高吹奏部の音声付動画「恋」は下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/HazuU_LhgYg


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2017/3/12

京都を見る!2.国の重要文化財の末社・斎場所の大元宮を持つ吉田神社3−2!  文化財研修記

京都市左京区吉田神楽岡町30番地には奈良の春日大社から勧請し建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命、天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神(ひめのかみ)を祀る吉田神社(よしだじんじゃ)がある。貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469−1487)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(明治5年に宮中に遷座した[1])を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。竜沢池(たつざわのいけ) 境内南に位置する。奈良の猿沢池を真似てつくられた池で、大正末年まで雨乞い神事が行われていた。

1.若宮社前の青銅の鹿
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2.さざれ石
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3.吉田神社本宮へ
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4.本宮前の朱の鳥居
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5.駒札
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6.神楽岡社への石段参道
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7.吉田神社本宮の一部
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8.同上
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9.本宮正面
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10.見事な春日造りの本殿(第1殿から第4殿まで横に1列に並んでいます。)
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11.摂社菓祖神社(かしそじんじゃ)の鳥居
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12.菓祖神社への参道
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13.駒札
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14.菓祖神社
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2017/3/10

京都を見る!2.国の重要文化財の末社・斎場所の大元宮を持つ吉田神社3−1!  文化財研修記

京都市左京区吉田神楽岡町30番地には奈良の春日大社から勧請し建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命、天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神(ひめのかみ)を祀る吉田神社(よしだじんじゃ)がある。貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469−1487)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神(1484)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(明治5年に宮中に遷座した[1])を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。竜沢池(たつざわのいけ) 境内南に位置する。奈良の猿沢池を真似てつくられた池で、大正末年まで雨乞い神事が行われていた。

1.末社の祖霊社
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2.駒札
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3.手水舎
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4.表参道の朱の鳥居
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5.末社の今宮社( 祭神:大己貴神・大雷神・健速須佐之男命、社殿内と境内に、四神を配した石がある。)の鳥居
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6.今宮社の舞殿と拝殿
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7.今宮社の拝殿
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8.駒札
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9.内陣にある朱雀石をを除いて三神石
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10.同上
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11.同上
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12.吉田神社本宮への登り参道
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13.途中の杉の巨木
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14.吉田神社境内図
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15.駒札
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16.若宮社拝殿(吉田神社本宮は次回掲載します。)
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